北京の胡同から

第05回

拆遷公司との戦い・前編

 10月の下旬、北京の旧城地区の中心にある鼓楼の周辺を通りかかった時のこと。ある見慣れない看板がふと目に入ってはっとした。炒った甘栗を売る店だ。店に入ると、見慣れた顔が笑いかけてきた。以前の彼の頑なでこわばった表情を知っていただけに、その表情の和やかさは私をはっとさせた。

 2008年6月のある日、北京の地安門付近の大通りに、数多くの野次馬が集っていた。この一帯の住民の立ち退きの期限の日だったからだ。北京の中軸路上にあるこの大通りの両側は、かつて小さな商店がひしめく商業エリアだった。だが、ここ数年で、再開発のメスが入り、緑地帯へと整備。オリンピックの聖火リレーのコースとなることが決まってからは、一軒の栗屋を除き、全ての店や住宅はすべて撤去され、かつての繁栄は見る影も無くなった。付近の住民として、栗屋を含めたこの一帯の店をよく訪れていた筆者は、そのあまりの変わり様に驚き、以前の風景との接点が見つけられずにいた。

地安門付近の大通り その頃、立ち退きの際の交換条件や補償額に不満な栗屋の一家は、徹底的な居すわり作戦を展開していた。軒先に護身符のように国旗や党旗、オリンピック旗を掲げ、家の壁に国の指導者の写真を選挙ポスターのように貼りつける。その主張によれば、悪いのは国の政策ではなく、それを自らに都合の良いように歪曲して強制的に実行する区の政府の関係者だという。オリンピックを口実に庶民の家を取り壊し、その財産を吸い上げているというのだ。
 彼らにとっては、そんな区の政府に有利な判決を下す西城区の裁判所も「拆遷公司(住民の立ち退きと家屋の取り壊しを請け負う業者)」に過ぎない。そして、「ここには60年暮らしてきた。80年に店を開いた。今も十数人が100平米余りの家に暮らしているが、政府の補償金はたったの35.6万元。このお金では北京ではトイレ一つも買えない」と主張したのだった。
それからの日々は、栗屋にとって「神経戦」との闘いだった。夜は寝ずに外で見張りをし、昼は交替で昼寝。海外からの取材のカメラに応じるだけでなく、警察の向けるビデオも睨みつける。自らもビデオを回し続けた。ビデオ、カメラ、そして人の目を通じた睨みあいが続いた。
 7月に入り、栗屋の家族から「防弾チョッキを着た人が来た。とうとう取り壊される」と電話。だが行ってみると、何事も起こっていない。その後も、何度か「とうとう壊される。命をかけて我々の財産を護る」との連絡が入ったが、実際に行ってみると、撤去は行われておらず、栗屋が警察の下部組織として都市の管理を行う「城管」の脅しを真に受けただけだったことが分かった。
 数日後、ふたたび「プロパンガスを用意している。強制的に撤去されそうになったら、爆発も辞さないつもりだ」との連絡。不穏な言葉に慌てて駆けつけてみると、幅広い道の両側に野次馬がぎっしり。滔々と自らの境遇を訴える栗屋の女性の言葉に、多くの人々が耳を傾けた。民衆への「煽動」を恐れてか、途中で警官が忠告に入ると、さすがに静かになる。だが、周囲の野次馬たちは様々な論評を繰り広げていた。その多くは、栗屋を支持していたようだ。遠くから栗屋の方を見やり、涙を拭っている老人もいた。「取り壊すなら、真昼間ということはあり得ない。人々が寝静まった未明の時刻さ」。自らの経験を引き合いに、ある観衆が言った。
 7月中旬の未明、その予言は見事に的中。翌日、現場に立ち寄った筆者が付近の住民から聞いた話では、「城管」らが大通りの両端、及び周辺の胡同の入り口を全て封鎖した上で栗屋一家を連れ出し、家屋の強制撤去を行ったという。その情況を知る者からは、「こりゃ、天安門事件ならぬ地安門事件だな」との冗談まで飛び出た。

コラムニスト
多田 麻美
フリーのライター、翻訳者。1973年静岡県出身。京都大学で中国文学を専攻後、北京外国語大学のロシア語学科に留学。16年半の北京生活を経て、2018年よりロシアのイルクーツクへ。中国やロシアの文化・芸術関係の記事やラジオでのレポートなどを手がける。著書に『老北京の胡同』(晶文社)、『映画と歩む、新世紀の中国』(晶文社)、『中国 古鎮をめぐり、老街をあるく』(亜紀書房)、訳著に王軍著『北京再造』(集広舎)、劉一達著、『乾隆帝の幻玉』(中央公論新社刊)など。共著には『北京探訪』(愛育社)、『北京を知るための52章』(明石書店)など。
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