狼の見たチベット

第02回

ナンパラ峠で見かけたチベット人

 人間という奴は、あまり興味がないことはすぐに忘れるので、もう一度自己紹介をしておく。吾輩は狼である。名前などという煩わしいものは野性動物である吾輩には当然存在しない。

 ナンパラ峠の惨劇を見た吾輩はチベットについて詳しく知りたいと思うようになりチベット中央部に向かって駆けた。吾輩たち狼は最高で時速70kmで走ることができる。陸上動物で最速であるチータの時速120kmには遠く及ばないが、奴らはその速度で精々数百メートルしか走ることはできない。吾輩たちは時速70kmを維持したまま20km以上の距離を駆け抜けることができる。さらに速度を時速30km程度まで落とせば一晩中走り続けることすらできるのだ。

 さて健脚の吾輩がチベット中央部にたどり着くのが容易であることは読者諸君にもわかってもらえたと思うが、さすがにそれだけ走ると腹が減ってしまう。だが幸いにもチベット人の大半は遊牧民である。吾輩は彼らの家畜で腹を膨らませる算段をしていた。ところが家畜が見当たらないのだ。遊牧民達はどこへ行ってしまったのだ?吾輩は狼狽したものの空が明るくなってきたので空腹に絶えながら眠りについた。翌晩も吾輩は遊牧民達を探し求めた、だが彼らの姿は見当たらない。おかしい。いったい何が起きたのだ?吾輩が来るのを知って遊牧民たちはみんな逃げてしまったのか?さすがにそんなことはないだろう。吾輩は一晩中遊牧民の姿を求めたがその夜も徒労に終わった。

 翌日、吾輩は一つの町を見つけることができた。こんなところに町があるとは聞いたことがなかった。中を覗くと、そこにはチベット人たちが居た。かって自由に放浪していた遊牧民たちは家畜を奪われ、塀に囲まれた町に閉じ込められていたのだ。家畜を奪われ、こんな何もない町に閉じ込められて、どうやって暮らしていくのだろうか?彼らはどこで働いて、どうやって収入を得ればいいのだろうか?大きな街に働きに出ようにも交通手段すら見当たらなかった。いたたまれなくなった吾輩はこの町を後にした。その後も同じような町をいくつか見かけた。武装警察のパトカーが町を囲む塀の周りを巡回しているのを見かけたこともあった。チベットの遊牧民達は、囚人か家畜のように中国兵たちに囚われているのだった。なぜ、こんなことになったのだろうか。町に住むチベット人たちの会話に耳を傾けた限りでは、こういう話のようだった。中国政府は、チベットの大地に眠る豊富な地下資源を手に入れるために、チベットの土地の権利が欲しかった。そのためには広大な土地を行きかう遊牧民達の存在は極めて邪魔なものだったのだ。また、遊牧民達が自由に好きな場所に移動できるということは、中国政府が遊牧民達を支配し統制するうえで、とても邪魔なことだった。そこで中国政府は遊牧民達に僅かな保証金と引き換えに家畜と土地を放棄させて遊牧をやめて、中国政府が用意した定住地に住むことを強要した。これを拒否した遊牧民は、容赦なく投獄された。

 数日後、幸いにもまだ塀に閉じ込められていない遊牧民の集落を見つけ、吾輩は腹を膨らませることができた。集落には教師と呼ばれる若い男がちょうど来ていた。中国の統治下ではチベットの子供達はチベット語やチベットの伝統的な文化を学ぶ機会を奪われていた。そこでこの男のようなものが危険をおかして集落を回り子供達に教育を与えているということだった。もちろん、そんな教師は十分な数はいない。多くのチベットの子供達は自分達の言葉すら奪われてしまっているのが現実だった。吾輩の子供達が吼えることができず、ニャーニャー鳴いてる姿を想像してみた。情けない、そんなものは狼じゃない。吾輩はナンパラ峠で見かけたチベット人たちが何故、あんな危険を冒してまでチベットを脱出しようとしたのか、ほんの少しだけわかってきた気がした。彼らはチベット人であるためには、チベットを離れる以外なかったのだ。チベットの言葉を学ぶには、チベットの文化を学ぶには、自由にチベットについて語るにはチベットを脱出する以外、彼らには道がなかったのだ。

給与格差 吾輩は、ここまで来たからには少々危険が伴ってもより詳しいことを知りたいと思い、かってチベットの首都であったラサに潜入した。ダライラマの宮殿であるポタラ宮のあるとても美しい街だと聞いたことがあった。吾輩は野良犬のふりをして街に入りこみ街中を見て回った。ところが街はチベット人のものではなかった。多くの看板は中国語で書かれていた。ラサの人口はチベット人よりも中国人の方が多くなっていたのだ。これは近年開通した青蔵鉄道が大量の人間の輸送を可能にしたことの影響が大きかった。中国政府はこの鉄道はチベットを豊かにするためのもので、中国がチベットを大事に扱っている証拠だと言った。だが実際は多くの中国人を運んできて、チベット人から仕事を奪い、そして多くのチベットの資源を中国本土へと運び去るためのものにすぎなかった。また中国政府が罪の軽い犯罪者に対して懲役刑の代わりにチベットやウイグルへの移民を勧めていることもチベットにおいて中国人の人口が増えている大きな理由の一つのようだった。犯罪を犯した人々を移民させてしまえば、中国からすれば中国本土の治安の上でもプラスだし、チベットの中国人人口を増やすうえでもプラスとなる。中国政府にとってはとても都合が良いことばかりだった。だが、もちろんチベット人からすれば犯罪者が移住してくることなど、良いことなんて何もないことだった。職も奪われ、治安も悪化し、食べるものすら奪われた。そして中国人の比率があがってきたのは人口だけではなかった。ラサの街にある店や企業の実に9割以上ほぼ全てが中国人が運営するものとなっていたのだ。吾輩が偶然見かけた求人看板には、中国人50元、西蔵人30元という差別賃金すら堂々と書かれていた。かってのチベットの首都だったラサは、すでにチベット人の街ではなく、中国人の街だったのだ。

 吾輩は、これ以上この場所を見ていたくないと思い、ラサを後にした。しかしラサを訪れる観光客の多くは、この現実に気づきもしていないようだった。チベット人がもちまえで持っている笑顔だけを見て、チベット人も中国の統治下で、中国人と一緒に幸せに暮らしているんだと信じ込んで帰っていくようだった。世の中には、どんな時でも笑える人間がいる。悲しくても、辛くても人は泣いてばかりなんていられないのだ。狼である吾輩にすらわかるのに、それに気づかない人間が多すぎる。人間というやつは、人間というものを、一番知らない生き物なのかもしれないと思った。

 次回は、このチベットの現状を世界に伝えようとした一人の男について語ろうと思う。

コラムニスト
太田 秀雄
1971年福岡に生まれる。地元筑紫丘高校を卒業後、九州大学で生物学を専攻する。コンピュータプログラマを生業とする傍ら、いまだに学究心が捨てきれず大学に戻ろうと画策している。2008年3月のチベット騒乱を機にチベット支援に積極的に関わるようになり、国内外のチベット支援者や亡命チベット人達と広く交友関係を持つ。チベット支援をしているものの、別段中国の全てに否定的というわけではなく、とくに『三国志』や中華料理は大好きである。尊敬する人物は、白洲次郎、ホーキング博士、コルベ神父。