狼の見たチベット

第28回

高僧アジャ・リンポチェ

 吾輩は狼である。
 今日は、一人の僧侶について語ろう。

 以前話したように、チベットにはトゥルクと呼ばれる特別な僧侶たちがいる。平たく言うと高僧が生まれ変わるという信仰だ。生まれ変わって、また坊さんとは御苦労なことだ。もっとも吾輩も生まれ変わりなんてものが本当にあるのならば、次も狼以外の生き物に生まれ変わりたくはないが。そんなトゥルクの一人に「アジャ・リンポチェ」という僧侶がいる。「アジャ」というのはお父さんという意味で、チベット仏教ゲルク派の始祖ツォンカパの父親が転生したのがアジャ・リンポチェなのだそうだ。

 実はこのアジャ・リンポチェ、お前さんたちの国である日本とも縁がある人物だ。先々代のアジャ・リンポチェは、明治時代に日本に来たことがある。力自慢だったアジャ・リンポチェは、明治天皇の前で力士と相撲を取って、見事勝利をおさめ、明治天皇から褒美をもらったそうだ。坊さんが相撲とりを投げ飛ばす姿、なかなかシュールで楽しげな光景だ。当代のアジャ・リンポチェも子供のころに、先々代が明治天皇からもらった褒美の品を見たことがあるそうだが、中国の占領下で、今は散逸してしまっている。

 当代のアジャ・リンポチェは、当初、表向きは中国に対して協力的な態度を示していた。中国側は、その態度に安心し、中国人民政治協商会議委員、中国仏教協会副会長、青海省仏教協会会長などの要職につかせていた。
 このアジャ・リンポチェ、実はチベット人ではなく、モンゴル人だ。
 今までのコラムにも出てきたが、チベット人とモンゴル人には文化的な繋がりがあり、モンゴル人にもチベット仏教の信徒は多い。どちらも遊牧民で、地続きなので、当然と言えば当然のことだ。有名どころでは、横綱をやめた朝青龍もチベット仏教の熱心な信徒で、ダライ・ラマが沖縄に来た時は、ダライ・ラマに会いたいという気持ちを抑えきれずに、けいこを休んで飛行機で沖縄に行っている。
 話を戻すと、当代のアジャ・リンポチェは、中国の行政区分で言う青海省、チベットのアムド地方のモンゴル人遊牧民の子供だった。2歳の時に、当時14歳のパンチェン・ラマによって、10人の候補者の中から何の迷いもなく即断で選ばれたそうだ。

 ところで、中国側の信任も厚かったアジャ・リンポチェが、なぜ亡命を決意したのだろうか? 実は、これにもパンチェン・ラマが関わっている。現在、中国に2人のパンチェン・ラマがいることを、以前話したかと思う。ダライ・ラマによって認定された本物のパンチェン・ラマと、中国政府が勝手に認定した偽パンチェン・ラマだ。
 1998年、中国政府は、アジャ・リンポチェに、この偽パンチェン・ラマの教育係を引き受けるよう指示した。『これを受け入れれば、ダライ・ラマが認めた本物のパンチェン・ラマを否定することになる。中国国内にいる限り、教育係を断ることは不可能だ』、アジャ・リンポチェは、そう考えて、亡命を決意し、実行にうつした。
 亡命後、アジャ・リンポチェは、偽パンチェン・ラマが選ばれた経緯についても語っている。偽パンチェン・ラマの選出は、金壷と呼ばれる壷を使ったくじ引きで行われた。金壷については、いずれ語るつもりなので詳細は省くが、そのくじ引きの場には、チベット本土に残っていた高僧のほとんどが集められたいた。中国側が、この儀式の体裁を整えるために集めたのだった。僧侶たちは多数の兵士たちの監視の下で、この儀式に参加し、籤をひいた僧侶は、中国政府の指示通りに印のついた籤を引き、今の偽パンチェンラマが選ばれたのだそうだ。

 2011年3月11日、東北地方を未曾有の大災害が襲った。アジャ・リンポチェは、この災害に大変、心を悼めた。2008年秋、多くの在日モンゴル人や、その支持者らからの招聘でアジャ・リンポチェは日本を訪れたが、その折に、東北地方にも立ち寄っていたのも一つの理由だろう。
 2011年6月4日仙台市にある松音寺という寺で、アジャ・リンポチェを招き、震災犠牲者慰霊のための法要が行われた。法要のあと、アジャ・リンポチェは一体の仏像を松音寺に安置した。それは、チベットで多くの信仰を集めるターラー菩薩、観音様が流した涙から蓮が生え、その花の中から生まれたとされる菩薩の像だった。アジャ・リンポチェが亡命する時に、僧院長を務めていたクンブム僧院から、この仏像だけは手放せないと持ってきた品物だった。
 アジャ・リンポチェは「私はこのターラ菩薩に今まで何度も苦しい時や困難な時を助けて頂いた。今度はこの度の大震災によって苦しんでいる被災者の方々を救って頂く為、被災地であるここ宮城にお持ちして縁のある松音寺に安置することにした」と語ったそうだ。

 吾輩は狼である。
 狼である吾輩には、仏像の価値などわからない。煮ても焼いても食えないものなど吾輩には必要ない。もっとも野生動物である吾輩は煮炊きなどしないが。だが、ひとつわかることがある。仏像だろうが、一冊の本だろうが、一枚の絵だろうが、一人の人間が自分にとって大切な物を、他人のために自ら手放すということは、とても尊い行いだということだ。こんな指導者を持つチベット人やモンゴル人は、ある意味、お前さんたち日本人よりも幸せなのかもしれない。

コラムニスト
太田 秀雄
1971年福岡に生まれる。地元筑紫丘高校を卒業後、九州大学で生物学を専攻する。コンピュータプログラマを生業とする傍ら、いまだに学究心が捨てきれず大学に戻ろうと画策している。2008年3月のチベット騒乱を機にチベット支援に積極的に関わるようになり、国内外のチベット支援者や亡命チベット人達と広く交友関係を持つ。チベット支援をしているものの、別段中国の全てに否定的というわけではなく、とくに『三国志』や中華料理は大好きである。尊敬する人物は、白洲次郎、ホーキング博士、コルベ神父。
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