狼の見たチベット

第14回

テンジン・ドルジェの言葉

 我輩は狼である。2月14日と言えばバレンタインデーだ。お前さんたちの国、日本では女性が男性にチョコレートを送り、代わりに一ヵ月後に高価な品々を巻き上げるという変わった風習があると聞く。

 バレンタインの起源はローマ時代に遡る。当時、ローマ帝国は兵士の結婚を禁止していた。故郷に愛するものを残すことで、兵士が命がけで戦えなくなることを避けるための法だった。しかし、法で禁止したところで人の心からの思いは変えることなどできはしない。どうやら古代ローマの為政者は、現代のどこぞの為政者と同じ程度に人の心を理解できない存在だったようだ。
 そんな恋人たちの思いをかなえるために、秘密裏に結婚の儀を行っていたのがキリスト教の僧侶であるバレンタインだった。しかしながら法を破って結婚をさせていたバレンタインはローマ帝国によって処刑されてしまう。その処刑された日が、バレンタインデーの発祥であるというのがキリスト教的な起源だ。
 ところで、その日はローマでは女神ユノの祝日であった。ユノはギリシア神話でいる女神ヘラ(ゼウスの妻)で、結婚と女性の守護者であった。結婚の女神の祝日に、秘密裏に結婚の儀を行っていた異教徒の僧侶を処刑したというのは事実だろうか。我輩ならば、結婚を司る女神の不興を蒙るのを避けるために、別な日を選んで処刑する。
 どうやらキリスト教の中でもバレンタインの処刑は史実であるという根拠が薄いと考えられているようで、今現在はカトリックの正式な祝日からは外されていて、あくまでも民間的な習慣に過ぎないそうだ。
 それでは、なぜそんな伝説が生まれたのだろうか。キリスト教以前にも、その日は女神ユノの祝日であったのだから、愛に関わる記念日の側面もあったと考えることはたやすい。聖者バレンタインの伝説を創造することで、愛に関する記念日を消すことなく、異教の女神への信仰を葬り去るための、初期キリスト教の一端ではないだろうか。
 同じようなことは、世界のいろんな宗教で起きている。ギリシア神話を知っている人は、主神ゼウスの女癖の悪さもよく知っているかと思う。ギリシア神話にはゼウスの恋人に関する神話が山のようにある。
 しかし、これも何の理由もないわけではない。古代ギリシアには多くの部族が住んでいて、それぞれの神を祈り奉っていた。ひとつの部族が、他の部族と戦い勝利した後、支配するうえで、この異なる信仰というやつは大きな障害となった。違う信仰を持つことは、違うアイデンティティを持つことで、違うアイデンティティがある限り、相手を完全に同化・支配することはできない。
 中国が、チベットを支配する上で、幾千もの寺院を破壊し、多数の僧侶を殺し、公衆の面前で尼僧たちを犯したのも、チベット人から仏教というアイデンティティを奪い、支配しやすくしようという意図からであったのだろう。
 ところが、古代ギリシアの蛮人たちは、現代の共産党政府ほどには野蛮でも、愚かでもなかった。征服した部族を同化するために、彼らは虐殺や破壊を行う代わりに、「実は君たちの神も、私たちの神も名前が違うだけで、本当は同じ神なんだよ」ということにしていった。
 征服者の主神は、被征服者の主神の神話を受け継いでいった。結果、ゼウスは多くの神話をもち、多数の恋人を持つことになった。ロマンティックとされる、バレンタインやギリシア神話の中にも、征服と支配のドロドロとした歴史が眠っている。人間という生き物は、良くも悪くも興味深い。

 さて、2010年の2月14日には、バレンタインデーだけでなく、別の祝いの日でもあった。
 チベット人たちのロサル(新年)である。公平を期すために言えば中国人たちの春節も月の運行で決まる太陰暦であるためにこの日から始まるわけだが、十数億もいる彼らのことだ我輩が語らなくても、嫌というほどいろんな場所で語られるだろうから、彼らの春節については多くは語る必要はないだろう。
 近年、古来からの中華街のある街だけでなく、日本各地で春節を祝う行事が開かれているので、自ら足を運び、楽しんでくることで知るのもよいかと思う。もっとも日本各地で今まで祝われていなかった春節が祝われるようになっているということは、考えようによっては空恐ろしく感じる部分もあるが。

 ともあれ、我輩が語るのは、中国人の春節ではなく、チベット人のロサルである。今年のロサルを祝うかどうかは、一部のチベット人の間に葛藤があったと伝え聞く。
 2008年3月で捕らわれた人々が、まだ自由になっていないということがひとつ。中国政府が、平静を強調するためにロサルを祝うことを強要していることへの反発がひとつ。そんな中で、一人のチベット人の発言が印象に深かったので、お前さんたちにも伝えることにしよう。
 そのチベット人は、テンジン・ドルジェと言い、現在アメリカに住んでいる。彼は、なかなか興味深い人間なので、彼については、今度ゆっくり話そう。彼は、こんな風に言っている。

 ロサルはチベットのものだ。
 ロサルはチベットの人々のためにある。
 誰も私たちから奪うことはできない。

 自分はチベット固有の祭りが意味をなさないような遠い外国に住んでいる。
 毎朝、毎晩混雑している地下鉄で戦い、見知らぬ人たちのまなざしを逃れ、自分の歩く地面 は、山の故国から遠く海と空を隔てている。
 なぜロサルを祝う必要があるのか?
 西暦での新年はもう終わってしまったのに。

 さて、答えは簡単だ。
 どこに住んでいようが、自分はチベット人だからだ。
 チベット人が自分たちの伝統を祝わなくてどうするのだ。

 中国当局も、チベットの一部の地域ではチベット人がロサルを祝うのを奨励しているという。
 花火への補助金を出しているところもあるそうだ。
 言うまでもなく、ロサルを「乗っ取ろう」という中国当局の哀れな試みは、ロサルを中止するまで思い詰めていたチベット人たちに反射的な怒りを引き起こさせた。
 ロサルを祝うのは中国当局の指示によるものだ、というのは間違いだ。
 同様に、中国当局が祝うように言うから、ロサルを中止する、というのも間違いだ。
 伝統を尊重 するならば、中国当局への賛否ぐらいで、そんなに簡単に左右されるべきではない。
 中国は自分たちの伝統に口を出さないでほしい。
 私たちチベット人は、いつ、どこで、どのようにして、いかにロサルを執り行うか、私たち自身で計画して活動せねばならない。
 来年も、その翌年も、中国当局はロサルを祝うようにと、私たちに言うだろう。
 ただアピールのために毎年ロサルを中止すべきだろうか?

 中国政府に本当に痛手を負わせたいと思うなら、彼らを排除してロサルを行うべきだ。
 そして、私たちは自分のアイデンティティを主張するのに、この機会を利用すべきだ。
 チベットの食べ物を食べ、チベットの衣服を着て、チベット語を話し、チベット語でロサルのカードと表札を書き、バターランプを灯して、コルラ(右僥)する 。
 カターを扉にかけ、ルンタを風に泳がせ、ツァンパとお香の匂いで空気を満たす。

 チベット本土からの記事や詩でも、中国人から私たちをひきはがし、気力を養い、私たちのアイデンティティを確認する機会としてチベット人たちがロサルを祝おうと しているという。
 ハートマークに”Tibet”という文字を添えて、ヴァレンタインデイとロサルが重なることを示す人も多いという。
 例えばラサでは、ほとんどの人たちがロサル前の買い出しを終え、それぞれの自宅でロサルを祝おうとしていると聞く。
 2年近くになる事実上の戒厳令下で、グチュの熱い鍋や、デシーの甘い皿を友人や家族と囲んで、精神を養うのだ。

 悲しみは象徴的な振る舞いとしては大切だけれど、政治的には一定の価値しか持ち得ない。過度の悲しみは、死者を生き返らせるよりむしろ、生きている人を死に近づけてしまう。
 本当は、自由へのチベット人の戦い(命をかけた戦い)、草の根からの活動による戦いを進めることが、殉教者を勇者たらしめているのだ。
 人々が参加し たいと思うのは、躍動的で包容力にあふれ、魅力的でダイナミックな活動だ。
 決して、自己憐憫と無限の悲しみと涙の海に一緒に溺れたいと思わないだろう。
 私たちの悲しみではなく、私たちの精神で、私たちの嘆きではなく、私たちの行動で、私たちとその抑圧者とを区別しよう。
 行動を一歩進めたいのなら、そして犠牲になった人々に敬意を表したいのなら、チベット人として、行動によって、誓いによってロサルを行うべきだろう。
 今年のロサルには、ぜひ毎週何をするとか、できれば毎日何をするとか、そういう決心をしてほしい。それがチベット人を強くし、中国帝国を弱めることになるのだから。

コラムニスト
太田 秀雄
1971年福岡に生まれる。地元筑紫丘高校を卒業後、九州大学で生物学を専攻する。コンピュータプログラマを生業とする傍ら、いまだに学究心が捨てきれず大学に戻ろうと画策している。2008年3月のチベット騒乱を機にチベット支援に積極的に関わるようになり、国内外のチベット支援者や亡命チベット人達と広く交友関係を持つ。チベット支援をしているものの、別段中国の全てに否定的というわけではなく、とくに『三国志』や中華料理は大好きである。尊敬する人物は、白洲次郎、ホーキング博士、コルベ神父。