マウント・バーモンの邸宅で茶を楽しむジョージ・ワシントン(中央右、メトロポリタン美術館)

マウント・バーモンの邸宅で茶を楽しむジョージ・ワシントン(中央右、メトロポリタン美術館)

 地球規模で人類の歴史を変える原動力となった食物がある。ブラジルやカリブ海の島々に労働力としての黒人奴隷を出現させた砂糖、アイルランドやドイツに大飢饉をもたらして民族移動の波を起こしたジャガイモ、そしてイギリスと清国とのアヘン戦争や、アメリカ革命(独立)の契機となった「茶」である。

 東アジアからインド北部を原産地とする「茶」には、二系統の名前がある。福建語起源の「テ(ティー)」と広東語起源の「チャ」である。西欧における喫茶の習慣は、東洋貿易を掌握したオランダによって始まり、清王朝が1757年に広東を唯一の外国貿易の窓口とすると、取引の舞台はジャワのバタビアから広東に移り、ここからいっきに世界に広まった。交易は「行(ホン)」と呼ばれた特定の大商人にしか許されず、その多くは福建省の出身者だった。

 茶と砂糖をイギリスにもたらしたのは、1661年にポルトガルからジョージ2世に嫁いだキャサリン王妃である。お茶と菓子とおしゃべりを優雅なチャイナ陶器のセットで楽しむ「アフターヌーン・ティー」の習慣は貴族の間に急速に広まり、やがて砂糖を加えた朝の茶は庶民の温かい朝食代わりとなり、生活になくてはならない嗜好品となって行った。

 一方、アメリカに茶が到来したのは実はイギリスよりも早く、1640年代にオランダの東インド会社が持ち込み、同社幹部のピーター・スタイヴサントが1664年にオランダ領ニュー・アムステルダム(後のニューヨーク)知事に就任すると、上流階級に広がった。ほぼ百年後、フィラデルフィアの商店主レベッカ・スティールが1766年10月に地元新聞に出した広告では「ボヘア(武夷茶)、グリーン(茗茶か)、ヘイスン(熙春茶)、コンフー(工夫=鉄観音茶)をお手頃価格で取り揃えている」と宣伝している。「茶」が庶民の間に広がった証だろう。広告の品はいずれも福建省産の緑茶で、砂糖とミルクを加えて飲んだ。喫茶は当初は緑茶が主流で、紅茶の消費が増え始めるのは18世紀半ばから。アメリカで紅茶の消費が増えるのは20世紀初頭にティー・バックが発明され、アイス・ティーという新しい飲み方が生まれてからだ。

ボストン・ティー・パーティーを描いた絵画(University of South Florida)

ボストン・ティー・パーティーを描いた絵画(University of South Florida)

 大農園主で合衆国初代大統領となったジョージ・ワシントンは、スティールの店に茶葉やチャイナの陶器セットを注文していたことが、連邦議会図書館所蔵の領収書で分かっている。1787年7月のワシントンの日記では、5日から18日までの半月の間に知人宅やレストランで茶を飲んだ日が12日に及んだことが記されている。アフターヌーン・ティー・パーティーとダンス・パーティーは、上流階級の生活の華だったようだ。

 アメリカ独立の前史は、全ヨーロッパが戦場となった七年戦争(1756-63)から始まる。イギリスと結んだプロイセンに対し、フランス、ロシアと手を組んだオーストリアが戦う構図で、新大陸とインドではイギリスとフランスが戦った。新大陸からフランスを追い出し、インドも手に入れたものの、膨大な戦費の後始末に苦しんだイギリスは、戦争終結の翌年から新大陸の植民地に税金を課し始める。砂糖やシロップを扱う商人を対象とした砂糖条例に始まり、植民地に流入するガラス、茶、紙、塗料などに課税するタウンゼント条例、極めつけは1773年5月の茶条例だった。茶条例は財政難にあえぐイギリス東インド会社救済のため、同社に植民地への茶の輸入と販売に独占権を付与する内容で、植民地の権限を奪い去ったことで植民地の怒りが爆発した。

 同年12月16日夜、植民地の結社「自由の申し子たち」に属する一団がモホーク・インディアンに扮装し、ボストン港に停泊するイギリス東インド会社の船3隻を襲撃、積み荷の茶箱340個・46トンを海に投げ込んだ。有名な「ボストン・ティー・パーティー」だ。茶葉をボストン湾に投げ込んだのを「ティー・パーティー」とからかい気味に命名したわけだ。当時1トンの茶葉は2階屋一軒の価値があるとされた貴重品。モホーク・インディアンは白人と絶対妥協しない部族として知られており、本国イギリスへの抵抗精神のシンボルとしたようだ。この出来事がアメリカ革命の口火となり、戦争を経て1776年7月4日、アメリカは独立を宣言した。

 独立の陶酔感に浸ったのもつかの間、イギリスが経済封鎖に踏み切ると、植民地経済に安住していたアメリカは貿易の相手を失い、歳入不足の危機に直面した。政治的に独立しても、経済は自立できていなかったのだ。アメリカの当時の年間茶葉消費量は54トン余だったが、輸入ルートを断たれた茶葉の価格は急騰、新兵の月給が4ドルだったのに対し茶葉450グラムが100ドルで取引された。

チャイナの女帝号(クイーズランド州立美術館)

チャイナの女帝号(クイーズランド州立美術館)

 アメリカ合衆国の初代財務大臣ロバート・モリスは、イギリスの統制が及ばない貿易相手国探しに奔走し、香り高い喫茶文化や優美な陶器を生みだした東洋の先進文明国・清国に白羽の矢を立てた。外交関係も何もない状態で、茶葉の確保を第一目的にした冒険だった。貿易船に仕立てた「チャイナの女帝号」は3本マストの帆船で、船体の長さ約31.7メートル、幅8.6メートル。42人が乗り組み1784年2月22日にニューヨーク港を出港し、アフリカ南端の喜望峰回りで広州に向かった。積み荷の目玉は朝鮮人参30トン、ビーバーの毛皮、スペイン銀貨など。ジャワ沖で出会った2隻のフランス軍艦が広州までエスコートし海賊から守るという幸運にも恵まれた。およそ15カ月後にニューヨーク港に戻った船は茶葉800箱やチャイナ陶器、絹織物を満載、取引は大成功をおさめて巨額の富をもたらし、チャイナブームを巻き起こした。1784年から1833年までの間に清国を目指したアメリカ船は、公式に認められた航海で1352回を記録した。こうして清国との貿易が、誕生間もないアメリカの経済的自立をもたらした。

 建国の父たちもチャイナがもたらした農産物に熱狂した。ベンジャミン・フランクリンはルバーブ(大黄)の種、ジョージ・ワシントンは花の種、トーマス・ジェファーソンは米、サミュエル・ホーウェンは大豆を北米の大地で栽培しようと試みた。さらにフランクリンはチャイナの暖房システム、造船,製紙、ローソク製造、水車などのテクノロジー導入に取り組んだ。チャイナはまさに憧れの国でもあった。

 アメリカ外交史を振り返ると、米国はチャイナへの無邪気ともいえる肩入れを繰り返してきた。国民党と共産党との合作をごり押ししたフランクリン・ローズヴェルト大統領やジョージ・マーシャル国務長官、台湾を切り捨て米中国交を樹立したジェームス・カーター大統領、中国のWTO加入に道を開いたビル・クリントン大統領、「ピボット・チェンジ(軸足移動)」を掲げ太平洋にシフトすると言いながら南シナ海での有効な対中抑止策をとらなかったバラク・オバマ大統領と、枚挙にいとまがない。

 今、米中は貿易戦争で角を突き合わせている。東西冷戦時代の中国封じ込めの再来との言説もあるが、大統領だけでなく連邦議会、国民までが強い反中感情を抱いている現状は、まったく新しい現象である。かつて建国間もないアメリカが抱いた香り高い文化の先進地への憧れや敬意が、今の習近平体制で無残にも打ち砕かれた喪失感にとらわれているような気がしてならない。

 

〔参考〕
◎『The global origins of the Boston Tea Party』BBC History Magazine, Christmas 2010 Issue
◎『How China helped to shape American culture : The Founding Fathers and Chinese civilization』Dave Wang, St. John’s University
◎『茶の世界史』角山栄、中公新書

※注
文中でチャイナとしているのは「中国」という名称が清朝末期の梁啓超によって提案されたものだからです。清国、明国を中国と呼ぶのは正しくありませんし「支那」は蔑称と受け取られかねないので「チャイナ」としています。