北京の胡同から

文化財を守り、公開し、継承する──万松老人塔と「磚読空間」

 北京でよくお世話になっている古書店、「正陽書局」が分店を開いたと聞いて、西城区にある古い歴史をもつ胡同、磚塔胡同を訪れた。新しい店は、ぴったりだといえばぴったりなのだが、それでもちょっと意外な場所にあった。

閉ざされ続けた古塔

 現在残っている北京の構造の基礎は明の永楽帝の時代に築かれたものだとされているが、実際にはそれより前の元代に歴史が遡れる部分もけっこうある。北京の旧内城部分、つまり現在の二環路以内の大半は、元の時代に大都があった部分と重なっているからだ。そのため、胡同や古い建築物の中にもいくつか元の時代から継承されているものがあり、その一つが磚塔胡同だ。
 磚塔胡同には名物が二つある。一つは、著名な文学者である魯迅が一時期住んでいた家の跡だが、もう一つは万松老人塔だ。「正陽書局」の分店、「磚読空間」が入ったというのは、何とこの万松老人塔の敷地の中だという。

万松老人塔と「磚読空間」への入り口

▲万松老人塔と「磚読空間」への入り口

 万松老人とは、元代の曹洞宗の僧侶、万松行秀禅師のことで、開国の功臣であった耶律楚材も師と仰いだ人物。81歳で逝去した万松老人を記念して弟子たちが建てたのがこの万人老人塔で、すでに800年ほどの歴史をもつ。何度か改修を経ているものの、もともとやや寂れていた上に、戦時中はますます顧みる人が減り、1940年以降はとうとう歯医者の私有地に。その後、長らく一般開放されることはなかった。
 私が最初にこの塔を訪れた10年ほど前も、塔は見えるのに、門の部分は写真の現像屋にふさがれていて、敷地内には入れなかった。その後、塔が改修工事に入ると、塔自体も見えなくなった。改修工事が終わり、若干きれいすぎて安っぽくなったように見える塔が出現しても、敷地は閉ざされたままだった。

古塔の下で北京文化に触れる

 だが今回、「正陽書局」の分店として新しくオープンした「磚読空間」を訪れると、復活した山門から堂々と入れるばかりか、塔を至近距離で眺めることができた。これは付近の住民にとっても新鮮らしく、ある住民代表が、何十年も付近に住んできたが、この敷地に入ったのは初めてだと語っていた。
 オープニングのセレモニーでは、北京文化の紹介によって人気を博した番組「這里是北京(ここは北京)」でキャスターを務めた人気アナウンサーの阿竜が司会を担当。舞台上には、区や文化関係の役人や北京文化に造詣の深い作家なども何人か集まった。

店主崔勇さん(一番左)とオープニングに集まった文化関係者

▲店主崔勇さん(一番左)とオープニングに集まった文化関係者

 彼らの話を聞くうち、今回ここが公開されたいきさつが分かってきた。修復された文化財である万松老人塔をどのような形で公開するかについては、さまざまな議論があったようだ。北京ではよく文化財建築を民間の企業が借りてオフィスとして利用しているが、もし万松老人塔の敷地も同じようにすれば、参観を望む来訪者の多くを門前払いすることになる。だが、かりに客を「呼び込む」形の飲食業者などに貸しても、あまりに営利性の強い店だと騒音や独占性によって市民の反発を買う上、文化的な雰囲気を損ねてしまい、北京の歴史や文化を紹介するという本来の目的を十分に達成できない。そこで、公共性が強い上、一般の人々を呼び込め、しかも営利性の低い正陽書局に白羽の矢が立ったという訳だった。

北京文化に特化した書店

 そもそも「正陽書局」とは、現在30歳の崔勇さんがまだ20代の頃に前門の廊房二条に開いた古書店。北京の地理や歴史、文学などに関する古い書籍を、ごく貴重なものも含め、多種集めていることで老北京ファンに人気の店だ。しかも店長の崔さんは、6代前の先祖から北京の前門近くに住んできたという家柄の出身。彼自身がもつ、古書の収集と販売を通じて北京文化にまつわる知識の保存と普及に努めたいという強い自覚と抱負は、多くの文化人たちの支持を得てきた。そこで、崔さんの姿勢に感銘を受けた関係者の推薦により、今回、正陽書局が試験的に「万人老人塔との合作パートナー」に選ばれたのだった。

磚読空間に並ぶ貴重な書物

▲磚読空間に並ぶ貴重な書物

店舗の内部

▲店舗の内部

 もちろん、古書店でも個人で開いている以上は営利性がある、という反論もあり得る。だが、昨今の中国ではリアル書店は日本以上に苦戦を強いられている。書籍関係はネット販売が最盛期にあり、古書も例外ではないからだ。中国のネット書店は購入時の割引率も日本より高いため、リアル書店の多くは半分、サンプルの展示場と化している。
 だから今回、資料的価値の高い書籍を幅広く集め、しかも希少本でも実際に棚に並べて誰でも手に取って見られるようにしている正陽書局が、「公益性の高い書店」として認められたのは、無理もないことだった。しかも今回新たにオープンした空間では、貴重な本は「展示品」として扱い、専用スペースで誰でも手に取って読めるようにする他、一部の本については1カ月以内の貸出さえ行っている。

ボロボロの手稿

 今回オープニングに参加した著名作家の一人、靳飛氏は自らの所有していた貴重で象徴的な文献を磚読空間に寄贈した。それは北京出身の文学者、蕭乾が90歳を前に仕上げた『ユリシーズ』の貴重な訳稿で、意外にもかなり簡素な紙の上に書き連ねられたものだった。その貴重な営みの痕跡は、文化の伝承と普及という営みが、個人の並々ならぬ努力に支えられていること、そして人が知識欲を貫くことの大切さを生き生きと語っていた。
 この文献の収蔵が象徴するように、磚読空間では今後も、「北京」をキーワードに、「北京出身の作家の書物、北京に関する書物、北京で書かれた書物」の三つを網羅していくという。

蕭乾の手稿の贈与式

▲蕭乾の手稿の贈与式

 もっとも、靳飛氏によれば、正陽書局のような試みは貴重だが困難も多いという。実際、1986年にもある人が北新橋のごく小さなスペースで似た趣旨の「幽州書屋」という小さな本屋を開いた。当時は老舎の名著『四世同堂』のドラマが人気を博した後で、北京を代表する作家、老舎の作品専用の棚を設けたりしたという。だが結局、経営を維持するのは大変で、間もなく閉店に追い込まれた。
 つまり、当時以上にリアル書店が苦戦を強いられている今、貴重な伝統文化の紹介、という書店の一面を強調することは、書店が生き残るための大事な戦略でもある。それをもっともはっきりと形にしていたのが、塔を囲んだ敷地の一角の展示室。万松老人塔の敷地の模型や、磚塔胡同に住んだ魯迅や張恨水らについて紹介したパネル、また古い地図などが並び、磚塔胡同エリアが育んできた文化や歴史の重要性を視覚的に訴えていた。

店主の崔勇さん

◀店主の崔勇さん

実物から感じる歴史

 こういった試みは、地味ではあるが、とても大事なことに違いない。北京でしばしば感じるのは、かりに保護すべき文化財があっても、一般の市民はもちろん、付近に住む住民までもが、その価値を十分に正しく理解していない、ということだからだ。
 胡同を歩くなかで、私はほんの数十年前までは主が住んでいた建物でも、伝説に尾ひれがつくうちに、その由来が事実とまったく異なる形で語り継がれているらしきケースを、いくつか目にした。しかも商業利用するため、敢えてその根拠のない伝説を利用したり、ひいては伝説を作り出したりしてしまうケースもある。西太后や李連英を始めとする歴史的に有名な人物にゆかりの場所、となると、まゆつばものはさらに多い。
 さすがに仏教関係の建物や有名人の故居などは、きちんとした記録が行われていることも多いが、それでも完全とは限らない。この万松老人塔を起点に、今後より多くの「隠された」文化財が公共の空間として公開され、詳しく、正しく紹介されていけば何よりだ。そういった意味で、今回の万人老人塔の公開は、記念碑的意義をもっている。
 もちろん、崔勇さんも無料で敷地を利用している訳ではないため、書店が採算をとるのは大変だろう。そんな中、崔さんは本来の店である廊房二条の正陽書局の方も営業を続けるということで、何とも頼もしい。一利用者として、また老北京文化の愛好者として、今後のさらなる活躍が心から期待される。

コラムニスト
多田 麻美
フリーのライター、翻訳者。1973年静岡県出身。京都大学で中国文学を専攻後、北京外国語大学のロシア語学科に留学。16年半の北京生活を経て、2018年よりロシアのイルクーツクへ。中国やロシアの文化・芸術関係の記事やラジオでのレポートなどを手がける。著書に『老北京の胡同』(晶文社)、『映画と歩む、新世紀の中国』(晶文社)、『中国 古鎮をめぐり、老街をあるく』(亜紀書房)、訳著に王軍著『北京再造』(集広舎)、劉一達著、『乾隆帝の幻玉』(中央公論新社刊)など。共著には『北京探訪』(愛育社)、『北京を知るための52章』(明石書店)など。
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