ベルギーの一人芝居

◀1974年に、父が招聘し日本公演を制作したベルギーの一人芝居(マイム)。大きなオブジェに乗ったり入ってまた出て来たりの摩訶不思議な芝居。私は客席に居て、強烈に感化され、私なりの演劇観が芽生えたのだった。だが、ついぞ父との共同作業は無いままに終った。

 ご存知の方も居て下さると思うが、私の父は元文学座の俳優で、シュールレアリズムの奇才と呼ばれ「戦場のピクニック」などで知られるスペイン人戯曲家:フェルナンド・アラバールを最初に日本に紹介した戯曲翻訳家でもあり、盟友三島由紀夫氏(文学座演出部に居た)の退座以降、俳優から演出家に転じ、1970年に国際青年演劇センターを創設した若林彰である。
 父は、2013年10月に86歳で他界したのだが、思うことあって、父とは40年来の友であり、師と言ってくれる人も少なくない何人かの父の同胞、門下の演劇人の方々と、この数ヶ月交信する機会を多く持った。私が父の仕事としての演劇と本気で向かい合うのは生まれて初めてのことだった。

 師と仰いでくれる演劇人の方々もまた、今では大御所である。父の仲間で、文学座退座後「タイムトラベラー」「夢の島少女」などTVの仕事を多く与えてくれた寺山修司氏などもとうに故人である。「今更?」と言って良い程、遅過ぎた向かい合いだ。

 仲間を自称してくれる現在の大御所の制作と舞台監督のお一方などは、「ホントなんで親子で組まなかったんだろうねぇ、勿体なかった」「シタールなど幾らでも活用する機会があったのに」と、想いを込めた言葉を下さった。

 父が国際青年演劇センター(略称、KSEC)を創設した同じ1970年に私も民族音楽探訪の道に入った。父は、73年にはケニヤの演劇舞踊音楽団を招聘し、74年には文楽とロックをコラボさせ、74年にはギリシア国際演劇祭に参加し、76年には、ヴェネスエラ国際演劇祭、77年にはメキシコ、ペルー、78年には日本の民話「山椒大夫」、80年にはインカ伝説、韓国初の国際演劇祭、82年には岸田今日子氏を起用した「ポルトガル尼僧の手紙」を草月ホールで上演し、90年には、「耳なし芳一」で琵琶生演奏を起用し、ルーマニア戯曲、インカ伝説を取り上げるなど。同時代にもアラバール、ロルカやベルギー演劇など西欧との関わりも継続したが、それと同等にエスニック圏の演劇・音楽と深く関わっていたのだから、私と平行して同じ様なことをやっていたのだ。

 90年代末に私がバリアフリー関連の音楽イベント、アフガン難民関連に積極的になっている頃には、父は、長崎被爆者叙事詩を英訳しアメリカ三都市巡演を成し遂げていた。
 マイノリティーに関しては父は遥かに先を行っていた。私は70年代80年代、「民族音楽」そのものがマイナーであったため音楽で精一杯だったが、父は70年代80年代に日本初の「国際児童演劇祭」「国際手話演劇祭」をブリタニカなどと組んで成し遂げていた。

 私はこの45年間、民族音楽で出向く先々で、父の痕跡や話題とぶち当たった。国際交流基金、日本文化財団、様々なホール。妹尾河童さんの取材を受けた時も、「君の親父さんに連れ出されパリに行き、ホテルは同室だったんだぞ」と言われた。「それが嫌」という程の意識も無く「へー」程度の感覚だった。その時々、父がどんな作品に取り組んでいるか程度で細かいことは知らず、何故それをやらねばならぬのか? などの考え迄は知ろうとしなかった。しばしば私と母でやっていた民族音楽ライブスポットのライブの無い時に、演劇仲間を連れて来ては紹介されるが、同席して話し込んだことも無かった。

 私の民族音楽が劇伴(劇の伴奏音楽)に起用されたことも少なくなかったし、小道具で民族楽器を提供しておつきあいを得た劇団も幾つかある。
 同じ演劇人で三百人劇場の演出家だった中西由美伯母に紹介されたベンガル人演出家とは伯父甥の仲になり、彼が亡くなる迄の十年以上何度も共演を果たした。ベンガル人の洒落好き、悪戯好きは良く知られているが、或る時「富山国際演劇祭にインド劇団のメンバーとして参加しろ」の召喚状がインド政府文化庁から届いた時は、まさか伯父の仕業と思わずに仰天し、インド大使館に照会するなど大いに慌てた。実際は台詞無しの放浪芸人の役だったが、インド国旗を貼った名札を見て、富山のスタッフが皆英語で話し掛けて来るのは照れくさかった。などなど、演劇との関わりは少なくないのだが、父の演劇とは、客で観劇に行った位で、父がまだ家に居たころは良く話を聞かされたが、教え込まれたことは皆無で、「また自慢話か」位にしか聞いていなかった。

親子の確執とは性質が違う

 舞台監督氏が「勿体なかった」と言ってくれた程に、平行線は、交わることも近づくことも無かったのだ。その理由を、分かり易く言えば「親子の確執」ということになるのだろう。が、普通それは、子供が思春期になって以後のことだろう。その意味では父と私の場合、「確執」ではない。何故ならば、それは私が幼少の頃に始まるからだ。

 詳しくは、より深く演劇、とりわけF.アラバールとの関わりの中で述べないと、単なる家庭不和の自分史で終ってしまうからここでは述べないが。母との喧嘩の度に、「ママをぶつな!」と突進しては、襟ぐりを摘まれ庭の芝生に投げ飛ばされる生活だった。

スペイン人戯曲家F.アラバール

◀スペイン人戯曲家F.アラバール。1974年父が招聘(初来日)した当時。アラバールと父、そして私には、家庭環境、幼児体験に共通点が多い。アラバールの演劇は、その不条理さ、デペイズメントさから「テアトロパニック(恐怖の演劇)」と呼ばれた。

 高校に入って程なく、とうとう私の腕力で父を制する時が来て、それから父は殆ど家に居着かなくなり、ほどなく完全に別居となった。その後も、父のマンションには何度か行ったし、父も店だけでなく、私たちのマンションにちょくちょく来ていたから、やはり良くある「確執」とは雰囲気が異なる。
 十数年掛かった父との「力の勝負」は、あの「自分の感覚を決して曲げず譲らない」母の世話人の交替の儀式だったのだ。しかし、父はそのことを、もしかしたらついぞ理解していなかったのかも知れない。私がずっとすっかり母に感化され「父親が悪者」と思い込んでいるとしか考えていなかった可能性が高い。

 実は、そんなことは、私にとって小学校に上がる頃にどうでも良いことになっていた。父母の喧嘩にいや応が無しに立ち会わされ、とっくにうんざりし、「どっちが正しい」というテーマがすっかり空しく感じて居たからだった。それよりも大切なことがあるだろう! 何故父母はそれを考えず、無益な罵り合いをしているのだ!と、既に親を内心批判する様な子供だった。それでも男子としては、弱者を庇わすにはいられなかったのだ。それは父も同じ感覚だった筈なのだ。そもそも共に反骨精神旺盛な水戸藩士の末裔だ。身の程知らずに自分より強い者に向かってしまう。「ドン・キホーテの様だ」とも言えるのだが。

演劇はどんな道を歩んで来て、今、何処に行こうとしているのか?

 感情のぶつかり合いの中で育ったから、逆に理屈っぽくなったのだろうか。言葉で論理的に表現は出来ずとも、父の演劇、否、日本の演劇に大きく欠けている「何か」には気づいていたのだろう。しかし、それを突き詰める義務も義理も無かった。ましてやそれを自らで気づこうとせずに、試行錯誤を繰り返す父たちに説く程の高慢も持ち合わせては居なかった。
 一言で言うと、演劇は、既に「幹」を見失っていると思えたのだ。だから、何をやっても「枝葉」の異なりで批判し合い競い合い、落胆と挫折と自賛自尊を繰り返している。ならば「音楽」は如何程ご立派なものなのか?と問われれば、勿論、それ以下の、殆ど「芸能」のレベルである。
 言い換えれば、演劇の方が音楽よりも遥かに可能性があり、期待出来る芸術なのだが、当事者にその自覚と信念が無いのだ。だから腹立たしさが先に立ってしまうのだ。さりとて、親族の父にそれを説かず、他の演劇人に問うのもおかしな話になる。そうやって、とうとうこの歳になる迄、演劇とは本気で向かい合うことが無かったのだった。 
 もしかしたら、演劇人もそのことが分かっていて、日々「もどかしさ」に耐えながら少しでも演劇を覚醒させようとしているのかも知れない。いや、きっとそうに違いない。少なくとも、あの異端児だった父とウマが合った様な演劇人は、そうに違い無い。しかし、回りの人間迄もが皆同志とは限らない。そして、常に後進を育てて行かねばならないが、年々新しい感覚で次々に入って来る若者たちに、その精神や演劇論をどう伝えるのか? そして、劇団演劇の本懐が舞台である限り、観衆の存在は絶対的だ。その観衆の意識を変えることはもっととんでもない作業であろう。きっとその様な文化環境の中で、何人かの父の門下の様な演劇人の方々は、やはり父の様な孤高の存在か、異端児なのではないだろうか。

 重ね重ね父と共同作業をしなかったことが悔やまれるが、父の門下の演劇人の方々ともこの十年二十年、機会を作ろうと思えば出来た筈だ。勿論そこには、演劇人と音楽家との間の、永遠の溝や壁もあるが、元を正せば、共に「河原乞食(※)」ご同業だった筈だ。互いに枝葉の先を追い求めることを少し休んで、幹に立ち戻れば、改めた出逢いが得られるのではないだろうか。

(※)放送禁止用語なので、出版でも自粛用語かも知れない。恐縮であるが敢えて書かせて頂いた。そもそも「河原乞食」は、小学校三年の時に、クラス中が私に石を投げながら叫んだ言葉なのだから、幼少の頃からの私の誇らしいタイトルのひとつでもある。