バウルの便り

第09回

マーヤの河

夕暮れの田園風景:写真/Srut 日本では自民党が大敗したということをつい最近耳にしました。こちらは、32年間続いた共産党政権が崩壊寸前です。「民衆が血みどろの戦いをして克ち取ったんだ」と私もたびたび当時の話を聞かされていましたが、イデオロギーがどうであっても、人間性と組織の体質が腐敗して来てしまっていては、人々が「もう、ごめんだ!」と言い出すのは当然でしょう。人間の平等と平和を謳うどんなに立派な理念があっても個々人の我欲を抑えることは出来ず、むしろその理念は逆に我利我欲のために利用されていきます。
 自分のことを少し横において、人のために何かを考えるということは、人間にとって本当に難しいことのようです。ほんの少しの、ささやかな思いやりや愛情さえあれば、すべてが解決するように思うのですが……、それらが入る隙もないぐらい人々は自分のことでいっぱいなのでしょうか。
 人々は愛情に飢えているように見えます。みんなが自分を認めて欲しくて、みんなが「『私』を理解して欲しい」と叫んでいるように見えます。人のために何かしているように見えても、それは結局自分を認めて欲しいという欲求の現れであることが多いように思います。
 奪い合いは動物のすることですが、でも、「私が」「私が」と譲り合うことをいまだに出来ず競争する私たち人間の社会のことを考えると「人間は、まだまだ本当の意味で人間に成れていない」というインドの聖者たちの言葉がもっともに思えるものです。

バウルの唄

 マーヤの河をどうやって漕いで行くんだい?
 駆け出しの船頭よ。

 船頭よ、その河の岸はすべり易く、6人の女が魅惑する。
 その美しい姿に惑わされないように。

 愉楽に酔う船頭よ。
 船頭よ、その河は轟轟と唸り、土手を壊し水が溢れ、
 お前の大切な庭を流し去ってしまう。
 どれだけの聖者たちが沈んでしまったことだろう。
 そのマーヤの河に。

 船頭よ、その河の曲がったところに
 群れを成して人喰い鰐が棲む
 聖なる愛というターメリックをからだに塗りこめば
 無理なく渡れるのさ。

 ※6人の女
  6人のリプー(悪玉)………肉欲、怒り、貪欲、執着、傲慢、妬み

田園風景:写真/Srut 9月も半ばに入ったベンガル。例年なら、もうそろそろ雨期も明けようとするこの時期ですが、始まりが遅く雨量も少なかったせいか、まだまだどんより曇った日が続きます。この雨季も終わりの頃、毎年のように川が氾濫しますが、今年はベンガル州北西部の炭鉱が浸水し被害を受けたらしく、火力発電の燃料不足が予想されるとして私の住む村でも電力の供給制限のために一日の内10時間以上も停電する日が続いています。
 3ヶ月ほど前まで、強烈な太陽の日差しに茹で上がりそうになってぐったりしていたというのに、今は、雲の合間に時々太陽が顔を見せると、久しぶりの友人に会った時のような嬉しさと新鮮さを感じます。天から真っ直ぐに降りてくる陽光は、雨の雫に潤う青く茂った枝葉を眩いばかりにきらきらと輝かせ、その美しさは何もかもすっかり忘れさせてしまいます。
 太陽には何の思惑も目論見もありません。何十億年もの間、原子核融合反応を繰り返し続けているのです。日差しが強まったり、弱まったりするのは地球との関係と地球自身の環境に於いてであり、また、そういう意味で寒暖は「見かけ」であるだけです。「見かけ」は現実であるけれども、真実とは別のものと言えるでしょう。
 インド哲学では、この世は幻影(マーヤ)であり、絶えず移ろい変化し人の心を惑わすものとされますが、一般の人々の間でも、このことは個人個人の意識の奥深く了知されていることのように思います。
 こんな笑い話があります。
 出家したばかりの修行者がいました。師から授かった褌と一枚の薄い毛布、そして水差しだけを持ち物にして小さな藁葺き小屋に住み始めていました。ある日、いつものように朝4時に起き、礼拝をするため沐浴を済ませ、褌を替えようとしたところ師から授かった大事な褌がねずみに噛み切られているではありませんか。修行者は何とか破れた褌を付けその日は過ごしましたが、次の日もまた同じことが起こりました。修行者は考えました。「こんなことでは褌がいくらあっても間に合わない。そうだ! 猫を飼ったらどうだろうか。」
 修行者はさっそく猫を見つけて来て小屋で飼い始めました。 猫はねずみを見つけては食べてくれたので褌を噛み千切られることはなくなりましたが、ねずみがだんだんいなくなると今度は猫がお腹を空かし始めます。修行者は考えます。「かわいそうに、猫がひもじい思いをしている。出家者の私に毎日牛乳が手に入るわけでもない……。そうだ! 牛を飼ったらど うだろうか。」
 牛を飼い出した修行者は今度は牛に食べさせる草のために畑に出なくてはいけなくなりますが、そこでまた考えます。「こんなに仕事が増えたのでは身の回りのことが何も出来ない。世話をしてくれる女性が必要だ。」
 ある日、その修行者の導師が彼を訪ねて来ますが、それらしい人物は見当たりません。そこで近所の村人に聞いてみました。
 「この辺に修行者が住んでいたはずだが、知らないかね。」
 「ああ、その方なら、所帯持ちになっておられますよ。」
 修行者は結婚をして子供も出来ていたのです。

祭りで歌われるバウルの唄:写真/はな これは笑い話ですが、マーヤというのはこういうものです。
 それは時にとても真実味を帯びていて、とても必要に見え、時には愛情のように見えます。マーヤは太陽を覆う雲のように真実を見る眼を曇らせ、本来の目的を忘れさせ、真の自分を見失わせます。
 実際、私たち人間がこの肉体に備わる感覚器官で知ることの出来る世界には限界があります。可視光線の波長より短いものや、長いものは見ることが出来ないし、振動数16〜20000ヘルツの範囲外の音は聞き取ることが出来ません。
 ですから私たちは「見かけ」の世界にこだわり続け、それ以外の世界を忘れて過ごしている上に、欲望や様々な感情に左右され思考された世界で夢を見るように生きています。一見、愛のように見えるマーヤによる感情は嫉妬や競争、劣等感や悲しみを生み、それらが作り出す世界はまさに悪夢のようであるでしょう。夢なら目覚めれば夢だと気付きますが、私たちは一生眠り続けているのも同様です。
 真理は「不変」で「永遠」のものです。そして、言葉を超え、知識や心で捉えることが出来ない表現不可能なものですが、それ故、あらゆる基準、枠を超越し、すべてを分け隔てなく包み込みひとつにしています。
 マーヤは、人間が宇宙的な愛でひとつに結ばれていることを忘れさせ、人々はをばらばらにしていきます。
 けれども、「見かけ」であるからといって「現実」を本質から切り離すことは出来ないし、「見かけ」を偽りであるとはいえません。逆に、真理を追究するがために「見かけ」を切り捨てることが心を偽ることとなり、人間に与えられた素晴らしい営みをも切り捨てることにつながることになるかもしれません。修行者たちは、人里を離れ、情緒を抑え、女性と交わらず、家庭を持たず、厳しい戒律の元で日々を送りますが、心の中に葛藤がなく平穏であるかどうかは当人にしかわかりません。厳しい修行で得られるのはせいぜい人々からの賞賛で、「真理」を得るには程遠く、現実の自分と外側が分離し不自然な「私」をつくりあげるということも起こりかねません。
 心と言葉と行為が一致しない間は自然な「私」は生まれず、それゆえに純粋な愛も生まれません。
 バウルは完全なモクシャ(救い、悟り)を得ることを欲していません。自分が「神」と同様になることを望んではいないのです。むしろ、それ(「神」と呼ばれるもの)を愛し味わうことを望みます。
 人の心にこだわりが無くなった時、否定するものは何もなくなるのではないでしょうか。そして、与えられたものすべて、人生も情緒も身体もすべてが「大いなる源」を味わうために存在するでしょう。そのとき「私」は「私」であるけれども、唯一「あなた」を「私のもの」とし、また「私」を「あなた」のものとしてすべての欲を落とした愛すべき「私」となっているでしょう。
 規制されるものは何もありません。否定するものがないからです。
 バウルが特定の権威ある教義、儀式を認めずこの身体に宇宙のすべてがあるというのはそういう理由からでもあると言えるでしょう。そして「心」が欲求するものの奥深くを見つめます。「心」が意志するものの中にもきっと「宇宙」の意志が働いていると信じて……。
 さて、この身体にすべてがあるというバウル。冒頭のバウルの唄の中の「マーヤの河」は、もちろん、この身体にも存在します。でもそれはバウルの修行に深く関わるバウルたちだけの秘め事です。

コラムニスト
かずみ まき
1959年大阪に生まれる。1991年、日本でバウルの公演を見て衝撃を受け3ヵ月後に渡印。その後、師のもとで西ベンガルで生活を送り現在に至る。1992年、タゴール大学の祭りで外国人であることを理由に開催者側の委員長から唄をうたう事を拒否されるが、それを契機として新聞紙上で賛否両論が巻き起こる。しかし、もともとカーストや宗教宗派による人間の差別、対立を認めないバウルに外国人だからなれないというのは開催者側の誤りであるという意見が圧倒的大多数を占め、以後多くの人々に支援されベンガルの村々を巡り唄をうたう。現在は演奏活動を控えひっそりとアシュラム暮らしをしている。
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