猫と楽器と本と人間

第02回

ヘタクソな読み方とは?

ヘタクソ+ヘタクソ=上手い、になるカラクリ

インドの野良猫

インドの野良猫。インド研修を繰り返している頃は、猫や生き物の事を忘れていた。猫と暮らす様になってからインドに行くお弟子さんに頼んで撮って来て貰った写真。垣根を乗り越え様としているので普通のインド猫。後の猫は恐らく妊婦さん。インドの猫は大概やせ細っている。しかし、イスラム文化の影響で、圧倒的に優遇されており。犬は驚く程冷遇されている。

 思えば、楽器演奏と歌ほど、普通の人が聴いて「ヘタクソ」が直ぐ分かるものは無いのではないか? と今更気付いた訳だが。私は、その「バレ易い芸術」を先攻し人生の大半、必死になっていたのだから。実に大失敗だ。
 絵画に至っては、全く「裸の王様」で。どう見てもヘタクソだろう?と思う様なものが、様々なプレミアが付いて「天才的画法による名画」と言われたりするから、最も「ヘタクソ」が分かりにくいジャンルかも知れない。
 それに次ぐのが、「モラトリアム世代」などと言う言葉が流布された時代以降の文学や評論などの読み物だ。論理的にてんで幼稚であるどころか中身さえスカスカであるにも拘らず。独特の語調で、イヤラシく撫でる様な文体。微妙に難し気で、プロっぽい表現。そして、その立ち位置が必ず第三者(無責任な傍観者)である様な文章が「格好良い」とされている。正に批判精神ばかりが旺盛な感覚主義者好みなのだ。
 メンソールやアルコール。はたまた炭酸飲料の様に、効いている間だけしか心地良くもなく、時が経てば何も残らない様ものの方が、「知的好奇心」を満足させた様な気にさせ、読み人たちは、あたかも自分が賢くなった様な気分を持つ。だから売れる。真の学ぶ価値のある書物は全く逆だ。眠っている叡智を刺激し、知育の先駆けとなる様な文章が、初めて読んだ時点で心に届く筈も無い。それどころか頭にも入りはしないかも知れない。「目の鱗が落ちる」とか、「腑に落ちる」などと軽々しく言うけれど、実際、長年貼付いていた鱗が落ちたり、腑臓に届く様ならば、それ相当の痛みを伴う筈ではないか? さほどの感性をまだ持っている者は、初めて読んだ時に相当な衝撃を受ける筈。その様な者と比べ、私を含め、さほどではない者は、数年経ってやっとじわじわと分かって来たりする。むしろそれが本来マシな方だろう。数年掛けていささかの成長があったと言うものだ。同じことを私は何人かの師匠から得た。或る日突然「あっ!これか!」と師匠の教えの意味が込上げて来たりするのだ。肝腎なことは「分からない」という自覚であり、それを尊ぶ価値観だ。「分からない」から「気になる」と、常日頃考えてしまう。だからこそ、気付かぬうちに思考が活性化し、心を刺激し、成長を促す。
 故に、「売れる本」というものが、如何にその場限りのものであり、その時に満足を即効的に与えてくれるものであるかが良く分かる。要するに、その文章の意味深さなどは関係が無いのだ。ただただ、消費者が持つ「自分を美化したいスウィッチ」を押せば良いだけで、後は、勝手に消費者が、その気分を持続させているだけであり、文言の意味合いが持続しているのではないのだ。ならば、「二日酔い」の様な逆の不愉快な気分を味わって、少々懲りることが在っても良さそうなのだが、「自分を美化する」ことを懲りる様な人間はまず居ないのだろう。
 出版物/書籍という形態も、その重みを見事に示していたのだ。本棚にしまっておけば、後々成長した時に「あっ!この事は何処かの本に既に在ったぞ!」と取り出すことが出来る。また、何年も経ってから「ふっ」と読み返して見て、その感じ方の変化によって、自分の成長を知ることも出来る。無意識にその有難さを感じているから、本棚には丁寧に置き、間違っても投げ入れる様なことは無い。精神の成長にとってのバイブルであり指南書なのだ。その意味では、名だたる名出版社さえもが「電子書籍」と称するものに手を出し、「本」という姿をないがしろにして迄、彼らに迎合している姿は甚だ愚かしくも、無念である。と言いつつ、私のこの拙文も、その形を借りないと皆様の目に触れられない。しかし、好評を頂いて連載が積み重なれば「本になるかも知れない」という高みは、常に忘れることなく抱いている目標なのだ。でなくては、心が込められっこない。

 対して「モラトリアム以降の読み物」はどうか。恐らく、あれほどに感動し心が踊ったにも拘らず、時を経て読み返してみると、あまりの上滑りさに愕然とすることがあるに違いない。だから古本屋が儲かるのだ。では、これも成長か? とんでもない。「あの頃流行っていて大好きだったのに、今見るとなんて野暮ったいのだろう」と思うファッションと同じに過ぎない。くだんの「絶妙な、撫でる様な表現方式」の類いは、流行の様に時代と共に変化しているのだから。従って、近年の書物に関してこそは、「ヘタクソと上手」が逆の意味になっているのだ。「上滑りなファッションの様な文章(つまりこれこそヘタクソな文)」こそが「上手い文章」なのだ。このことを、「楽器演奏」に置き換えてみれば驚く程分かり易く理解出来るだろう。衣装とポーズばかりで、弾いていないのだから。まるで「エアギター(※)」だ。

 インドと言えば、深淵なるイメージが強いが、実際行ってみて、庶民の雑踏を掻き分ける体験をすると、立った腹も座り、笑い転げる程馬鹿馬鹿しい幼稚なインチキが溢れていることを知る。その中でも極めつけが、もう四十年も前のインドの楽器屋のカタログだ。「なんと!エレキギターを売り出したじゃないか!」と良く見れば、コードを差す穴(ジャック)が無いのだ。エレキじゃない。エレキ形ギターだった。しかも、普通のギターの十分の一程の音も出ない。そして、セットで売られているのが、袖から紐が沢山垂れ下がっているプレスリーの衣装だった。私の先輩の世代は、ベンチャーズやグループサウンズの世代で、子ども達はこぞって箒をエレキに見立てて「テケテケ」とやっていたと言う。流石のインドは、「哲学」や、その「深さ」に掛けても世界有数であると同時に、上っ面に関しても「箒のエレキ」の数倍本格的なのであった。
 果たして「エアギターの名手は実際のギターを演奏出来るのか?」これは究極の愚問だ。
つまり、「上滑りなファッションの様な文章(つまりこれこそヘタクソな文)」を読んで「感動する(要するにこれもヘタクソな読解力。見抜けないのだから)」にも拘らず。「ヘタクソ+ヘタクソ=上手(巧)い」という方式が出来上がっているのだ。 逆に、ヘタクソ(上滑り)な文章を見抜いて「これは駄目だ」と評することは、「エアギターの大会」に、ギターの名手がギター持参で乗り込む様な間抜けなことなのだ。「ヘタクソ以下」ということになる。

 しかし、それにしても、その深みと叡智に日々感動し、学ばされる「お猫様」は。事書物に関しては何故にああも無関心、無礼なのだろうか。「上手いの上」を行ってしまっているのか? だからと言って、爪を研がんでも良かろうに。 

※「エアギター」超絶技巧のエレキギター演奏を真似た、楽器も持たない「フリ演奏」。コンテストさえあるほど確立したジャンル。

コラムニスト
若林 忠宏
1956年、文学座俳優(当時、後に演出家)の父、ピアノ教師の母の下、東京に生まれる。1971年、中学二、三年の頃に、世界の民族音楽と出逢い。翌年、日本初の民族音楽プロミュージシャンとしてデヴューする。十代後半は、推理小説家としてデヴュー前の島田荘司氏のロックバンドにインド楽器で加入。テクノバンドとしてプロデヴュー前のヒカシューに民族楽器で加入。二十歳そこそこの1978年から20年間、都下吉祥寺で日本初の民族音楽ライブスポットを経営。日本初の民族音楽教室の主宰、同じく日本初の民族楽器専門店も経営し。在日大使館、友好協会、国際理解教室など、伸べ千数百回の演奏を経験する。新聞、雑誌、TVなどの取材も多く、「タモリ倶楽部」「題名の無い音楽会」には数回出演、「開 運なんでも鑑定団」では、特別鑑定士でもある。 著書に「アジアを翔ぶシターリスト」(大陸書房:絶版)、「民族楽器大博物館」(京都書院:絶版)、「民族音楽を楽しもう」、「世界の師匠は十人十色」、「アラブの風と音楽」(以上ヤマハ出版)、「もっと知りたい世界の民族音楽」、「民族音楽辞典」(日本初)」(以上東京堂出版)、「スローミュージックで行こう」(岩波書店)、「民族楽器を演奏しよう」(明治書院:学びやぶっく、2009年6月)、「まるごと民族楽器徹底ガイド」(YAMAHA、2010年2月新刊)の他、共著も多い。「民族音楽紀行:アジア巡礼編」(2008年春)、「アフリカ編」(2009年秋)、「カリブ・中南米編」(2010年9月)の15から16回を「西日本新聞」文化面に連載。2005年からの九州・福岡と東京の通いの頃から、保護猫活動を行 い。2007年には「福岡猫の会」を立ち上げ、2010年に大量の捨て子猫、野良子猫を引き受けて以後、何らかの疾患によって容易く里子に出せなくなった為、新たな引き受けを中断し、看病経験を研鑽することとなる。2013年には、西洋化学対処療法の限界に突き当たり、中医・漢方、西洋生薬(Herb)、様々なサプリメント、ヴィタミン・ミネラル療法などのホリスティック(全身的)療法、及び自然療法を懸命に学び、50頭に及ぶ保護猫の世話に活用。猫エイズなどの不治の病の哀しい看取りなども含め、経験を積む。集広舎サイトにも、インド人作家、グルチャラン・ダースの著書「インド 解き放たれた賢い象」の若林氏の書評がある。 及び、氏は、闘病中の保護猫の世話の為にも在宅で出来る執筆業に重きを移行したいところであり、新聞、雑誌、Webマガジンなどのコラム、エッセイの依頼を求めている。専門的な経験はもとより。引き出しの豊かさと視座のユニークさは、斬新且つ適所なものをお届け出来る底力を持っていると推薦したい。連絡をとってみたいと思われる方はご気軽に当集広舎迄ご連絡頂きたい。
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