バウルの便り

第04回

プラーナに嘘はない

 ここ何日間か、昼3時半過ぎ頃になるとバス通りの向こうからけたたましい音楽とともにサーカスの呼び込みが聞こえてきています。稲刈りがすっかり終わった今のこの時期、その稲刈り仕事や何かでお金が手に入った村人たちを見込んでテント芝居や映画会が行われます。何か書こうと思ってノートを広げたものの、この「サーカス呼び込み」の大激音に耳が占領されてしまい、その上に脳みそが人質にとられ、解放されるには村人全員がサーカスを見に行かねばならないような勢いに圧倒されてノートは真っ白なままです。最大音量で流される宣伝用の映画音楽のカセットテープは、たぶん半分以上が伸びているか磨耗していて、そうで なければカセットデッキの回転が不安定で、おまけに大音量に耐えきれないスピーカーは今にも割れそうな音を出しています。
 テレビの普及で生存競争が激しくなったことの現われなのだろうかと思ったりしていますが、なぜなら村に電気がなくテレビもなかった頃は、テント芝居や、映画上映会は村祭りと並んで村人たちの唯一の娯楽だったからです。もちろん宣伝カー?(と言っても荷台付きサイクルリクシャーに蓄電池とカセットデッキとスピーカーを積んだもの)も村を回っていましたが、それは私にとっては宣伝と言うより「村民のためのお知らせ」のように聞こえたものです。そしてその音楽は乾燥した空気に乗って農村の長閑さをますます強調するようなものでありました。これらの催しは、すこし懐の暖かくなった肉体労働者たちが楽しいひと時を過 ごせるようにという配慮でもあり、収益があればそれはまた村内行事に使われるようになっていました。その映画上映会の宣伝の音楽が聴こえてくると、アシュラムに住み娯楽というものに縁のない生活をしている私にまで村の人々のわくわくした気持ちが伝わってきて何かほんわかした気分にさせられたものです。けれども今はと言えば耳栓をしたくなるような騒音。なぜか村中がそわそわしているようにも思えます。
 今やIT大国のインド。情報化社会のスピードの速さと情報量の多さは2、3日前の出来事を忘れさせてしまいます。様々な情報が蔓延すると人々は新鮮な驚きを失い、それによって心は更に強烈な刺激を求める方向に向かいます。そして又そのことが、1ヶ月程前ムンバイであったような悪質なテロにも及んでいくのだと思います。実際ムンバイのテロはインド中を震撼させました。私はベンガルに住むようになってからの16年間、新聞も読まずテレビも見ない生活をしているので誰がどういう経緯で犯行を起こしたのかというような詳細については何も知らないも同然ですが、情報をあさって見たとしても、この複雑化した世界の資本の絡繰は背後にどんな力が動いているのか把握し難くしています。仮に解ったような気になったとしても、それもどこかで作られ発信された情報のひとかけらでしかないのです。けれどもひとつ言えるのは、いつもこういう時に利用されるのが宗教、人種、国家、思想という人間同士の対立であるということでしょう。人間同士の中にある憎しみ、妬み、嫌悪等が巧みに操られ、多くの人々が血を流し、嘆き悲しむ結果となるのであれば、まず私たちひとりひとりが出来ることでしなければならないのは自分自身の中から憎しみや妬みを洗い流すことでしょう。人間の身体が小宇宙であるとすれば、世界に起こる現象は人間の中の矛盾の投影とも言えると思います。
「性欲、怒り、貪欲、執着、驕り、妬み」これらをバウルは「6人の敵」と呼びますが、私の師はこれらを敢えて「6人の友」と言われます。「この6つは肉体がある限り決して無くなるものではない、性質をよく知ってうまく付き合いなさい。」と。これら6人は、一人ひとりが途轍もない力、エネルギーを持っています。見て見ぬ振りをして心のどこかに隠し込んでいると目の前に現れた時まったくのお手上げで対処できなくなります。
 無理やり押さえつけるのではなく、仲良く付き合いながら自然におとなしくなってくれるようにしようと言うのがバウルの修行法です。

バウルの歌

 俺たちは人間、
 でも、人というものを知らずにいるのさ。

 インディリオを王の座に据えた者、
 飾るところがなくなるまで飾りつくす
 それを制するためにどの道を行けばいいのか
 それすらも考えることがないのだ。

 ごらんよ、食べることに眠ること、そして恐れと房事、
 これらが俺たちを盲目にする。
 そして人の道を歩むことを遮り、
 更には6人が罠を張って待ち伏せる。

 人間に何があるか知った者、
 彼こそが安らぎを手にする。
 そしてこの世を十分に楽しみ
 何一つ残すことなくまた去っていくのだ。

 プラーナに嘘はないと行者は言う
 ドディチも一人の人間だったと。
 この一人の人間の影響がどんなものだったかと言えば、
 神々さえも彼から教えを請うたと言われているのさ。

 ◎インディリオ・・・・・・身体の10の感覚器官
 ◎プラーナ・・・・・・・・ヒンドゥー教の聖典
 ◎ドディチ・・・・・・・・プラーナの中のお話に出てくる聖者。

 幸せを得るため、喜びを得るため、楽しみのため、悲しみを紛らわすため……と人々はそれらを与えてくれる方法を捜し求めてさ迷います。けれどもそれらを自分の外側に求める限り、やがて熱は冷め心はまた新しい刺激を求めさ迷いだします。ですからこの唄もすべての解決方法は自分自身の中にあると 言っているのです。そして、神々を敬い宗教・宗派で争いをするよりも、人間の素晴らしさを知り、人としてその徳を、愛を開花させ全うし、人を愛するべきだと唄っています。
 さて、ベンガルの田舎の「大奮闘」のサーカス。「動物は何かいるの?」と見に行った人に聞いたところ「うん、ヤギが一匹いるよ。」という答え。私はそれを聞いてなぜか安心したような気持ちになり涙が出そうになりました。でも大評判のサーカス、人の噂によるとサーカスは1ヶ月ぐらい滞在するらしいと か。でもそれはあくまでも噂で、もしもっと続くようならどこかに避難するか、さもなければ「呼び込み」に負けず昼間3時半から夜10時まで大声で唄を歌うかのどちらかを選択しなければならなくなりそうです。

コラムニスト
かずみ まき
1959年大阪に生まれる。1991年、日本でバウルの公演を見て衝撃を受け3ヵ月後に渡印。その後、師のもとで西ベンガルで生活を送り現在に至る。1992年、タゴール大学の祭りで外国人であることを理由に開催者側の委員長から唄をうたう事を拒否されるが、それを契機として新聞紙上で賛否両論が巻き起こる。しかし、もともとカーストや宗教宗派による人間の差別、対立を認めないバウルに外国人だからなれないというのは開催者側の誤りであるという意見が圧倒的大多数を占め、以後多くの人々に支援されベンガルの村々を巡り唄をうたう。現在は演奏活動を控えひっそりとアシュラム暮らしをしている。
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