北京の胡同から

第66回

お寺と図書館の古くて新しい関係

 ある日、北京の花市にある東城区第二図書館、つまり区の合併前は崇文区図書館と呼ばれていた施設を訪ねた。とはいえ、本探しのためではない。ここに、お寺と公立図書館という、ちょっと新鮮だけれどどこか納得もしてしまう、興味深い組み合わせがあると知ったからだ。両者が組み合わされたきっかけは、崇文区図書館が本館を建て直す間、臨時の建物として「火徳真君廟」の址を利用したことだという。

アットホームな図書館

 この「火徳真君廟」とは、かつて勅旨によって建てられ、その後「火神廟」の名で親しまれた道教のお寺だ。
 今でこそ、その北京における知名度は高くないが、創建は明の隆慶二年(1568年)なので、実際は450年近い歴史をもっている。たび重なる火災によって、解放後は前院の主殿とその東西の配殿を残すだけになっていたが、2003年の改修時に、山門と後院の主殿、および東西の配殿を再建。その後は、前院の建物が崇文区図書館(のちの東城区第二図書館)の臨時の建物となったという。
 実際に訪れると、廟の建物は北京五輪前に大規模な再開発の対象となったエリアに隣接する、とても繁華な一角にあった。周辺にはモールやデパート、高層マンション、外資系のチェーン店も多く、正直、かつてこの建物がもっていたであろうオーラや厳めしさを想像するのは、至難のわざだ。

マンションとショッピングエリアに囲まれた「火徳真君廟」址

▲マンションとショッピングエリアに囲まれた「火徳真君廟」址(撮影:多田麻美)

再建されたという「火徳真君廟」の山門

▲再建されたという「火徳真君廟」の山門(撮影:多田麻美)

周辺は崇文門外の繁華なショッピングエリア

▲周辺は崇文門外の繁華なショッピングエリア(撮影:多田麻美)

 高層ビルの谷間に挟まれた古い建物、というギャップの激しさは、ちょっと香港の繁華街のお寺を連想させる。だが香港のそういった寺院の多くがまだ本来の機能を残しているのと比べ、この建物は図書館としてのみ用いられ、寺院としてはまったく機能していない。
 期待が大きすぎたせいか、実際に図書館の敷地に入ってみると、想像以上に小さなスペースだったので拍子抜けした。だが、考えようによっては、それはそれで気軽に入れる雰囲気で悪くない。実際、小さなわりに図書館の利用者は少なくなく、けっこう頻繁に人が出入りしていた。

正面に書庫、右手に貸出カードの手続きをする部屋と児童書の書架が(撮影:多田麻美)

▲正面に書庫、右手に貸出カードの手続きをする部屋と児童書の書架が(撮影:多田麻美)

一般向けの書籍を並べた開架書庫。閲覧室はない(撮影:多田麻美)

▲一般向けの書籍を並べた開架書庫。閲覧室はない(撮影:多田麻美)

廃寺を図書館に

 ただ正直なところ、蔵書の方は残念ながらとても少なく、北京の歴史や文化にまつわる本を並べた棚は狭い本棚のほんの2段ほど。崇文区がもつ厚い文化的蓄積と長く変化に富んだ歴史を思えば、ここが崇文区を代表する図書館だとは信じがたい。やはり、ハードの整備にソフトが追いついていない、という中国で広く見られる現象は図書館においてもある程度見られるようだ。
 ひとつ、ほっとしたのは、本館の建て直しが終わった後も、この図書館は残されると聞いたこと。蔵書も絶えず増加中だという。北京は東京などと比べ、公立図書館の絶対数が少ない。その欠が補われれば何よりだ。
 火の神様がいた廟が、火災に弱い本を守るというのは不思議な話だが、実際は火神廟といえど、文化財である以上、火は天敵。ある意味、同じ敵をもつ文化財と本を同時に保護するのはきわめて合理的なのかもしれない。お寺はあくまでお寺、と堅苦しく考え、すでに信者が失われたお寺にむりやり神像などを飾るよりは、お寺が本来もっていた知識の伝承と普及の場としての公益性を図書館という形で実現し、受け継ぐのも悪くない。本来の信仰が復活し、ここをまた宗教施設として使いたい、という人々が増えれば、その時にもう一度用途を検討し直せばいいのだ。
 北京には、雑居住宅化していたり、保護こそされていても、中ががらんどうだったりする寺院建築がたくさんある。また地方の農村などにいくと、参拝者が途絶え、廃墟化した寺廟址がいくつも目に入る。火神廟の再利用の例は、それらがすべて地区の図書館になったらどんなにいいだろう、という楽しい想像を掻き立ててくれた。

図書館と寺の深い縁

 そもそも、北京では寺廟と図書館は、深い縁で結ばれている。
 まず、現在の国家図書館の前身である京師図書館が最初に設置されたのは、後海のほとりに今も残る元代創建の古刹、広化寺の境内だった。1908年に張之洞が個人の蔵書をこの寺に運び、「京師図書館」の設立を申請したのがその始まりだからだ。中華民国が成立すると、この京師図書館は一般開放されて読者を受け入れるようになり、魯迅も社会教育司の部長として、しばしばここを訪れたという。もっとも開かれた期間は短く、その後、広化寺は通常の仏教寺院に戻る。

「京師図書館」があった広化寺。現在も多くの僧侶と信者を抱える生きたお寺として有名(撮影:張全)

▲「京師図書館」があった広化寺。現在も多くの僧侶と信者を抱える生きたお寺として有名(撮影:張全)

 一方の「京師図書館」は名称を変えたりしながら、やがて北海公園の西側、文津街に建物を構え、解放後は「北京図書館」と呼ばれるようになる。その後、建てられたのが、現在の白石橋の本館だ。北京図書館にはいくつかの分館が設けられてきたが、解放後から87年にかけては、古籍善本を収蔵する分館として、柏林寺の建物も利用された。こちらは閉架書庫で、閲覧者の申請に応じて、館員が本を探しにいくというシステムだったという。

柏林寺。今は開放されていないが、伽藍の保存状態はよく、配置もほぼかつてのまま(撮影:張全)

▲柏林寺。今は開放されていないが、伽藍の保存状態はよく、配置もほぼかつてのまま(撮影:張全)

 また、こちらはお寺ではないが、かつては国子監の建物に、首都図書館が入っていた。94年に初めて北京に行った時、古めかしい文化財建築の中で、学生たちが水筒を片手に本を閲覧している姿はとても新鮮だった。それまで北京図書館と呼ばれていた建物が新中国の成立とともに国子監に入ったということだから、当初は封建王朝の文化的シンボルを人民の共有財産に変えるという政治的な意図もあったのだろう。だが、清末まで国の最高学府とされた建物が、市を代表する図書館に変わるというのは、ある意味、理屈にかなってもいる。土地の本来の用途との相性がよかったからこそ、21世紀に入って広大で近代的な新館が作られるまで、国子監は図書館でもあり続けたのに違いない。

地方への普及に期待

 建物そのものが長らく不足し、監獄跡でも民家に転用するなどの徹底した実用第一主義をとってきた歴史的経緯に加え、基本的に建物が個人の力ではなかなか自由に建てられないシステムのせいか、そもそも中国では、既存の文化財建築の再利用に関し、日本より柔軟だと感じる。
 もちろん、それらがすべて好ましい結果になっているかというとそうではない。とくに近年、文化財建築が商業利用されるケースが増えると、いろいろな矛盾も生まれている。古寺の跡が高級なレストランやホテルになったために、過度の改造や火災に対する懸念などから、批判を集めているケースもある。批判されるくらいならまだいいが、特権をもつ人々の利権に関わるため、放置、黙認されているケースも少なくないだろう。そのため現状においては、中国における古建築の再利用のすべてを肯定できるわけではない。それに、古建築の修復と維持には資金と手間がかかり、技術力も必要とされるため、古建築の再利用は口で言うほど楽ではなく、安易にやればかえって文化財を破壊することにもなりかねない。
 だが「専用の建物がないから、新たに建てる」という道はとらず、埋没している文化財にもっと注目し、その従来の用途を柔軟に変え、建物に新たな命を吹き込む、というやり方は、まだまだ多様で新たな発展の可能性を秘めているように思う。
 今回の火神廟の図書館化がいわゆる「モデルケース」だったと考える根拠があるわけではないが、北京のプロジェクトはしばしば地方によって模倣され、影響を拡大する。となると、地方の農村で荒れ果てた寺廟跡をいくつも目にし、心を痛めてきた筆者としては、図書館の普及と文化財の再利用、および保護が同時にできて効率的かつエコロジーな組み合わせの登場に、ちょっぴり夢と期待を抱かざるをえない。

コラムニスト
多田 麻美
フリーのライター、翻訳者。1973年静岡県出身。京都大学で中国文学を専攻後、北京外国語大学のロシア語学科に留学。16年半の北京生活を経て、2018年よりロシアのイルクーツクへ。中国やロシアの文化・芸術関係の記事やラジオでのレポートなどを手がける。著書に『老北京の胡同』(晶文社)、『映画と歩む、新世紀の中国』(晶文社)、『中国 古鎮をめぐり、老街をあるく』(亜紀書房)、訳著に王軍著『北京再造』(集広舎)、劉一達著、『乾隆帝の幻玉』(中央公論新社刊)など。共著には『北京探訪』(愛育社)、『北京を知るための52章』(明石書店)など。
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