狼の見たチベット

第12回

ダライラマの亡命

 我輩は狼である。
 2010年、新しい年の幕開けだ。
 ヤクから聞いた話の続きをする予定だったが、その前に一つ語らねばならない話がある。

 ドンドゥプ・ワンチェンという名前を覚えているだろうか。チベットの現状を世界に伝えようと、普通に生活しているチベット人たちの生の声を映像にとりためて送り出した男だ。(狼の見たチベット第3回、第9回参照)
 2008年3月から中国当局に拘束されていた彼に、昨年末2009年12月28日に非公開の裁判で、懲役6年の判決がくだされていたことがわかった。
 中国がチベットに設置している刑務所では、通常囚人たちは医療の恩恵を受ける機会を与えられない。病や衰弱が末期に来た囚人のみが、刑務所内で死亡したわけではないという体裁を繕うために、軍病院に移送されたり、家族のもとに引き渡され、そして息絶えるのが慣例だ。以前語ったように、ワンチェンは不衛生な留置所内での拷問と虐待でB型肝炎に感染している。ワンチェンが6年の懲役を生き延びることができるのか。我輩はいたたまれない思いで、ただ吼えることしかできなかった。

 当然のことだが、ワンチェンの家族は、上告を試みるそうである。希望がまったくないわけではない。当初、中国側は10年の刑期をワンチェンに科すという情報もあった。
 ところが世界中からワンチェンを救うことを求める多くの声が集った結果、中国政府はワンチェンの刑期を6年とした。再び、前回以上の声が世界中から寄せられれば、ワンチェンの刑期が短縮されることや、解放されることもありえるかもしれない。過去にも、国際的なキャンペーンの結果刑期が短縮されたり、死刑から懲役刑に減刑された例が中国の司法にはあるのだ。

 それでは、今回の本題に入ろう。
 ダライラマ、チベットについて何も知らない者でも一度は聞いたことがある名前ではないだろうか。我輩たち四足で駆け巡る獣でさえ名前ぐらいは聞いたことがある。歴代のダライラマは、中華人民共和国が侵攻してくるまで、300年に渡ってチベットの政治と宗教双方の指導者だった。そのダライラマがなぜ、今はチベットでなくインドにいるのだろうか?
 中国がチベットに侵攻後、多くの人々がダライラマに亡命を進めた。インドに外遊したときは、そのままインドに留まってはどうかと当時のインドのネール首相からの申し入れもあった。それでも当初、ダライラマはチベットに留まった。それは彼がチベットの指導者だったからか? 一人のチベット人として自分の故郷を離れたくないと思ったからか? 我輩も、我輩に話を語ってくれたヤクも獣であり、人の心の細部まではわからない。その時ダライラマが、どのような思いでチベットに留まろうと思ったかは、お前さんたち自身の心で推察してほしい。

 前回も語ったように、中国は自分たちが強制した17条の協定を有名無実のものとし、チベットへの支配を拡大していった。ラサに進駐した中国軍による食料や物資の徴発により、ラサや近隣では食糧不足に陥り、物価は数倍に跳ね上がった。ラサの人々は、今までに経験したことのない飢餓というものを味わうことになった。
 青海省や四川省に編入されていたチベット東部では多くの人々が勇敢に人民解放軍と戦った。近代化された武装を持ち、数でも優勢な人民解放軍を相手にカムやアムドの戦士たちはゲリラ戦で多くの打撃を与えた。中国側も容赦なく反撃を行い、多くの村が廃墟と化した。数千人の難民が東チベットから中央チベットに流入した。
 そんな中、中国当局からダライラマのもとに観劇の招待がなされた。中国側は、ことを大げさにしたくないので、ダライラマには随員や護衛をつけずに来てほしいと要請した。招待される観劇の会場は、中国軍の司令部だった。

 この観劇は、当初秘密裏に遂行される予定だったが、ラサの市民たちの知ることとなった。ラサの市民たちは、この招待がダライラマを誘拐もしくは亡き者にしようという中国の陰謀だと思った。当然だ、我輩でも聞いただけで罠だとわかる。
 軍事力を背景に罠だとわかっていても、その罠にダライラマが飛び込まざるえないと中国は確信していたのか、あるいは罠だと気づかれないと思い込むほどチベット人たちを馬鹿にしていたのか。それは我輩にはわからないが、この陰謀は50年前に実際に行われようとした。
 それに対して陰謀を知ったラサの市民たちは立ち上がった。観劇の予定日であった1959年3月10日、3万人の群集がダライラマを護るために、ダライラマの宮殿を取り囲んだ。
 状況は一触即発のものだった。宮殿を取り囲む民衆と、中国軍との間の衝突は避けがたい状態だったという。中国側としても、占領地で血気にはやった民衆が3万人集っていると聞けば臨戦態勢となったであろうことは想像にたやすい。特に東チベットでゲリラ戦が続いていた時期でもあったから、なおのことだ。

 ダライラマは、このままチベットに留まることが民衆を危険にさらすことに繋がると判断した。側近たちの勧めに従い、ダライラマはついに亡命を決意した。およそ8万人の人々がダライラマとともにインドを目指した。インドとの国境付近まで落ち延びてきたときに、ダライラマは有名無実のものであった17条協定の無効を宣言し、チベットは独立国であることを確認した。
 しかし、ダライラマの決断にも関わらずラサの人々は救われなかった。人民解放軍は、自分たちの意向に逆らったラサの市民たちをけして許しはしなかった。
 ラサの街のあちらこちらで市街戦が繰り広げられた。ダライラマが逃げ延びたあとの主なきノルブリンカ宮殿には、およそ800発の砲弾が打ち込まれた。ラサに残ったダライラマの護衛や、僧侶たちは、中国当局によって捕らえられ処刑された。 多くの寺院が人民解放軍により破壊され、略奪された。ダライラマの思いとは裏腹に、ダライラマがラサを後にしてから数日の間に87000人のチベット人たちが、命を落としたといわれている。

 しかし、チベット人たちは、今でもダライラマが自分たちを見捨てたわけではなく、護ろうとしたことを知っている。多くのチベット人たちが、ダライラマへの思慕の念を抱き、その帰還を待ち望んでいる。先に語ったドンドゥプ・ワンチェンが撮った映像の中でも、多くの人々がダライラマへの思いを語っていた。もしダライラマが帰還したならば、うれしさのあまり川に飛び込んで死んでしまうかもしれないと、豪快に笑う老婆の姿が我輩にはとても印象的だった。

▲ Youtube Movie

ドンドゥプ・ワンチェンさんの解放を求めるオンライン署名サイト
A4の厚手の紙に印刷して、切り離してそのまま使える署名はがきのテンプレート
胡錦涛国家主席、温家宝首相、司法部(法務省)、公安部(警察庁)宛てにワンチェンさんの解放と適切な医療・司法処置を受けれる用に要請する内容(注:PDFファイルが開きます)

ワンチェンさんの状況を説明するチラシ(是非、ネットを見ない方にもワンチェンさんのことを伝えてください。注:PDFファイルが開きます)

コラムニスト
太田 秀雄
1971年福岡に生まれる。地元筑紫丘高校を卒業後、九州大学で生物学を専攻する。コンピュータプログラマを生業とする傍ら、いまだに学究心が捨てきれず大学に戻ろうと画策している。2008年3月のチベット騒乱を機にチベット支援に積極的に関わるようになり、国内外のチベット支援者や亡命チベット人達と広く交友関係を持つ。チベット支援をしているものの、別段中国の全てに否定的というわけではなく、とくに『三国志』や中華料理は大好きである。尊敬する人物は、白洲次郎、ホーキング博士、コルベ神父。