胡同といえば、元の時代から受け継がれた時代の遺物。歴史に興味がある人には面白いかもしれないが、全体としては古臭く、遅れているもの、と思われがちだ。先回ご紹介した南鑼鼓巷にしても、若者たちの心をとらえた流行のデート・スポットになっていながら、タクシーの運転手などからは未だに、「こんなに古臭い平屋のどこがいいんだ?」と吐き捨てるように言われることがある。

 だが胡同は本当に「古い」だけだろうか?いや、実際は胡同と斬新なアイディアとの相性は、なかなかのものなのだ。

「箭廠空間」の展示 ある美術関係の友人に誘われ、国子監の西にある箭廠胡同を訪れた。平屋とマンションが入り混じる、何の変哲もない胡同だ。だがそこでは、そんな外見を逆手に取った、かなり実験的なアート・プロジェクトが繰り広げられていた。「箭廠空間」と名付けられた、一種のアート展示プロジェクトで、あるインディペンデント・キュレーターと芸術家らが一緒になって企画・オーガナイズしたもの。胡同の中の10平米ほどの小店舗を、展示スペースとして改造し、一定の期間ごとに作品展示を行っている。現代アートの世界では、芸術作品をギャラリーや美術館といった、美術用の固定された空間から解き放つ試みが繰り返されてきたが、これもその一つといえるだろう。

 箭廠胡同は、まるで嵌めこまれたように小さな商店が並ぶ狭い横町。各店の店先を埋めているのは、手軽で安価な日用雑貨や食品ばかり。そこに突然、ガラス張りの展示空間が現れる。予想外の場所で、突然「芸術作品」らしきものと遭遇した人々は、何が何だか分からず、首をかしげる。急いでいる人なら、気づかずに通り過ぎてしまうかもしれない。そこで筆者が連想したのは、以前、日系デパートの地下食品売り場で現代アートの展覧会が開かれているのを取材した時のこと。いずれも、人々の日常生活と現代アートとの突然かつ意表をつく接触が生む化学反応が興味深い。

「胡同季節」展で発表された張全さんの作品

 特に面白いのは、周辺の環境を巻き込んだ展示だ。展示スペースの隣には、いかにも日常的な小麦粉の主食である、マントウや焼餅(シャオビン)を売る店があるが、芸術家、王功新氏のインスタレーション作品は、展示スペースの前面をこのマントウ屋と同じように改装し、そこに夜、マントウ屋の風景をビデオ撮影したものを投影したもの。いわば虚像の「マントウ屋」を現出させたもので、虚と真の対比が生む視覚的な面白さももちろんだが、ブランド物はもちろん、銀行までコピーが登場したことがあるコピー大国の中国で、敢えて最も人々にとって身近な主食店を「コピー」してみよう、というウィットが面白い。

 また、展示スペースの一帯は、雍和宮という北京最大のラマ教寺院や孔子廟が近いこともあり、宗教的、儒教的な雰囲気が濃厚な場所だ。そんな中、溶かした飴で経文を書き、固まった先から手で払いのけてしまう、という行為を撮影したビデオ作品も展示された。観る者によって印象は様々だろうが、筆者は言葉を扱う者として、そこに経典の言葉でさえも甘い飴による一時的な造形に過ぎない、というメッセージを感じ、現代における言葉の軽さ、もろさにどきりとしたのだった。

 一方、写真作品と胡同との相性も抜群だ。胡同の風景の魅力をかなり早い段階で大々的に日本に紹介した徐勇氏が写真家であっただけでなく、先述の南鑼鼓巷のカフェのオーナーの多くが、胡同カフェ文化の開拓者をも含めて、写真家、あるいはカメラ・ファンなのだ。中には、カフェをミニギャラリーにして、様々な写真作品を展示しているところもある。

 ちなみに、本コラムにしばしば写真を提供してくれている張全さんも、そんなカフェの一つ「文鳥カフェ」(前円恩寺胡同14号)で現在、個展「胡同季節」を開いている。作品は、胡同が時を越えて見せる永遠の表情を季節ごとに追ったもの。敢えて懐古的な色付けを避けたカラー作品だが、何気ない風景がどこかシュールに見えてくるのが不思議だ。

 クリエイティブな試みを誘発し、その発表の場をも与えているのが、「古い」ばかりでない、胡同のもう一つの顔だ。胡同を歩いていると、いかにも伝統的な四合院ならではの門構えが並ぶ中に、突然、中国風と西洋風が入り混じった、民国期の独創的なファサードが現れることがある。
 そんな時、創造のエネルギーが、胡同ならではの磁場と独特の共鳴を奏でているのが、さらに歴史的な立体感をもって感ぜられるのだ。

 ◎参考サイト:http://www.arrowfactory.org.cn/?page=projects