北京の胡同から

第67回

東北の旧市街地をめぐる旅 ①ハルビン

 中国の東北地方にはかつて帝政ロシアや日本が建てた建物がたくさんある、ということはかねてから聞いていたし、それらをいつかぜひこの目で観てみたい、ともずっと願ってきた。だがなかなか実際の行動に移すきっかけがなかった。東北地方に限らず、中国には存続が危ぶまれ、なるべく早く観ておいた方が良い古い街並みが各地にあり、どこを優先すべきかは、難しい問題だからだ。
 悲しいかな、こういう状態の時、実際に人を動かすのは、往々にして「喪失の危機」だったりする。今回もしかりで、私が「今すぐ、観に行かねば」という気持ちから東北旅行を計画し始めたのも、「必死の保護運動の甲斐なく、大連で歴史ある町並みが壊されてしまった」という生の情報を、東北出身の友人から耳にした時だった。
 そこで今年の夏、私たちは約10日間にわたる東北の旅に出かけた。

ハルビンを代表するロシア正教会の聖堂、聖ソフィア大聖堂。

◀ハルビンを代表するロシア正教会の聖堂、聖ソフィア大聖堂(撮影/張全)

ロシア風を前面に

 今回、最初に訪れたのはハルビンだった。
 ハルビンは過去に訪れたこともあるため、当初の計画では念頭になかったのだが、友人たちがハルビンとハイラルの旅行を計画したため、その計画に便乗させてもらうことにしたのだ。
 歴史ある建物が数多く残るハルビンの中央大街は、十年前と比べてだいぶ整備されている、という印象だった。よく知られているように、ハルビンは帝政ロシアの時代にロシア人たちが入植したことによって生まれ、満州国時代は、日本人の統治下に置かれた。ロシアを筆頭とする列強は競うように西洋古典様式、ビザンティン様式、ゴシック様式、アールヌーヴォー様式、アール・デコおよびモダニズム様式などの建物を建てた。やがて中国の商人たちが力をつけると、彼らも競うように洋風建築に中国的要素を盛り込んだ「中華バロック」の建物を建てている。街のあちこちに当時、各国が国力を誇示するかのように建てた西洋建築の数々は、もはやハルビンという街と切っても切り離せない存在のように見える。

現在の中央大街(撮影/張全)

▲現在の中央大街(撮影/張全)

 また今回の訪問で気づいたのは、ロシア風パンの「列巴」や作りたての飲料クヴァス、老舗のアイスクリームといったロシア風の食べ物から、マトリョーシカや、今はないはずのソ連のロゴ入りウォッカ入れまで、ロシア、ソ連にまつわる食べ物や土産物を扱う店が以前よりずっと増えていたことだ。

店先に並ぶマトリョーシカ(撮影/筆者)

▲店先に並ぶマトリョーシカ(撮影/筆者)

中央大街付近の彫像(撮影/筆者)

▲中央大街付近の彫像(撮影/筆者)

送電線の保護パイプにもマトリョーシカが(撮影/筆者)

◀送電線の保護パイプにもマトリョーシカが(撮影/筆者)

 スピーカーから流れてきたロシア民謡は、一瞬生演奏かと思うほど音質が良く、夕方になると、路傍のあずまやではアコーディオン入りのバンドによる生演奏まで行われていた。道端にずらりと並んだ似顔絵描きなども、欧風情緒を盛り上げており、街を挙げてロシアンな雰囲気作りに励んでいるのが感じられた。

似顔絵描きが並んだ一角(撮影/張全)

▲似顔絵描きが並んだ一角(撮影/張全)

早期に保護に着手

 正直な感想を言えば、歴史的建築物の中には、過度に修復され、歴史的建築物だと気づかないほどピカピカになっている残念な例も若干あったことは否めない。また改修工事がまだ進行中の通りもいくつかあった。一方、少し脇の通りに入ると、建物自体は昔ながらの風格を残したものなのに、中庭が物置や廃品の山になっているような例もあった。改修を待っている状態なのだろう。

中央大街の周辺に残る未改修の建物(撮影/筆者)

▲中央大街の周辺に残る未改修の建物(撮影/筆者)

 こういう風景を見ると、保存プロジェクトはまだまだ完成していないことに気付くが、実は、中央大街における西洋建築の保護の歴史は、30年近く前まで遡ることができる。1986年、ハルビン市は通り全体を「保存建築物」に指定。これは植民地時代に形成された街並みに対するものとしては、中国ではもっとも早い時期に属するという。有名な上海の「バンド(外灘)」に「植民地主義の残滓」としての面だけでなく、観光、資産的価値も認め、重要文化財として登録するよう政府が動いたのが1990年代であることと比べると、その動きの早さはより明らかだ。
 その後、中央大街は歩行者天国となった。今は90年の星霜を経た花崗岩の石畳をのんびりと踏みしめながら、往時の賑わいとその長く複雑な近代史に思いを馳せることができる。

花壇と90年前に敷かれた石畳(撮影/筆者)

▲花壇と90年前に敷かれた石畳(撮影/筆者)

中華バロックが並ぶ旧市街

 こういった保護と整備の動きは、中央大街以外のエリアでも繰り広げられているらしかった。
 例えば、かつて中国人商人の傅家の一族が繁栄の礎を築いたとされ、多数の中華バロックの建築が集まっているかつての「傅家甸」エリアの一部では、2005年より「オールド・ハルビン改造プロジェクト」が展開されている。ただ、老朽化などの理由で丸ごとそのままを保護、というのは難しいのだろう。「歴史ある建物はそのほとんどを残し、老朽化が激しくどうしても取り壊さざるを得ない建物だけ取り壊す」と公式の発表にもある通り、一部の建物は明らかに新たに建て直されたもので、補修された建物の多くも、若干安っぽく見えるほど装いを新たにしていた。また、住民をすべて追い出した上での大改造という形をとっていたため、かつてあったはずの生活感も皆無で、観光、商業ベースの改造であることが感じられた。

伝統芸能の劇場(撮影/張全)

▲伝統芸能の劇場(撮影/張全)

 反対に、改造の対象から外れた地区では、時代の蓄積を感じる建物が風化に任され、市場や商店の活気が街を埋めていたのが印象的だった。

中華バロックの百貨店「同義慶」跡。現在は病院に(撮影/張全)

▲中華バロックの百貨店「同義慶」跡。現在は病院に(撮影/張全)

市場のある通り、三道街の入り口(撮影/張全)

▲市場のある通り、三道街の入り口(撮影/張全)

三道街の風景(撮影/張全)

▲三道街の風景(撮影/張全)

彫刻が施された三道街の建物(撮影/筆者)

▲彫刻が施された三道街の建物(撮影/筆者)

 住民によれば、こういったエリアの建物をどうするかはまだ議論の最中だという。つまり、結論いかんによっては取り壊されるかもしれない、ということだ。私は北京の鮮魚口地区でかつて、現地の住民の追い出しと過度の取り壊しにより、街全体が根なし草のようになった経緯を思い出し、心が痛んだ。

「保護」から「記録」へ

 このプロジェクトで優先されたのは、ハルビンの埠頭地区でもっとも早期の商業街とされる一帯で、1970年に形成され、梨市があったことで知られる延爽街、かつて妓楼が集まっていた桃花巷、そして毛皮商が集ったという平原巷などがあった一帯だ。
 実際にその一帯を歩いてみると、工事はまだ完成していないものの、文化財建築にはそれぞれ建物の説明が付されているのに気づく。感心したのは、それぞれの建物の説明の後ろに、市民の意見を募るための電話やEメールが記されていたことだった。建物の歴史や背景を知る者は、それらの情報をこの連絡先を通じて担当者に伝えることができる。ある程度の考証などがきちんと行われれば、歴史の発掘と記録を同時に行うことができるシステムだといえる。

建物が歴史や部屋の配置などが記されたプレート(撮影/筆者)

▲建物が歴史や部屋の配置などが記されたプレート(撮影/筆者)

 北京の歴史保護地区「南鑼鼓巷」でかつて、文化財クラスの建物が、当局がその位置を誤解していたために、あっけなく壊されてしまったことがある。当時、建物の歴史を知る付近の住民たちは当局の誤解に気付いていたが、適切な通報の手段がなかったために、手をこまねいているしかなかった。市民の意見を募集するシステムは、きちんと機能さえすれば、そういった誤解を防ぐのにも役立つことだろう。

地名も復活

 公式の発表によれば、「オールド・ハルビン改造プロジェクト」の対象エリアでは、再開発によって近年消失した歴史的な地名も回復されるという。だが、この一帯の変化について調べていて気付いたのは、開発の方向転換のめまぐるしさだ。
 例えば道路の整備計画により、前述の延爽街や平原巷を含む4つの通りが貫通され、「太古街」となり、桃花巷も「南勲街」に吸収されたのは、何と1999年のこと。つまり、いったん変えられた地名が、十年そこそこで元に戻ることになる。まるで文革期さながらで、それだけこの一帯の保護と再生は激しい試行錯誤を重ねているのだ。
 もっとも、街が作られる当初から、列強による占領や戦争の影響をもろに受け、発展、衰退の変化めまぐるしく、住民さえ大量に入れ替わる経緯を経てきたハルビンという街にとっては、地名の変化などもっとも平和な変革に過ぎないのかもしれない。
 ハルビンではこの他、「花園歴史文化街」計画も進行中だ。対象は、ボリショイ・プロスペクトの西半分、現在の西大直街を南西に向かったところにあった東清鉄道管理局関連の建物群。「シンボリックな大きな建物は残しつつ、民家などは適度に移築して保護する計画」とのことだが、実際に現地の人に話を聞くと、「以前とはまったく違う風景になっている」とのこと。こちらも相当の大改造を強いられているらしい。

試行錯誤に期待

 取り壊して再開発するか、保護するか。また、保護対象とした建物をどう利用するか。これは歴史ある建築が大幅に減る一方、建物の政治的位置づけの問題はある程度解決されているように見える現在のハルビンにとっても、まだまだ難題のようだ。
 歴史ある街の風景が大きく変わるのは残念だが、建物が放置され、老朽化が進むのも心配だ。ただ、保護するか否か、議論が終わっていないエリアがある、というのは、少なくともむやみな取り壊しを食い止める何らかの力が働いているという証しだろう。住民の方は落ち着かないことだろうが、実はハルビンはかつて、住民を強制的に追い出した暴力的な取り壊しの様子が北京でも大きく報道された街。その頃に比べれば、情況はだいぶ好転しているはずだ。中国における欧風建築の保護活動の先駆者だという意味からも、ハルビンの今後の試行錯誤には期待をもって注目していきたい。

コラムニスト
多田 麻美
フリーのライター、翻訳者。1973年静岡県出身。京都大学で中国文学を専攻後、北京外国語大学のロシア語学科に留学。16年半の北京生活を経て、2018年よりロシアのイルクーツクへ。中国やロシアの文化・芸術関係の記事やラジオでのレポートなどを手がける。著書に『老北京の胡同』(晶文社)、『映画と歩む、新世紀の中国』(晶文社)、『中国 古鎮をめぐり、老街をあるく』(亜紀書房)、訳著に王軍著『北京再造』(集広舎)、劉一達著、『乾隆帝の幻玉』(中央公論新社刊)など。共著には『北京探訪』(愛育社)、『北京を知るための52章』(明石書店)など。
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