北京の胡同から

第27回

人のスピリチュアルなかたち 井上玲さん「雲彩人類/クモニンゲン」展

井上玲さん(撮影/張全)魂のエネルギーを表現

 ここ数年、北京で創作活動を行う日本人芸術家が増えている。4年間にわたる中国でのさまざまな経験や創作活動を糧に、大きく表現と活躍の幅を広げつつある現代アート作家、井上玲さんもその一人だ。
 この夏、そんな井上さんの創作活動の集大成ともいえる展覧会「雲彩人類」展が開かれた。場所は北京で屈指の私立美術館「今日美術館」に付設した「今日美術館版画芸術センター」だ。

 大勢の子供がスピリチュアルな姿を現した作品「あまくもちゃん」、しなやかなラインでヒトガタが切り抜かれた「雲彩人類(クモニンゲン)」シリーズなど、井上さんの切り絵作品からは、人の魂や生命のもつ素(す)の姿がたおやかに浮かび上がる。
 今回出品された主な作品をつなぐ重要なモチーフは「雲」。自在に形を変える「雲」は、井上さんに何らかのエネルギーを感じさせるためだ。北京を本拠地にしつつも、震災後の四川省やオーストラリア、そして沖縄など、アクティブに移動を重ねた井上さんは、行く先々で、地震、戦争、虐待などで亡くなったさまざまな人たちの魂が放つエネルギーを感じた。
 そして「身体の有無に関わらず、人の可能性は拡大し続けることを表したい」という気持ちに駆られる。「亡くなった人や殺されてしまった人のエネルギーを、もう一度雲のエネルギーとして構成し直してビジュアル化したら、私たちのエネルギーも活性化できるのではないか」、そんなアイディアが今回の作品に結晶した。

「雲彩人類/クモニンゲン」展(撮影/張全)

5カ月で2000体

 井上さんが最初に中国を訪れたのは、ふとしたきっかけからだった。当時、横浜で暮らしていた井上さんは、どうしても家の中で静かに絵を描いていることができなかった。そこでふと思い立ち、父親の貯めたマイレージで買った航空チケットで、中国へ。
 「いろんな文化に触れると自由になる」と語る井上さん。作品で死を描き続けているのも「死を考えることで自由になれる」から。だがその一方で、作品はその時の社会の雰囲気も生々しく映し出している。雑誌を切り絵にした2008年の作品は、「何もかもがすごかった」2008年を表現したもの。「当時は、必要以上にいい紙を使った雑誌の豪華さにびっくり。オリンピック前後を自ら体験し、2008年の何かを作っておきたい、と感じた」。
 でもそういった時期は「自分のための作品の制作には入っていけなかった」という。そこで敢えて「北京以外の世界もあるはずだ」と震災後の四川へ。「神戸出身なので、ぜひ行っておきたかった」からだ。現地では仮設や被災者の家に泊まり、被災者と生活を共にした。
 四川では被災現場がフェンスに囲まれ、そのまま残されていた。血の跡もまだ生々しかった。その一方で接したのが、毎年の習慣に合わせてソーセージを作り続ける生存者たち。井上さんは「亡くなった人と生きている人、それぞれのパワー」に圧倒される。
 3万人の人口の内、1万人が震災で亡くなった村も訪れた。そんななか、「人は亡くなってもゼロにはならないのだ」と強く実感。「いずれ死んでしまう、有限の存在。そんな彼らが『生きていたこと』自体の可能性とは?」という疑問に駆られる。北京に戻ってからはまるで憑き物に憑かれたかのような頻度とスピードで作品を制作。ついに5カ月をかけ、「あまくもちゃん」100体を含む2000体の切り絵を完成させたのだった。

『クモニンゲン 雲彩人類』1999年ごろに製作したリトグラフを2010年に切り絵として製作(今日美術館収蔵)『クモニンゲン 雲彩人類』1999年ごろに製作したリトグラフを2010年に切り絵として製作(作家蔵)

▲左図『クモニンゲン 雲彩人類』1999年ごろに製作したリトグラフを2010年に切り絵として製作(リトグラフ、日本画絵の具)今日美術館収蔵。▲右図『クモニンゲン 雲彩人類』1999年ごろに製作したリトグラフを2010年に切り絵として製作(リトグラフ、銅版画紙)作家蔵

版画と切り絵を合体

 井上さんが人の身体を描き続けるのは、「身体を元素とすれば、もっといろんな可能性があるのでは?」と感じるから。「雲彩人類」には男性、女性、中性の3つのイメージが登場する。「私たちは、セックスに比重を置きすぎて、体を『道具』にしてしまったり、異性を美醜の差で見てしまったりしがち。でも、実はより原始的なところにもっと身体の可能性があるのではないでしょうか」と井上さんは語る。
 今回の作品では、創作の手法の面でも新しい試みが行われている。「版画だけでは何か足りない、でも切り絵は終着点ではない」と感じていた井上さん。「ならば一緒にすればいい」と気づく。切り絵の材料には既成の自らの版画作品を利用。切り絵は色が単調になりがちだが、版画を用いることで色彩が豊富に。しかも版画を切り絵にすることで、世界で一枚の作品になった。
 日本と比べ、中国では切り絵の文化が豊富で、生活に溶け込んでいる。そんな中国での生活が「作品に新しい風穴を開けてくれた」という井上さん。展覧会後は日本に創作の場を戻したが、中国で得た経験は生かし続けたいという。今後どんな作品を生み出してくれるのか、心から楽しみだ。

コラムニスト
多田 麻美
フリーのライター、翻訳者。1973年静岡県出身。京都大学で中国文学を専攻後、北京外国語大学のロシア語学科に留学。16年半の北京生活を経て、2018年よりロシアのイルクーツクへ。中国やロシアの文化・芸術関係の記事やラジオでのレポートなどを手がける。著書に『老北京の胡同』(晶文社)、『映画と歩む、新世紀の中国』(晶文社)、『中国 古鎮をめぐり、老街をあるく』(亜紀書房)、訳著に王軍著『北京再造』(集広舎)、劉一達著、『乾隆帝の幻玉』(中央公論新社刊)など。共著には『北京探訪』(愛育社)、『北京を知るための52章』(明石書店)など。
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