北京の胡同から

第59回

新たな写真の祭典 北京国際写真ビエンナーレがスタート

 どんな試みでも、最初の一歩は貴重だ。それが海外とのつながりを視野に入れた試みなら、なおさらだ。10月24日、北京における初の写真ビエンナーレ、「第一回北京国際写真ビエンナーレ アウラとポスト・アウラ」が中華世紀壇をメイン会場としてスタートした。運営は中央美術学院美術館が担い、展示は12月7日まで続く。

写真をめぐる、新たな大型イベント

 おそらく多くの人が一瞬、混乱するが、今回のビエンナーレは、同時に開催され、会場も隣接している「北京国際写真ウィーク2013」とはだいぶ性質を異にしている。国の文化部と北京市政府の主催による「北京国際写真ウィーク2013」は、撮影家協会などの既成の団体の作品を中心に扱った展覧会。一方、ビエンナーレの作品は、より現代アートの展覧会としての柔軟性を備え、テーマも手法も新しい可能性を模索しているものが中心だ。なお、名前そのものからも分かるように、ビエンナーレは今後一年おきの開催が予定されている。
 北京で写真の祭典、といえばここ数年、三影堂撮影芸術センターをメイン会場として開かれていた「草場地春の写真祭」が大きな存在感を放っていた。だが、三影堂の発起人の一人である映里さんによると、「元々アルル側と3年を区切りとした企画で話を展開していたため、3年間の開催期間をもって終了した」とのこと。その後も「三影堂の企画で、写真祭を別に展開して行く」という案があったが、最終的には実行に移されなかったという。
 正直なところ、今回始まったビエンナーレについては、形式上、政府主導の写真祭だったこともあり、保守的な傾向の強い、自己満足的なものなのではないか、と心配をしていた。だがアート・ディレクターが現中央美術学院美術館館長の王璜生氏だったこともあり、作品のレベルは一定以上を維持。海外の作品こそ少なかったものの、国内の作品に関しては、作風にある程度のバラエティも感じられる展覧会となっていた。
 王璜生氏といえば、2003年に広州トリエンナーレがスタートした際、メイン会場となった広東美術館の館長を務め、企画委員にも名を連ねていた人物。当時、広州の会場に足を運んだ私は、珠江の川底の汚染された泥を使った彫塑、性転換手術のビデオ、広東語への差別を皮肉った作品など、強い批判精神を秘めた作品の数々に息を飲んだ。テーマも表現も、当時はもちろん、今から見てもかなりチャレンジングなもので、公立の美術館でここまで大胆な展示ができるとは、と目からうろこだった。
 ちなみに、王氏は北京ビエンナーレや広州国際写真ビエンナーレの企画にも関わった経験があり、国際美術展の企画経験が豊富だ。また、新たな領域の作品の発掘と展示にも積極的で、2009年に中央美術学院の館長に就任してからも、デザインや民国期の美術をめぐる画期的な展覧会を行っている。
 実は、今回のビエンナーレの準備が始まったのは、今年の2月。8カ月で「国際」規模のビエンナーレを実現してしまうという荒業が可能だったのも、氏の経験の豊かさゆえだろう。

アウラとポスト・アウラ

 今回の写真ビエンナーレで企画を手掛けたのは、王氏のほかに有名な写真評論家の顧錚氏、写真雑誌の編集長でキュレーターでもある李媚氏、写真家で三影堂の創始者でもある栄栄氏、オランダのパラドックス基金会のディレクターでキュレーターでもあるバス・ブロガ氏、中央美術学院美術館の学術部の蔡萌氏といった錚々たるメンバー。展覧会全体はテーマ展、国際展、若手キュレーターによるノミネーション展、コレクション展に分かれていたが、やはり分量的にはテーマ展が大きなウェイトを占め、さまざまなジャンルにまたがるクロス・ディシプリン、日常生活を掘り下げたもの、風景、身体とアイデンティティなど、六つのジャンルに分けて展示が行われていた。

テーマ展における盧広の作品、炭鉱の採掘により陥没が多数発生したホロンバイル草原を撮影、2012年(写真/張全)

▲テーマ展における盧広の作品、炭鉱の採掘により陥没が多数発生したホロンバイル草原を撮影、2012年(写真/張全)

同上、鄭知淵「上海イメージ」シリーズの中の「十六鋪」、2010年(写真/張全)

▲同上、鄭知淵「上海イメージ」シリーズの中の「十六鋪」、2010年(写真/張全)

同上、区志航「あの時」2008年5月12日、14:28 汶川大地震(写真/張全)

▲同上、区志航「あの時」2008年5月12日、14:28 汶川大地震(写真/張全)

同上、王慶松「フォロー・ユー」、2013年11月23日(写真/張全)

▲同上、王慶松「フォロー・ユー」、2013年11月23日(写真/張全)

同上、劉勃麟「アーバン・カモフラージュ――北京の雑誌」、2011年(写真/張全)

▲同上、劉勃麟「アーバン・カモフラージュ──北京の雑誌」、2011年(写真/張全)

同上、張克純「川辺で魚を捕る人」、2011年(写真/張全)

▲同上、張克純「川辺で魚を捕る人」、2011年(写真/張全)

同上、劉傑「空洞化──農村の痛み」シリーズの1作。4人が出稼ぎに出た家を撮影、2011年(写真/張全)

▲同上、劉傑「空洞化──農村の痛み」シリーズの1作。4人が出稼ぎに出た家を撮影、2011年(写真/張全)

占有兵 上「面接を待つ」2011年、下「採用試験」2007年、いずれも広東省東莞市で撮影(写真/張全)

◀占有兵 上「面接を待つ」2011年、下「採用試験」2007年、いずれも広東省東莞市で撮影(写真/張全)

 今回のテーマ「アウラとポスト・アウラ」については、「企画者グループ」の署名の下、パンフレットにこんな説明が付されている。少し長くなるが、要所を訳すと以下のようになる。

「『アウラ』はベンヤミンの美学体系の中のキーワードの一つで、古典芸術と現代芸術を分ける目じるしだとされている。かつての芸術では自らの手で作ること、美と醜を見分けること、崇拝の対象とすることなどのプロセスによって『アウラ』が生じていたが、機械的なコピーの時代の芸術においては、これらのプロセスは取り去られた。その結果、古典芸術の作品が内から発していた生命の息吹や、その外を包んでいる霊的な余韻、および作品に賦与された光の輪が混じりあうことで生まれる『アウラ』が、消えたり暗くなったりしている。ベンヤミンのいうこの芸術の『アウラ』の消失は、おもに写真、映画の出現、およびそれらのもたらした印刷、包装、テレビなどの新たな技術や伝播に代表されるメディアの変革によるものだ。だがデジタル情報技術の時代に入った今日、私たちはこの『アウラ』を焼失させた「元凶」について、新たな検討を行っていく──撮影をする時に気付くのは、いわゆる芸術の『アウラ』は、時には転化された結果、ふたたび『リ・アウラ』となっているかもしれず、時には一般化されてもっと開放的な形態と意義を有する『ポスト・アウラ』となっているかもしれないことだ。
 デジタル技術情報の革命は、ある種クレイジーで、スピーディで、バーチャルで、魅力的で、超越的な方法によって芸術の媒介のスタイル、創作の観念、表現、伝播される手段を変えつつある。それはまた次第に、私たちの芸術に対するまなざしと態度をも変えつつある。
『アウラとポスト・アウラ』が『第一回北京国際写真ビエンナーレ』のテーマに選ばれたのは、一つには異なる二つの状態におかれた写真芸術を互いに参照させ、次元をつきあわせることで、関連する問題を立ち上がらせるためであり、もう一つには過去と現在、ローカルと国際性、メディア(技術)と社会的コンテクストの関係の中において、写真がいかに新たな認知と体験を生み、表現するか、そしてこの『ポスト・アウラ』に満ちたデジタルの時代に、現在の芸術の『アウラ』の特徴と意義を、いかに新たに把握し、認識し、定義し直すべきかを考えるためだ。……いかにすれば、人工的で、社会学的で、ハイテクな『アウラ』によって、『ポスト・アウラ』の時代の芸術を、新たな芸術的価値と基準をなぞらえつつ構成し直し、拡散させ、生成していくことができるのか。
 消す、弱める、温め直す、構成しなおす……そのいずれの手段をとるにせよ、──(中略)──こういった『アウラ──リ・アウラ──ポスト・アウラ』のプロセスの間にも、あらゆる人の前に『ポスト・アウラ』の時代はひっそりと到来している。『アウラとポスト・アウラ』の意義と価値をいかに理解し、把握するか、それは一種の渇望であるだけでなく、むしろ理論の探究であり、実際の行動でもある」

 膨大な数の作品をまとめた展覧会なので、全体のテーマがかなり包括的になってしまうのはやむを得ないのだろう。乱暴であることを承知で要点を言えば、かつて芸術を芸術たらしめていた「アウラ」は、この否応なきデジタル化の時代にどんな変容を遂げるのか。消え去るのか、復活するのか、形を変えて立ち現われるのか、理論的探究と実際の行動を通じてその可能性をつきとめてみよう、といったところかもしれない。

テーマ展の展示風景(写真/張全)

▲テーマ展の展示風景(写真/張全)

同上、上にあるのは今回のビエンナーレのロゴ(写真/張全))

▲同上、上にあるのは今回のビエンナーレのロゴ(写真/張全)

 ちなみに、今回のビエンナーレのロゴは、「撮影禁止」をイメージさせる、ややどぎついものだった。実は、このビエンナーレのパンフレットは一風変わっていて、この「撮影禁止風」ロゴマークがたくさんステッカーのように貼ってあり、それをはがすと下にさまざまな形のカメラ(×入りでないもの)が現れるというもの。さまざまな解釈が可能で、例えば表現のタブーへのチャレンジを促しているようにも見えるし、いったいどれだけの個性ある作品が、「×マーク」をつけられてきたのか、という憶測もできてしまう。誰もがカメラを手にする時代も象徴しているかのようで、どこか意味深だ。

紛争地域の諸相

「リ・アウラ」の解釈により、気付かされるのは、比率こそ小さかったが示唆的で見ごたえもあった国際展「地図上的点:文化空間における衝突の表現」の四つのブロックのタイトルに「リ(中国語で「再」)」がつけられている理由だ。それぞれ「リ・アフガニスタン」、「リ・コーカサス」、「リ・イスラエル──パキスタン」、「リ・ラテンアメリカ」とされ、紛争のエンドレスさや、別の場所での再演の可能性まで感じさせるタイトルとなっていた。展示された写真の語る現実はさまざまだったが、個人的には、ただそこにあり続ける深刻な社会の矛盾と、それらを独自の美学で切り取る作者の存在、そしてその間で無機質な存在として介在するレンズ、それらの位置関係を改めて吟味させる作品が多かったように思う。
 ちなみに、国際的な紛争や衝突の場を端的にとらえた、いわば禁区に踏み込んだ作品の数々は、同種の問題が浮上しつつある東アジアの未来を暗示しているとともに、それらを直接扱った作品は展示しづらいという、程度こそ異なれ日中で共通するであろう現状をも意識させた。ここでまた×マークが印象的となる。

 この他、今回のビエンナーレでは、ノミネーション展において若手、新進作家の発掘も行われていた。また、北京で初めての写真ビエンナーレということを意識してか、過去の写真作品を総括する意味合いも込められていたようだ。それはとくにコレクション展から強くうかがわれた。三影堂撮影芸術センターや中国系アメリカ人の写真コレクターである靳宏偉(チャールス・ジン)のコレクション展は、これから写真を本格的に鑑賞しようとする人々にとって、貴重な足がかりとなり得るもので、鑑賞者を育てる、というビエンナーレのパブリックな一面を感じさせた。

「『新撮影』から『新人賞』まで──三影堂のコレクションより」で展示された何崇岳の「人口高齢化」シリーズの作品「山西省太原市陽曲県大孟鎮」、2010年(写真/三影堂撮影芸術センター提供)

▲「『新撮影』から『新人賞』まで──三影堂のコレクションより」で展示された何崇岳の「人口高齢化」シリーズの作品「山西省太原市陽曲県大孟鎮」、2010年(写真/三影堂撮影芸術センター提供)

同上、高波「チベット人たち──三人の男の子」、1995年(写真/三影堂撮影芸術センター提供)

▲同上、高波「チベット人たち──三人の男の子」、1995年(写真/三影堂撮影芸術センター提供)

同上、張晋「また別の季節」シリーズより、2009-2011年(写真/三影堂撮影芸術センター提供)

▲同上、張晋「また別の季節」シリーズより、2009-2011年(写真/三影堂撮影芸術センター提供)

三影堂撮影芸術センターでの展示風景(写真/三影堂撮影芸術センター提供)

▲三影堂撮影芸術センターでの展示風景(写真/三影堂撮影芸術センター提供)

同上(写真/三影堂撮影芸術センター提供)

▲同上(写真/三影堂撮影芸術センター提供)

靳宏偉(チャールス・ジン)のコレクション展のポスター(写真/三影堂撮影芸術センター提供)

◀靳宏偉(チャールス・ジン)のコレクション展のポスター(写真/三影堂撮影芸術センター提供)

 何はともあれ、写真や画像というのは今の中国において、さまざまな議論や制限の対象になりやすい存在だ。ネット上では毎日さまざまな画像がアップされては削除され、画像を送る場合はバイク便でも内容をチェックされる。そんな状況がもたらす不安や焦燥感、そしていわく言い難い閉塞感のなか、既視感を覚える作品も多少あったにせよ、今回のビエンナーレで、中国において写真をめぐる表現が、まだまだ貪欲に、新たな可能性を探り続けていることを感じられたことは貴重だった。
 残念なのは、国際の二文字を冠していながら、海外の作家の作品の展示がごく限られていたことだが、こちらは、今後の充実に期待したい。

コラムニスト
多田 麻美
フリーのライター、翻訳者。1973年静岡県出身。京都大学で中国文学を専攻後、北京外国語大学のロシア語学科に留学。16年半の北京生活を経て、2018年よりロシアのイルクーツクへ。中国やロシアの文化・芸術関係の記事やラジオでのレポートなどを手がける。著書に『老北京の胡同』(晶文社)、『映画と歩む、新世紀の中国』(晶文社)、『中国 古鎮をめぐり、老街をあるく』(亜紀書房)、訳著に王軍著『北京再造』(集広舎)、劉一達著、『乾隆帝の幻玉』(中央公論新社刊)など。共著には『北京探訪』(愛育社)、『北京を知るための52章』(明石書店)など。
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