金佩華氏(右)と福岡愛子氏(右)

▲福岡愛子さん(左)と金佩華さん

 ──金佩華さんは今年三月、集広舎より『北京と内モンゴル、そして日本──文化大革命を生き抜いた回族少女の青春記』を刊行されました。福岡愛子さんはその書評を『読書人』(5月16日号)に執筆されました。その書評を読まれた集広舎代表の川端幸夫さんから私宛てに、お2人による対談を実現したいので、ぜひ協力して欲しいと言われたことから始まって本日の対談が実現しました。

 福岡愛子さんは、2008年に『文化大革命の記憶と忘却──回想録の出版にみる記憶の個人化と共同化』(新曜社)を刊行され、5年を経て今年の1月に続編と言うべき『日本人の文革認識──歴史的転換をめぐる「翻身」』(新曜社)を刊行されています。金さんは体験者として、また福岡さんは研究者として、文化大革命に関する著作を刊行され、立場は違いますが、それぞれ文化大革命には深い思いをお持ちであると拝察します。そのお二方に直接お話いただいたほうが対談はスムーズに進むと思いますし、内容も豊かなものになると思っています。

 最初に、金さんから福岡さんの書評を読んでの感想を述べていただき、福岡さんには、著作でたくさんの方に聞き書きをされていますが、その手法も念頭に置いていただいて、あとはお2人で自由にお話を進めてください。よろしくお願いします。

 

 高く評価していただき、心から感謝しております。この場を借りてお礼を言いたいと思います。ありがとうございます。
 書評の中に「日本の読者にも共有可能な夢と挫折の『青春記』として」というところがあります。私自身も日本の読者に、できるだけたくさんの方に読んでいただきたいという思いがありましたので、この一文を読んだとき、すごく嬉しく思いました。共感してもらえた、私のことをよくわかってくれた!と感じたのです。「恐らく当時の日記とその後知りえた事実をもとに綴られている」というところを読んで、ああ、本当にそのとおり。そのとき、そのときの日記をひととおり全部読んで、いろいろ調べて書いた…、よくわかっていただいたと嬉しく思いました。
 自分でははっきり意識していなかったことを指摘されて、ハッとさせられたところもありました。内モンゴルに行ったときは目の前の苦痛から逃げ出したい一心でした。その苦痛の元は何なのか、もちろん文革という現実ですね。ただ、その先はあまりはっきりしなかったのです。書評を読んで、「革命か反革命かの単純思考から逃れるため」だったのだ、ああ、そうか、苦痛の本当の元はこれだったのだと気付きました。自分はでそこまではっきりしていなかったのです。気持ちが通じたと感じたのです。書評には、「文革に関する回想記も『紀実文学』も、多くは当時の不幸に照らして今の幸せを享受できる人々の記憶の再構築である。それができない人々、あるいは、それ以前に人間と自然の過酷さによって命を落とした人々の無念を思いやらずにはいられない」と書いてあります。自分の気持ちとしては、自分もいろいろあったけれども、今のような生活ができているし、やはり恵まれているほうだと思っています。だから、自分よりもっと大変だった人たちのために、また命を落とした人たちのために書こうという気もちが、本当に強かったのです。ここを読んでいるとき、本当に気持ちが通じたようで、すごく嬉しかったのです。本当にありがとうございました。

福岡 先に書評を褒めていただいて恐縮です。本自体に、私自身がとっても興味があって、読み物としてぐいぐい惹かれて最後まで楽しく読めました。楽しいというと語弊がありますが、それが書評に表れたということだと思います。

 

文革をどのように語るのか、なぜ語るのか

福岡 必ずしも全面的に徹頭徹尾称賛する意図はなく、本当に私の感じたことを書いたのですけれども、今の金さんのご感想をうかがって、非常に興味深いなと思ったのは、第1点目は後から言いますけれども、日記と、後から知りえたことを加えて書いているということです。日記をつけていたということはご本の中にも書いてありますね。何年何月何日にどういうことがあったか書かれてあって、また、恐らくその当時は渦中にあって知りえなかったであろうことが、ちゃんと年月日を添えて書かれているというのは、事後的に知りえたことを追加なさっているのだろうなというのがわかるのです。それが効果的で、読む側にとっては、こうだった、ああだったということが、ただただ書かれているだけではなくて、ある程度時系列的な枠組みをきちんと提示しながら書かれてあるので、すごくわかりやすいのです。
 「私の回想」という一人称の回想記ですと、やはり、「私が、ああだった、こうだった」という記憶を忠実に綴ろうとするので、そのあたりに矛盾が生じるかもわからないですね。あのときは知らなかったのだから、その後から知ったことを、例えば林彪事件[1971年、毛沢東暗殺に失敗した林彪らが逃亡を図りモンゴルで墜落死した]がどうだったこうだったと書いたら、それはやはりそのときの本当の気持ちを正直に書いたことにならない。回想としての体験者の証言という文脈に置き換えて、その人の気持ちを綴るということにならない。だけど、主人公を別に立てて、もうちょっと俯瞰的に、主人公の気持ちそのものを書く部分は、まさに「あとがき」で「佩蘭(ペイラン)は私だった」と言えるような、主人公に寄り添った気持ちのまま書ける。また事務的に必要なデータというのは語り手、筆者の立場で書ける。そういう意味でも、巧みな叙述の方法がとても効果的だったのではないかと感じたわけです。
 文革という現実の中で、何が辛かったか、何から逃れたかったかというと、単純思考ですね。革命か反革命か、という単純思考から逃れたかったのだということも書いていらっしゃいます。私自身もそのあたりがいちばん文革を考えるときに耐えがたいことなのです。金さんはそれをご自分で書いていらっしゃって、私もそうだろうなと思い、改めて書きだしたということに注目するわけです。私は金さんのことを、このご本と出合うまでまったく知りませんでしたし、読んだあとも個人的には存じ上げないわけですから、私がこの本を通して知りえた範囲で書いたことによって、金さんにも改めて書きだしたことは重要なことだったと再認識していただけたのではないかと思います。
 それから、最後におっしゃった今の幸福な現状について。今から顧みて、あのときの不幸を乗り越えてきて今があるというような語り方のできる人が書くことが多いですね。だから、下放[都市の知識青年・労働者を農村に移住させること]青年の現在の状況によって、下放経験というものがまったく違った語り方をされるでしょうし、あるいは語りえない場合もあるわけです。そのことに関連して言えば、私は『文化大革命の記憶と忘却』を執筆するために北京の国家図書館に所蔵されている文革関係の本を探し出す際に、必ずしも「文革」や「紅衛兵」といったタイトルにはなっていないけれども、「知識青年」だとか別のキーワードで検索していくと引っかかるようなものを調べた経験があります。
 その中で、語り方のパターンをいくつか調査研究したとき、「歴史決議」[1981年、文革を否定し、毛沢東の功罪を明らかにした]の枠の中で、文革は間違いだった、2度と繰り返してはいけないことだという語り方と、ああいう辛い過去を乗り越えてきたから今の幸せがあると現状を肯定するような語り方が主流になっているという発見がありました。それが反映されていると思います。
 後回しにした第1点目は、青春記ということです。夢と挫折の青春記として書かれていることは、とても共感しうるひとつの枠組みです。誰でも青春というのは必ずしもハッピーなわけではないですね。辛いことがいっぱいある。だけど振り返ってみると懐かしい、あの挫折があったから、その後、頑張ったからとか、それを乗り越えてきた今というふうな振り返り方ができる。挫折したとても、夢をもっていたということを懐かしむことができるという枠組み、とても共感できるのですけれども、そういう枠組みとして提示しようとすると何か抜け落ちることがあるのではないかという危惧も含めて、今日は、そのあたりのことをおうかがいしたいと思ったしだいです。
 そこで、私が先に、金さんがこういうことにも関心がおありだとうかがっている中で、日本人である私が文化大革命のことにこんなに興味をもって、研究テーマにするのは、どうしてなのかということ、それは実にごもっともな話ですので、お話ししたいと思います。日本の研究者の中でも、まず若い人が文革をテーマにするということはあまりないですね。私ぐらいの年代、私は1950年生まれですが、まさに紅衛兵世代で、そういう人が文革のことを研究テーマにするということは、やはり当時すごく毛沢東に憧れたり、紅衛兵に共感したりして、懐かしいのではないかと思われがちです。けれども、私は、逆と言うか、まったく知らなかったのです、本当に。当時、向かいの国でそういうすごいことが行われていた。しかも、あとからいろいろ調べると、『朝日』も『産経』も1面トップで連日報道していたような、大ニュースだった。新聞を結構よく読むほうだったにもかかわらず、まず記憶として残っていない。だけど、その後、いろいろ映画を見たり、話題になった本──『ワイルド・スワン』[ユン・チアン著、講談社、1993年。現在は講談社文庫]とか、『上海の長い夜』[鄭念著、朝日新聞社、1997年]という回想記があって、そういうのを読んでいるうちに、文革がどういうことだったのか、なんとなくわかってくる。革命という言葉がわりと身近に感じられた世代なので、革命への憧れというのは確かにありましたけれども、とてもそんなものには思えなかった。文革が否定されてしまったあとに出てきたものを読んでいますから、魅力としてとりつかれたのではなくて、私にとってはとっても嫌な事態、あんな状況になったら私はどうしようみたいに、初めから否定的にとらえていたわけです。金さんが今おっしゃったように、白黒はっきりさせる、態度表明を迫られる、お前はどっちの側につくのだとか、何かと言えば「革命でなければ、お前は反革命」というふうに迫られるような、そういう単純思考への反感とかがあったのです。それよりもっと以前に、個人として尊重されない、個人として自由がないということへの反感だと思うのです。
 1968年に大学に入って、英米文学を専攻したときも、そのあたりの問題意識はあったのですけれども、卒業してから、結婚したり、仕事を続けたりしている中で、個人の自由が脅かされるような状況、全体主義的な状況というのは世界のあちこちにあったし、歴史的にもナチズムがあったし、そのあたりの問題意識を深めていったのです、最初はナチズムの本から入りました。文革に関しては回想記だとか映画だとか、そういったものを読んだり見たりして、お隣の国にも問題がある、もっと知らなきゃという自覚を強めたのです。
 文革をテーマにするようになったのは、それ以来です。それでちょっと、仕事も一区切りつけて、今まで勉強したいと思っていたことを勉強するにはどうしようかなと考えて、大学の3年生のレベルから入れる試験を受けて学士入学し、社会学科というところで、社会学的な観点から文革というものを研究してみたいと思ったのです。その後、ちょっとまた社会人に戻って仕事に復帰したりした時期もありましたけれど、大学院、修士、博士と、ずっと、文革だけをテーマにしてきたのです(笑)。

 感心します、本当に。冒頭に紹介された本も2冊買って、詳しくは読んでいないのですけれども、だいたい読んで、ここまで普通はできないと思いました、本当に。

 

差別──少数民族であることと家庭に問題があること

福岡 今日は、せっかく直接お会いしてお話がうかがえるということで、金さんご自身のことをうかがいたいと思って楽しみにして来ました。
 中国に関しては、いまだに私は知らないことだらけです。特に少数民族ということになると、実際には関係者の方に直接お会いしたりはしているのですけれども、少数民族について話題になる機会がないのです。「回族少女の青春記」ということですので、金さんご自身が回族という認識をもたれたのは、どういうときからなのかを、まず、うかがいたいと思います。回族の家族に生まれたときから、あるいは育つ過程で漢族とは違う回族であるということを認識させられるわけですか。

 そういう家庭に生まれて、自然に回族という意識をもつようになりました。いつからというのは、ないですね。生まれたときから、回族の家庭で育って生活していますので、自然に自分は回族だ、漢族と違うという意識をもつようになります。

福岡 でも、普通の四合院[中庭を囲んで建屋を配する伝統的民居]に住んで、普通の学校に通われて、言葉は普通話(プートンホア)[標準中国語]を話されるわけですよね。ご家族の中でも、それはそうなのですか。

金佩華さん

◀金佩華さん

 回族にはもう自分の言葉はなくなったのです。張承志という回族の人ですが、彼が書いた『回教から見た中国──民族・宗教・国家』[中公新書、1993年]に、回族は故郷の喪失、言語の喪失、信仰の喪失を経験していると書かれています。ですので、回族というのは、他の少数民族とちょっと違って、中東とか、西の方から中国に入ってきて、中国人と結婚したりしてできた民族です。イスラム教を信仰する民族です。寧夏回族自治区というのがあるのですけれども、特に故郷があるとか…、はっきりとしたところがないのです。

福岡 かと言って、完全に漢族が絶対多数の社会の中で同化しきっているというわけではないわけですね。回族だというアイデンティティはもっているわけですし、独特の食習慣とか、回族の寺院というのもありますでしょう。だから、お父様のお葬式のときなんかは、回族のしきたりにのっとったお葬式になるわけですよね。そういう冠婚葬祭とか、食習慣の中に回族の伝統が残っているということですか?

 そうです。回族が集中して住んでいる地域では、宗教、信仰とか、いろんなしきたりがあって、そういうのはまだ色濃く残っていると思います。それと別に、私のように漢族の環境の中で暮らしている回族の多くは、もう宗教的なしきたりはあまりないのです。だけど、生活習慣としては各家庭でそれなりに漢族と違う習慣があります。例えば、豚肉を食べないとか…。旧正月元旦は、中国って餃子でしょう。でも、うちは麺ですよ。母はいつも「うちは漢族ではないから餃子じゃない、麺を食べる」と言っていました。そういうのがあって。あとは回族特別の食べ物があって、例えば、油香(ヨウシャン)──油条(ヨウティアオ)、油餠(ヨウビン)ではなくて、油香(ヨウシャン)と言って、同じように小麦粉を揚げたものですけれど、ちょっと違うのです。おめでたいときとか、あるいは葬式、そういう大切なときに必ずたくさん作って、漢族にもあげるのです。

福岡 お母さんがそうしていらしたら、そこに住み続ける子どもはまたそうしていくのですね。そういう人たちが集中して住んでいるところなら、あまり意識しないかもしれませんけれども、普通の学校に行ったりすれば、絶対多数は漢族ということですね。そのとき、金さんと同じ食習慣の人がいないとすれば、圧倒的多数の人たちの中で自分はごくごく少数ということを常に意識させられるわけですか?

 1クラス、例えば40人ぐらいだと、だいたい2~3人は回族の人がいる。中学校のときは、お昼は学校の食堂で食べます。そうすると、全学年の回族の人は1つのテーブルを囲んで食べるのです。10人ぐらいかな。全学年10人ぐらいで、回族のテーブルを囲んで、食べ物は他のテーブルと違うのです。

福岡 そういった配慮がなされていたにもかかわらず、文革が始まったときには豚肉を食べさせられるというようなことが起こったのですか。

 古い習慣だとされて。

福岡 四旧打破[旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣を打破するという文革初期のスローガン]ですね。回族であること自体が差別の原因になったりするということは、特になかったわけですか。

金 政策として、文革前はむしろ民族平等だから差別しないように、そういうのがありました。あと、例えば、イスラム教だから2カ月断食しますが、断食明けは祝日になって回族に対して特別配給があったのです。そういう政策と配慮があったのですけれども、人々の意識の中に、やはり、いくらか、つい差別するような土壌がありましたね。だから、よく「どうして豚肉を食べないかというと、ブタは回族の祖先だから」、そういう言われ方をされました。本の中に書いたのだけれど、「小回回(ショウホェホェ)」──「回族め」という意味ですが。今もそれは残っていると思います。
 日本に来てからも、中国人の教員たちと一緒に食事していたとき、ブタの話になって、ひとり男性の先生にどうのこうのと言われて、すごく不愉快になったことがあります。反撃しても、まだ言う。私は「これ以上言ったら本気で怒る」と言って、やっとやめたのです。当人たちは意識していないかもしれません。無意識にでも、こういうことを言ったら回族の人が傷つくとか、そういう意識がないのです。
 今でも北京に帰って昔の友だちと何か食べるとき、「豚肉を食べてもいいじゃないか」とか言われることがあります。好き嫌いじゃないのですよ、それは。そこの認識が薄いのです。

福岡 差別とか、ハラスメントってそういうものですね。言っているほうは、そんなことぐらいという感じでね。

 そうですよ、気軽に…。

福岡 ただ、文革のときは、金さんは年代的にちょうど少年先鋒隊[共産党の青年組織である共産主義青年団の指導下に置かれる全国的な少年・児童組織]ですか。そういうところで、すごく「毛主席のよい子」になるという自覚を高めて、自分もそういうところで頑張れば認められるという希望があったかもしれない。文革というのは、そういう青少年たちが「午前八時、九時の太陽」[『毛主席語録』中の言葉]だとか言われて、すごく元気づけられた。毛沢東に反対する実権派だとか、資本主義の道を歩む者がいるなら逮捕してやるというような、それから四旧打破もそうかもしれないですけれど、率先して自分たちが革命的な行動の先頭に立つという意識がとても強まったと思います。
 回族であるということで、漢族に囲まれる少数派として差別されているという自覚があれば、そうした状況においても「自分はあの人たちとは違う、主人公にはなれない」というのがまずあるのですか? それとも、それ以前に、お母さんのこととか、お父さんのこととか、当時はわからなかったかもしれないけれど、何かうちは家庭に問題があるらしいと子どもなりに、そのあたりを感じとるのですか? マイノリティー民族差別的な問題が先なのか、あるいは家庭の問題が先なのか…。

 やはり家庭の問題ですね。私自身は、そんなに民族意識が強いほうじゃないと思っています。うちの家庭の教育も、たぶんそんなに強く民族を意識しないようなやり方ですね。母のことを書いたのですけれども、民族意識を強くするよりは、やはり生きるために社会に適応できるようにと…。たぶん、母は無意識にそうしたと思うのです。結果として、民族意識が強くないほうが、周りの漢族と普通に付き合ったほうが、いろんな面でいいと…。たぶん母はそういう発想です。
 姉たちとは、私はちょっと違います。私は、建国期の生まれで、生まれたときから周りは全部漢族です。姉たちは、もともとはわりと回族の中で生活をしていたのです。だから、みんな回族の名前をもっています。私だけもっていないのです(笑)。結果として、私はそんなに強い民族意識をもっていない人間になっていると思います。

福岡 建国前後の共産党の民族政策は、独特な時期がそれぞれあったでしょうからね。だとすると、文革に関しても、内モンゴルとかウイグルあるいはチベットとか、それぞれ自治区として少数民族が集中して住んでいる地域では、漢族による文革だったという捉え方ができるのですね、そうじゃないケースもあるかもしれませんけれど。そこで民族差別が極端な形で現れて──文革期にはいろんなことが極端な形で現れますけれど、少数民族の大量虐殺につながったようなケースもあるわけです。ところが、このご本を読む限り、回族だから受けた文革期ならではの苦痛というのが、豚肉以外にはあまり表れてこなかったので、そのあたりはどうなのかなと思ったのです。金さんご自身は、回族だからこんな目に遭わなければいけないというよりは家庭の問題を強く感じとった──漢族の場合でも家庭がよくなければ文革中はいろいろ迫害をされたわけですから、それにむしろ近い感じだったということなのでしょうか?

 やはり政治差別がいちばん強く感じられたのです。文革当時は、とにかくさまざまな理由で、原因で、批判とか打倒の対象になってしまう。だから、例えば回族で豚肉を食べない人たちは、辛い経験をした人たちの中の一例としては、そんなに特別に辛いことだったという感じはないです。さまざまな現象の中のひとつ。私にとってはそういう感じですね。

福岡 いわゆる出身による差別ということからすると、ご本の中にも出てくる遇羅克による「血統論[出身階級による差別を批判]」というのがあった──ある意味では本当に文革ならではの、文革だからこそ出てきた主張だと思うのですけれども、それがそのまま認められるような方向にいけば、日本の一部の人々も期待したような結果になったかもしれません。けれども、それが弾圧され、最終的には遇は銃殺されるわけです。遇についての記述はおそらく後から書かれたのではないかと思われることのひとつですが、血統論というものが、そして遇が銃殺されたということが後からわかったことだとしても、当時どの程度の影響力があったのですか? 例えば、家庭がよくないという人たちは、遇羅克の「血統論」にすごく共鳴して、これで救われると思うような影響力をもったのですか? また金さんは、当時は全然知らなくて、銃殺されたこと自体も知らなかったのですか?

 記憶では、当時はあまり知らなかったのです。文革の最中は知らなかったのです。だんだん後になって、こういう人がいて、こういうことを唱えていたのだと知ったのです。いつからかな…。最近ではないですね。文革が一段落したころに、こういう人もいたのだと知るようになったのだと思います。

福岡 そうすると、彼自身が、当時の金さんに与えた影響というのはないわけですね。

 なかったですね。

 

なぜ「私=佩華(ペイホワ)」ではなく、「佩蘭(ペイラン)」でなければならなかったのか

福岡 書き方については、先ほどもちょっと出しましたけれども、ご自身でも書いていらっしゃいますね、いつごろからこういうことを書こうと思い始めたかということを。ご本によりますと、2000年ごろには書くための準備を始めたと書かれています。1996年ごろから年代順に、この年に何があったということを整理し始め、日本語で書き始める準備をされていたということですけれども、日記自体は砂漠の生産建設兵団[開墾と辺境防衛を担う準軍組織]に入ってからずっとこまめにつけていらしたのですか?

 ほぼ、ですね。特に最初の3年間ぐらいかな、結構こまめに書きました。その後も書き続け、今も書く習慣があるのです。でも、今はそんなにこまめにではなくて、何かの節目に、ひとつ書くかといった感じですけれど。当時は本当にこまめに書いていました。

福岡 それは一人称で、今日は何したとか…。

 それはもちろん、自分の日記ですから。

福岡 日記はそのままだとして、年代順に整理したりする作業を始め、また回想記を日本語で書こうと思われたのは、何か特にきっかけがあってということではないのですか?

 内モンゴルに行って、いろいろな辛い経験をして、だんだん、どうして私がこんなに苦しまなければならないのかと考えるようになりました。他の人は、社会でひどい目にあっても家に帰れば温かく守ってもらえる、家で何かあっても社会ではうまくいく、どっちかなんですね。だけど、私の場合は、社会でも、家庭でも、何かに苦しんでいる。どうして私はこんな二重苦を経験しなければならないのか。どうしても世に訴えたいという気持ちがだんだん強くなっていきました。いつ書くかははっきりしていなかったのですけれども、とにかく書くときに入れたい内容を、ノートには前のほうからは日記、後ろのほうからはメモ書きと、ちょっとずつ書くようにしたのです。

福岡 世に訴えたいということは、読んでくれる人に伝えたいということですから、それを日本語で書くということは、日本の人に訴えたかったということですか? それとも最初に書き始めたのは日本語ではなかったのですか?

 最初は、いつ書くか、何語で書くか、全然、何もはっきりしていなくて。とにかく書きたいという思いでした。その後、書こうと決めたとき、やはりひとつは、自分のありのままを話したいけれど、それが中国でどこまで許されるか、わからなかったのです。それがひとつあって、もうひとつは、自分は砂漠の時代から日本語の独学を始めて、大学に入って、日本に来て、結婚をして、幸せになったけれど、じゃあ苦労して日本語を身につけたのは何のためだったのか、ただ自分が幸せになるためだけだったのかと自問するようになりました。私にとっての日本語の意味は、自分の幸せのためだけというのには不満があったということです。
 日本語で、何かひとつ形あるものにしたいという気持ちもあって、今述べた2つの思いもあって。まず日本語で書こう。日本語で書いて日本で出してから、中国語版も作って中国でも出そうと思ったのです。だから日本語だけじゃないのです。両方で出そうと思っていました。

福岡愛子さん

◀福岡愛子さん

福岡 まずは日本語でと…。これだけ学習されて、素晴らしい日本語でお書きになられたと思うのですけれども。最初から出版を意図していらっしゃったわけですね。
自分の気持ちがおさまらないと言って書いているわけではなくて、世に訴えたいという思いが途中からおありになったとすれば、それをストレートに出さずに、佩蘭(ペイラン)という主人公を立てるという叙述方式をとったというのは、私が最初に申しあげたように、ひとつの有効な方法であったと思うのですけれど、そのようにして書いて、やっぱりよかったなと思われる点、自分が直接訴える形にしなかったから、ちょっと無理があったな、ちょっと制約があったなと思われる点、そのあたりはどうですか?

 実は、「佩蘭(ペイラン)」を立てることにしたのは最終的な段階です。最初は「私」、とにかく私を全部吐き出しました。そのときは、本の中にも書いたのですけれど、50万字近くなったのです。でも、そのときは自分のために書いたのですね。やはり全部吐き出さないと楽になりませんでしたので、全部出しました。その後、書き直し、書き直し、何回書き直したのか覚えていないくらい、ずっと書き直し続けて、だんだんと気がついたのは、「私」と書くと、感情的になって客観性を失いやすいということでした。
 できるだけ、ひとつは当時の状況と当時の気持ち、つまり、すべて当時に忠実に書きたい。もうひとつは個人として感情的に書くのではなくて、できるだけ客観的に書きたい。そうすると、自分と距離を置く必要がありますね。距離を置くとなると、「私」はちょっと無理ですよ。やはり第三者的に書くしかない。それで佩蘭(ペイラン)を立てました。佩蘭にして、自分としては、今はよかったと思っています。自分を、少し距離を置いて客観的に見るようになって、他人事のように書くことができるようになりました。あと、忘れてもいいという気持ちになったのです。前はどうしても忘れられない。今は、忘れてもいいやという感じ。そして実際、なんか、少しずつ忘れてきている。当時のいろいろなことが少しずつ鮮明ではなくなってきています。

福岡 今、忘れてもいいとおっしゃったということは、やっぱり、忘れてはいけないと思っていたということなわけですね。いろんな記憶が、まるごとはとらえられないような、すべての体験とすべての記憶の中で、もう忘れてもいいやと思えるようになったということは、それまでは、忘れてはいけない、あるいは忘れられないというものがあったと思うのです。その最たるものって、辛さですか? 怒りとか、焦燥とか…?

 忘れてはいけない、風化させてはいけないというのは、こういう歴史があった、こういう文明があった、こういう生き方があったということを、社会は忘れてほしくないということです。個人としては、辛い経験を忘れてもいい、辛さから脱け出しても、もういいのだ。脱け出せるようになったということです。個人の角度から話をするのと、社会の角度から話をするのと、ちょっと違います。

福岡 それを世に出したことによって、自分はそれを社会に提示したわけですから、それは社会の中で残されていきますね。ご本に自分の記憶を託したわけですから、自分個人としてはもう忘れてもいいと、そういう思いですね。

 そういう感じです。

 

本になる課程で削った箇所について

北京と内モンゴル、そして日本

◀『北京と内モンゴル、そして日本』書影

福岡 忘れてはいけない、忘れられないという辛さとか怒りとか、そういったいろいろなものから解放された。そういう意味では、言語化し客体化することが、一種のセラピーのようになって、自分が治ったから、楽になったからいいというだけではなくて、片や、でも、ちゃんと記録として残せたという満足感もあったということでしょうね。
 それは、私が最初に出した『文化大革命の記憶と忘却』という本の副題になぞらえて言えば、個人の記憶の共同化が達成できたということです。ですから、個人でかかえ込んで、何か言わずにはいられない、まだ忘れられないし、忘れちゃいけないと思っていることが、出版という形で共同化できたことになります。
 共同化させるためには、当時は自覚的にではなかったかもしれませんけれども、共同化させるための必要な手続きなり条件というのがあったと思います。世の中の人に読んでもらう、日本語で書いたものを日本の読者に読んでもらう、要するに共同化させるためには、まず言語化しなければいけない。
 それは日本語という言語を通して達成できたわけですけれど、内容的にも、まず日本の読者にはわかってもらえそうもない、とても日本の読者が受けつけそうにない、これは書いても無理かなというところが、ひょっとしたらあったのかもしれない。そのあたり、共同化に向けて排除したもの、自分の中で切り捨てたもの、あるいは個人としては大事だったけれども共同化のためには大事じゃないからと切り捨てたもの…、何かあれば教えていただきたいのですけれど…。

 切り捨てたというより…。自分にとっては全部大事な内容ですね。だけど、出版となると量的な制約があって…。最初は生まれてから日本に来るまで全部書いたのです。だけど、それだと長すぎて…。そこで、大学に入ってから日本に来るまでの内容はほとんど削除したのです。その後、最終章の「夢 追い続ければかなう」の中に、簡単な描写にして少しは再生したのですけれども。でもそれは、しょうがないからと削除したのです。

福岡 確かに共同化に適さない量というのもありますね。

 だから削除したのです。今回の出版にあたって削除したのは主に3カ所です。ひとつは砂漠に行った直後の話です。もうひとつは疑問を感じ始めたときの描写や出来事。あとは文芸班による公演を描写した「台湾を解放せよ!」の前半部分、文芸班の日常活動。そういうのを削除したのです。やはり字数の制限があって。本音で言えば、言えなかったのですけれども(笑)、この量にしないと出版できないと言われたとき、削れるところはなかった。編集担当の朝さんがアイデアを出してくれて、自分も考えて、やはりこういうところしか削れないと感じて、削除したのです。

福岡 砂漠にたどり着くところが、私にはすごく衝撃的でした。とにかく私自身がとてもインドア派なので、いきなりああいうところに行って、虫に刺されたりとか、ヘビが出る、何が出るという、そういうのだけでも耐えがたいのに、100カ所も刺されるような蚊が出てくるというのは! それ以上に、行ってすぐの生活の中ではもっといろんな困難があったわけですか? それとも、すでに書かれたことに比べたら、さほどたいしたことではないという判断で削られたのですか?

「たいしたことではない」ではありません。

福岡 大変なことがいっぱいあったのが、それも削らざるをえなかったというわけですね。どちらかというと条件、酷暑とか…肉体的な大変さですか?

 「Ⅳ」の「人生 諦めまい!」で削除したところのことを話します。砂漠に着いて大泣きしたのです。メーデーのとき、食事の責任者が私のために羊肉の煮込みを作ってくれたのですが、その責任者とスタッフの意見が合わなくて、私を他の人と一緒に食べさせるか、1人で別のところで食べさせるか。喧嘩になったのです。その喧嘩の声が耳に入って、自分はたぶん、そのときまでのいろいろな大変さとか、いろいろ湧いてきて、ここまで思ってくれる人がいるのだと大泣きしました。それは、本当は入れたかったのですけれど、でも…。

福岡 砂漠に来ても豚肉から逃れられなかった…。

 そうなのです、逃れられなかったのです。

福岡 2点目の、疑問を感じ始めたころのことが削除されたということを、もうちょっと具体的に教えてください。

 日常的に疑問を感じてきていたころ。模範的人物が砂漠から脱走して、そのことに関連して疑問を感じて──その中では大泣きするような極端なことはなかったと思いますが、他にも日常の中でいろいろ細かいことがあって、いろいろ疑問を感じるようになっていったという部分です。趣旨は次の節と同じなので削除しても大丈夫だと思ったのです。

福岡 実際に、それだけ大量に書かれて、その中から慎重に選ばれて、量を制限されて出されたわけですけれど、実際に出されて客観化されたことによって、これが書かれていなかったとか、あのことも書けばよかったとか、改めて想起された記憶みたいなものはないですか?

 それはないですね。というのは、最初から全部、私にとって大事な経験です。でも、出版にあたって、この量しか出せないから仕方がないと諦めていますね。また、自分には本当はまだ書きたいものがあるけれど、落ち着いたら、何らかの形で、今はインターネットもあるし、いろいろ手段があるので、自分ができるときに、例えばひとつの事例をめぐって何かを書いたりするとかできると思っています。どうしても削られないものは今回の本の中で出したので、他は機会があれば少しずつやれればいいと思っています。

福岡 これから出るかもしれない追加的な記述というのは、こういうエピソードに関してとか、こういう事例も知ってもらいたかったというレベルの追加になるのですか? それとも、今回は「文化大革命を生きぬいた回族少女の青春記」という枠組みで提示されたのに対して、まったく違う観点から自分の体験を書き直すというような意味で再度何かを書くという考えですか?

 今はまだはっきり考えていないのですけれども、気持としては、重苦しいものではなくて、自分が感じたこと、事例から何か、例えば人間として得られるものとか、そのような書き方にしたいと思っています。
 例えばの話です。文革のとき、みんな学校に戻って、先生たちの審査が始まったのです。それも最初は書いたのだけれど、あとで削除しました。詳しいことを言うと、みんな、それぞれグループになって、労働者宣伝隊の労働者がリーダーになって、1つのグループが1人の先生の審査を担当するのです。私が入ったグループでは、先生が頑固で絶対に自分に非があるとは認めない。文革の最中だから、みんなで、どうすればこの先生が非を認めるようになるか考えるわけです。他のグループでは睡眠させないで24時間連続攻撃したとか、そういうやり方もありますから、革命だと思って、私たちもそれを試すかということになります。そのとき、労働者のリーダーが言いましたよ、「それはいけません。そういうやり方で非を認めさせるのは真実ではない。そもそも人をそういう目に合わせてはいけない」と。そのリーダーの話には、すごく心打たれました。
 先生は、どんなにひどい目に遭っても、「私はこうだ」と曲げない。リーダーは――本当はそのリーダーは当時の上の指導に違反しているのですが、リーダーの立場で、絶対にやってはいけないことは絶対にやらない。私にとって、先生も、そのリーダーも、人生の鏡になったのです、本当に。
 例えば、そのような事例ですね。人生といった、また人間といった角度から書こうと思えば。そういうのはいっぱいあります。

福岡 先生に対して、みんながやっているから、つばをかけたり罵声を浴びせたりという場面はありましたが、今のエピソードが書かれなかったのは、そのときには思い出されなかったのですか? それとも書く必要がないと思われたのですか?

 最初は全部書いたのです。

福岡 逆に、すごく意気盛んな、造反的なムードの紅衛兵からすると、労働者のリーダーは年齢的にも上なわけですが、そういう人であっても、自分たちの革命的な行動を抑えつけようとすることに対しては反発するとか、こんな頑固者の先生はこれぐらいしなくちゃダメだとか、リーダーの言うことを聞かないという雰囲気は出てこなかったのですか?

 労働者のリーダーは絶対だったから。労働者イコールプロレタリア、プロレタリア階級の再教育を受けなければならないので…。

福岡 それは紅衛兵が街に出て四旧打破を訴えて街の看板を変えたりしていたとか、文革のごく初期の段階ではなくて、もうちょっとあとのことなのですね。

 少し収まってきて、みんな学校に戻ろうという1968年ごろかな、たぶん。

福岡 過激な行動が煽られては行き過ぎると抑えられる、ということが繰り返されて、最後には人民解放軍による混乱収拾がはかられるわけですが。その過程で、労働者宣伝隊が動員された時期もありました。そのときに現れた、労働者リーダーの人間性というものですね。

 

文革の始まりと終わりへの意識

福岡 ご本は文化大革命を生き抜いた物語ですけれど、金さんご自身にとって文化大革命はいつからいつぐらいまでと感じていますか。「歴史決議」が出てから「10年の動乱」と言われてしまいますけど。60年代の最初のころから、なんとなく文革を感じさせる雰囲気が出てきていて、それで66年を迎えるという書き方をされているので、ひょっとすると64年に思想強化、階級闘争を強化しなくちゃいけないみたいな言論が出てきたあたりから、文革が始まったと思われているのではないかという気がするのですけれども…。

 そのときはまだ子どもだったので、あまりわからなかったのです。だから私にとって、やはり校長先生たちがグラウンドに連れ出されて、生徒のみんなからリンチみたいなことをされたとき、私にとってはその日からです、実感できたのは。

福岡 じゃあ、66年に入ってからですね。

 その前は、新聞とかにいろいろ書かれたり、大人の間でいろいろ話されていたりしていたのですけれど、まだ子どもだったので、あまり実感できなかったのです。実感できたのは、やはり、その日から。

福岡 いろんな政治運動とか、スローガンを掲げられて、みながデモに参加するということはあったかもしれないけれど、校長先生が引きずり出されるという、今までになかったことが、やはり子ども心にも強烈な印象として残った…。

 まったく逆になったのですよ、今までと。今までは、周りはみんな上品なお嬢さんで、先生は尊敬する存在だったのに。

福岡 特にトップクラスのすごくいい中学に入られて。憧れの先輩もいたりとか、そういう中にいたのですからね。

 そのとき、突然、すべて逆になって。その衝撃はすごく大きかったですね。

福岡 ご自身も豚肉を強要されたり、革命か反革命かという態度表明を迫られたりというところから、希望して生産建設兵団に行かれるわけですけれど、その間も、やはり文革という意識なのですか? 紅衛兵運動から脱け出したという意味で文革が終わって、今度は砂漠での別な生活が始まるという意識なのですか?

 当時ははっきりとは、いつ終わったのか意識しなかったのですけれど…。今思うと、私にとっては、大学に入るまでが文革ですね。というのは、大学に入れたというのは、やっと政治差別から抜け出せたということですから。そときまでは、ずっと、まあ、文革前にもあったけれど、文革からはひどくなって、ずっと引きずっていたのです。内モンゴルから北京に帰って、歴史博物館に入る話とか、小学校の先生になる話とか、全部政治差別でダメになったのです。それが、やっと政策が変わって、私のような人間も大学に入れるようになった。それは私にとって、「やっと、終わった」という感じでした。

福岡 先ほどの繰り返しになりますけれども、文革以前からなんとなく受けていた、漢族の中での回族に対する差別みたいなものとはまったく違う、家庭に問題があるということによる政治差別が極まったのが文革であり、それから解放されて、大学に入って自分が学問を身に付ければ、自分の道が選べるという実感が生まれたのが文革の終わりということですね。
 その途中のことで、私がとても興味をもったのは、日記を書いていて、何かというと毛沢東がこう言ったの、最高指示がどうのと、枕詞のように毛沢東の言葉を使っていたのが、1971年10月ぐらいから少なくなってきたということです。その当時はあまり意識されていなかったのに、後から日記を読んでみるとはっきりわかるということなのでしょうね。

 そのとき、心情の変化があったのだと思います。

福岡 それは時期的に林彪事件ではないかと思うのですが…、林彪事件はすぐには伝わらなかったと思うのですけれど。でも、なんとなく雰囲気で何かが変わったということ、そのときにはっきりと何かが緩んだとお感じになったのではないかと思うのです。それはどういうところに具体的に表れたのでしょうか?

 政治学習がだんだん前ほど厳しくなくなってきていたし、軍事訓練もだんだん減ってきていたのです。当時、自分ははっきり意識していたわけではないのですけれど。
 69年4月に内モンゴルへ行ったでしょう。70、71年、まあ3年近くたって、いろいろ経験して、自分の中にある強烈な信仰から、たぶん覚めてきて、心情の変化があったのでしょう。最初は毛沢東のロボットですね。日記も全部、毛主席はこう言っているのに、なぜ私はこうなのだと、本当に自己批判ばっかり。自分の中で階級の敵を探すとか、今、読むと、なぜこんなバカバカしいことばかりと思うのですけれども、当時は真剣だったのです。自分の考え、自分の頭がなかったのですよ。まったくなかったのです。だんだん少しずつ、自分の考え、自分の信条をもてるようになり、自分を100パーセント否定するのではなく、少しずつ、本当に少しずつなのですけれども、素直になっていく時期だと思います。

福岡 その点に関連して、とても興味深いのは、書いている日記です。日記だから自分だけのために書き、人に読まれる危険はなかったのですか?

 なかったですね。

福岡 自分の気持ちが正直に表れている日記の中で、毛沢東がこう言っているのだから私も頑張ろうとか、そういう書き方もあるのですか? 今のお話だと、頑張らなくちゃいけないのに自分はまだまだだと思ったということですね。だから、まだまだの自分がいるということは、100パーセント文革の雰囲気には染まっていないということになりますね。文革期の「こうあらねばならない」という教条主義的な考え方があって、それと照らして今の自分はダメだという書き方ではあるのですけれど、100パーセント模範的な毛沢東のよい子になりきろうとする自分ではなく、なりきった自分じゃない、なりきれない自分というのをちゃんと認めていたということですね?

 ちょっと意味が違います。日記に書くのは、例えば、毛主席はこのように言っている、だから頑張ろう、このように実行しようとか…。これはひとつのパターンですね。
 もうひとつのパターンは、例えば、自分はお腹がすいている、だから美味しいものを食べたい、でもこの美味しいものを食べたいという気持は毛主席の教えに違反している、それはブルジョア的な思想じゃないか、飢えは革命への意志を試す試金石だ、どうして自分はもっと革命的になれなかったのか、自分はダメだ…。そういう感じの自己批判ですね。
 だから、私の理解が間違っていなければ、今おっしゃった意味とちょっと違います。自分のあら探しです。あら探しをして、自分の中の敵を探し出して、もっと毛主席に付いていかなければならないと思う、そういう感じでした。そればっかりだったのです。

福岡 そのようにご自分がお書きになった日記を、当時はこうだったけれども、今だと本当に笑っちゃうぐらい、よくこういうことを書いていたなというように思い出されると思うのですけれども、ご家族とか、同じ時代を体験した人たち同士で、そういうようなことが軽く笑い話にできるようになったのですか? それとも、そういう話は、どちらかというと避ける話題になっているのですか?

 話はしないですね、みんな。日常的にもその話は出ませんね。

福岡 文革時代のことは、何年に起きたかに関係なく、10年間、もしくは10数年間のことは、誰もあえて口にしないのですか?

 しないですね。やはり、辛かったので、もう思い出したくないのです。

福岡 その時代ですと、とにかく今はこれをやらなければいけないということがはっきりしているわけですから、自分に対してのあら探しをしない、できない人がいるとすれば、誰かのことを告げ口するという空気が、逆に自分も告げ口されるのではないかというような疑心暗鬼の空気が、あったと思うのです。そのあたり、住民の間に、あるいは学生仲間同士の間に、あのとき、ああいうことを言われたから私は打倒されたとか、あの人がああいうことをしたから誰かが打倒されたとか、そういった恨み辛みが残っているというのは、もちろん口にはしないでしょうけれど、なんとなくあるのでしょうか? それとも、そういうことも含めて、みんな忘れてしまって言わないということでしょうか?

 忘れられないのもあるでしょう。私にもあります。あるけれど、特別な時期のことで、100パーセント個人が悪いのではない。みんなそれは革命だ、自分は革命しているのだ、その人のことを思ってやっているのだ…、そういう思いでやっている。もちろん、もしかして個人的な打算とかが入ったことも否定できないのですけれども。でも、そういう特別な時代の出来事ですので、私の心情としては、もう許してあげようと…。私は、個人的な憎しみや恨みは一切ないほうですね。
 個人的に恨みをもっている人もいるかもしれません。けれど、私たちはやはり「戦友」と言うのですが、今も互いに連絡をとっている人がいます。その中には傷つけられた人とかもいるのです。だけど、その人はもう忘れているし、私も、もう昔のことだからしょうがないと思っている。もしかして、自分も人を傷つけたかもしれない、…傷つけたと思います、自分も。自分も、それは革命だ、その人のためだと思ってやったこと。だから、お互いに、もう、それは忘れて、みんな大変だった…、そういう心情です。

 

魂を込めたまま、中国語版も出したい

福岡 こういう形で、日本で出版されたことは中国のお友だちにも伝わっていると思いますし、あるいは書いている最中に自分の記憶を再構築するにあたって、同じ経験をした人とこういうことだったよねというふうに確かめ合ったり、当時の写真があれば提供してもらったり、この本の出版前後で文革の記憶をめぐって、同じ体験をした中国の方と何か交流があったのではないかと思うのですけれど、そのあたりのお話を最後にお聞きしたいと思います。

 やはり「みんな書いてほしい」というのが、みんなの気持ちです。だから、書くときに当時の人から写真を提供されたり、書いていると聞いて、わざわざ資料を送ってくれた人もいます。みんな、書いてほしい。自分が書けないぶん、私に書いてほしいという気持ちだと思います。

福岡 日常生活の中で共通の記憶として語られることはなくても、こういうものが形になって出る、記録として残るということは…。

 それは、みんな望んでいましたね。

福岡 でも、中国の方だったら読めないわけですから、出版自体についての反応がよかったということ?

「早く中国語版を出してー」とか、「中国語版はいつですか!?」とか、みんなに聞かれました。「読みたい!」とも。

福岡 もし、中国語で出すとしたら、このままの内容を中国語で出しますか? それとも、いくつか削除した部分があるわけですから、それを再度盛り込んだり、あるいは、この部分は中国で出すときは削ろうというようなことですが、すでにお考えになっていることがありますか?

 中国語版はすでに書き上げています。

福岡 そうなのですか! 中国語だと文字数は日本語よりも少なくてすみますから、内容はもっとよけいに入れられるのではないですか?

 今回の出版にあたって削ったところはそのまま入れてあります。以前に削ったところは削ったままになっています。日本語だと、日本人に向けて説明しなければならないところ、そういうところも必要ないので削っています。

福岡 さっき話された、先生を審査するときの労働者リーダーの話なども中国版には入っているのですか?

 それは入っていません。それはもっと早い段階で削ったので。

福岡 完成した作品として中国語版がもうすでに用意できている。で、出版の可能性は、どうですか?

 今は、中国では、ちょっと無理ですね。だから、ちょっと様子を見てからかな…。

福岡 おそらく、2016年の文革開始50周年とか、終結40周年とか、そういうときにはむしろ出しにくいかもしれませんね。間違っていたら訂正してほしいのですけれど、知識青年の下放の何十周年とか、そういうときのほうが出しやすいのではないかと思うのですけれど…。

 そういう問題じゃないです。例えば、中国国内では、知識青年の歴史、経験、それは個人の角度から、自分の人生経験として、同じ世代の経験として、頑張ったのだという雰囲気なのです。それは、社会と時代の角度から見れば、私の考えでは、いろんな選択肢があった中から自分たちが選んで、そこでいろいろ苦労をして大変だったということです。それなら別に問題はないと思います。自分で選んだのですから。
 しかし、私たちは違います。これしかないという、強いられた運命なのです。だから社会と時代の角度から見れば、問題がある。私は本の中で、問題点も指摘していますので、そのような内容を出版するのは、ちょっと今はまだ無理があります。ですから、いつ出せるかわからないのです。

福岡 そのような部分を、表現を変えてとかではなくて、中国語でも日本語で書いたと同じように、強いられた運命を一時は甘受したけれども、そうした状況の中で、自分で選択できると自覚するようになったという書き方はそのままにして中国語として出したい!?

 基本的にね。というのは、私の考えでは、個人的に自分の過去の栄光とか苦労とかに酔うだけじゃダメだと思います。私も、もちろん自分の経験したことに対して誇りをもっています。ですが、それは個人的な話です。社会として、時代として、これから絶対にそういうことがあってはいけないのです。そこがわからないと、同じことが繰り返されるのではないかと思います。
 書いた目的は、自分が頑張ったとか、そういうところにはないのです。頑張った、それもあります、誇りもあります。だけど、どういう状況のもとでそうなったのか。そういう状況は、いいことなのか。私は、その状況を作った社会に対しては批判的ですので、その状況を批判しなければならないと思っています。経験者として、それを批判しなければならないと思います。ですから、それを書くことをやめてしまったら、この本の魂がなくなると思います。

福岡 魂を込めて中国語版を用意して、それが出せるようになるときというのは、どういうときなのでしょうか?

 焦らずに、様子を見て、いつかは出せるのではないかと思います。

福岡 その希望は、私が『文化大革命の記憶と忘却』の中で、出版社の編集者や筆者がおっしゃること、いろいろな工夫をして世に出そうとするのだけれど出せない場合もある、だけど、今まで出せなかったものが出せるようになったということに通じるものですね。
 今出せないものでも、いつかはきっと出せるようになるだろうという希望が、どなたの口からも漏れることは、やはり、私から見たら、本当に中国の希望なのだなと感じられるのです。

 
 ──お二方、ありがとうございました。金さんとは、私も編集担当者としていろいろとお話ししつつ、突っ込んだところでお話しできないこともありましたが、福岡さんと対談していただいたことで、そのあたりもいろいろお聞きでき、また認識を深めることができた点も多々ありました。福岡さんがご著書で示された「記憶の個人化と共同化」という概念に託された手法の延長上に対談が行われたならば、書評に加えて本書の読み方を適格に説いていただくことになるのではないかと期待しておりましたが、その点においても非常に刺激的な対談になりました。お二人の有意義な対談に立ち会えたことに感謝申し上げます。
 最後に、お二人それぞれから、対談を終えての感想をうかがって締めたいと思います。まず、金さん、いかがでしたでしょうか。

 その前に、もうひとつ言いたいことがありました。第1稿を書き終えて、すごい長文のまま、友人の紹介である出版社に持って行ったのです。私は、これは第1稿だからダメだと言われるとわかっていたのですけれど、一応持っていきました。そのとき、ちょうど小泉首相が靖国神社へ参拝して、中国で反日デモが発生した。すると出版社から、私の原稿の中から文革の部分だけを抜き出して、反日デモと関連づけて出しましょうという話があったのです。

 ──それは日本の出版社ですか?

 そうです。

福岡 何年も前ですね。

 ずいぶん前です。そのとき、私は思ったのです。まず、私が書こうとしているのは時流に合わせる──ブームに乗るというようなもの、そういうものではないということ、それがひとつ。もうひとつは、中国批判のためといったような政治利用をされたくないということです。そういう思いがあって、断ったのです。
 じゃあ、どういう思いで書いていたかというと、生意気だと思われるかもしれませんけれど、どの時代でも、どの国でも、読んでもらえるものにしようということです。それを目指して書いてきたのです。どこまでその目標に近づけたのか、わからないですけれど、とにかくその思いで、ずっと、書き直し、書き直しで頑張ってきたということです。今日、せっかくこういう機会を得ましたので、ちょっとはっきり言ったほうがいいのかなと思って、申し上げました。

福岡 非常に賢明なご判断をなさったと思います。

 今日は本当にすごくいい機会を与えられました。書評を書いてくださった方とお話しできたこと自体とても嬉しかったのですが、いろいろお話を聞き、研究者の目から自分の表現方法についてもお話を聞けて、すごく勉強になりました。本当にありがとうございます。

福岡 こちらこそ、素晴らしい機会を与えていただいて、ありがとうございました。私自身にとって大変興味のある時期について、独特の立場からのとてもいいご本を出していただいたと思っています。著者ご自身と直接対談する機会を与えていただいて、もちろん、この本の中のとても頑張り屋の少女、佩蘭(ペイラン)の強さというものも感じましたけれども、著者自身の中にある気骨といいますか、魂は譲れない、出すために肝心のところを抜いて出すのではなくて、いつか出せるときのために自分の魂の核心の部分をきちんと書き残しておくという精神に敬服しました。

2014年6月25日 東京・神田美土代町にて
*[ ]内は対談協力者による注である。

対談者プロフィール

金 佩華(ジン・ペイホア/きん・はいか)
1952年、中国北京市生まれ。1969年4月から75年1月まで文化大革命下の下放政策により内モンゴルの砂漠で開拓生活を送る。1978年夏、全国大学統一試験の回復により受験、1979年春、北京第二外国語学院分院(現・北京連合大学旅遊学院)日本語科に入学、1983年春、同大学卒業。同年、同大学教師となる。1987年、立教大学奨励研究員に迎えられ来日。1990年、北京連合大学旅遊学院副教授となる。1991年9月に再び来日。現在、早稲田大学文学部、慶應義塾大学経済学部、法政大学リベラルアーツセンター、共立女子大学国際文化学部などの講師を勤める。著書に『北京案内』(北京連合大学旅遊学院、1987年)、『観光サービス導論』(中国中共中央党校、1995年)、『中国的──郷に入りて郷に従わず』(白帝社、1996年)、『桜と牡丹』(中国対外翻訳出版社、1999年)がある。

福岡 愛子(ふくおか・あいこ)
1950年、新潟県生まれ。1972年新潟大学人文学部卒業(英米文学部専攻)。2012年、東京大学大学院人文社会科学系研究科博士課程修了。博士(社会学)。著書に『文化大革命の記憶と忘却──回想録の出版にみる記憶の個人化と共同化』(新曜社、2008年)、「日本にとっての『文革』体験──『朝日新聞』『産経新聞』の報道比較を通して見る日本への影響」(『戦後日本スタディーズ2──「60・70」年代』紀伊國屋書店、2009年)、『日本人の文革認識──歴史的転換をめぐる「翻身」』(新曜社、2014年)、訳書に王泰平著『「日中国交回復」日記──外交部の「特派員」が見た日本』(勉誠出版、2012年)、リチャード・ウォーリン著『1968パリに吹いた「東風」──フランス知識人と文化大革命』(岩波書店、2014年)がある。