尖閣反駁マニュアル百題

尖閣反駁マニュアル百題

発行日/2014年06月13日
著/いしゐのぞむ
発行/集広舎
発売/自然食通信社
A5判/並製/429頁
定価/2,000円+税

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小社刊『尖閣反駁マニュアル百題』の発売にちなみ、著者いしゐのぞむ氏による「八重山日報」の寄稿文(本年五月三十日、三十一日、六月三日にわたって分割掲載)を著者の許可を得てここに転載いたします。なお、図版はクリックすると拡大表示されます。〔編集室〕

 

清國の「釣魚臺」は尖閣ではなかった!!

 尖閣有史四百八十周年の陰暦五月十日(今年の陽暦六月七日)に、拙著『尖閣反駁マニュアル百題』がやっと發賣(はつばい)されることになった。二月出版の預定が現在までずれ込んだことは、ご期待下さる皆樣に申し譯ない。書中のあちこちで所謂「臺灣(たいわん)附屬島嶼」説を完全に否定したことは、拙著の一大貢獻だらう。發賣にあたり、それをまとめた上で一歩進めた新説を披露したい。
 尖閣が臺灣に屬するといふのはチャイナ公式見解である。元外務省情報局長孫崎享氏らも、サンフランシスコ條約で日本は臺灣を放棄したので、臺灣に屬した可能性のある尖閣は係爭の地なのだと盛んに宣傳してゐる。彼らの主張は全て近代以前に尖閣が臺灣に屬したといふ漢文史料にもとづく。  

史料を三類に分ければ

 釣魚嶼・釣魚臺の漢文史料は多々有るが、大きく三系統に分けるべきである。第一系統は島の位置がほぼ特定可能で、現代の尖閣各島に擬し得るもの。福建から琉球までの航路上の記録がほぼ全てこれに屬する。チャイナ船中で針路を司るのは四百八十年前から常に琉球國人であった。代表的史料は陳侃(ちんかん)『使琉球録』、徐葆光(じょほうくゎう)『中山傳信録』などである。
 第二系統は釣魚臺だけを記載して、他の島嶼を記載しないため、位置を特定しにくいもの。清國臺灣府の歴代地誌の釣魚臺の記録が全てこれに屬し、いづれも「臺灣東部の大洋の北の釣魚臺に、大船十艘を停泊できる」と書いてある。チャイナ公式見解で臺灣附屬島嶼の根據とする史料は、全てこの第二系統である。代表的史料としては黄叔璥『臺海使槎録』(たいかいしさろく)、陳壽祺『重纂福建通志』などが有る。この系統では「その釣魚臺は本當に尖閣か」といふ疑問が有る。尖閣史の大家・尾崎重義氏はこれまでこの疑問を呈して來た。世間一般でも「尖閣に十艘も停泊できる筈が無い」といふ聲は多い。 
 私は疑問を呈するだけでは滿足できないので、尾崎説の重要性を見過ごして來た。しかし拙著『マニュアル』執筆過程で、尾崎説を證明する史料を幾つか見出し、己れの不明に氣づいた。それが次に述べる第三系統である。第二と第三とを合はせれば、臺灣附屬島嶼説は完全に粉碎し得る。

尖閣概念圖

◀尖閣概念圖

尖閣ではない第三系統

 第三系統とは、尖閣でなく臺灣北方の彭佳嶼もしくは花瓶嶼を釣魚臺・釣魚嶼と呼んだものである。西暦千七百五十六年の全魁(ぜんくゎい)著『乘槎集』、同時に渡航した周煌(しうくゎう)著『海東集』、そして西暦千八百八十年頃の陳觀酉(ちんくゎんいう)著『含暉堂遺稿』卷二「琉球雜咏」、の三種がこの系統に屬する。
 全魁の詩は十四首を以て成り、西から東への航路を詠じる。その第五首でチャイナ大陸が遠く消え去り、第六首で螺旋形(卷き貝)の如き釣魚臺を遠望する。第七首で大洋を高速で進み、第八首で華夷の界を詠じ、第九首で黄尾嶼が赤尾嶼に連なると詠じる。
 尖閣の釣魚臺は螺旋形ではないので、この詩の釣魚臺は臺灣島北方の螺旋形の花瓶嶼である。且つ尖閣の釣魚嶼と黄尾嶼(久場島)との間は三十キロを隔てるに過ぎないので、中間を高速で長驅することは有り得ない。花瓶嶼ならば尖閣までの間に約百五十キロの長距離を隔てるので、この詩に符合する。

東西二つの「釣魚臺」

 周煌『海東集』では、西から東へ鷄籠山(基隆)ー釣魚臺ー花瓶嶼ー黑水溝ー釣魚臺ー姑米山(久米島)の順に航路上の景を詠じる。東西二つの釣魚臺を經るので、西の釣魚臺は全魁と同じ臺灣北方の島嶼(花瓶嶼など)であり、東の釣魚臺は尖閣であらう。
 陳觀酉「琉球雜咏」は、
 「釣魚臺過問花瓶」
 (釣魚臺過ぎて花瓶を問ふ)
と詠む。臺灣島北方の花瓶嶼が、釣魚臺を過ぎた後にあるのだから、これも尖閣ではなく、臺灣島の北方である。
 以上三種で臺灣の北方に釣魚臺を置いた情報源は、明國の『籌海圖編』内「沿海山沙圖」であらう。圖中では右(西)から左(東)へ、鷄籠山ー彭加山(彭家嶼)ー釣魚嶼ー化(花)瓶山ー黄毛山(黄尾嶼)ー赤嶼の順に島嶼をならべる。『籌海圖編』は海防書の元祖であり、後の海防書ではこの地圖を次々に轉載(てんさい)して刊行したため、かなり廣く流布した。特に全魁・周煌・陳觀酉らは文人であるから、このやうに流布した古書を蹈襲しやすいのである。されば『籌海圖編』から全魁・周煌を經て陳觀酉まで、一系統を成してゐる。即ち第三系統である。

『籌海圖編』内「沿海山沙圖」(商務印書館・四庫全書)

▲『籌海圖編』内「沿海山沙圖」(商務印書館・四庫全書)

不確定史料がつながる

 第一系統の釣魚臺は東に在り、第三系統の釣魚臺は西に在る。第二系統は不確定だが、第一第三系統いづれかの位置に擬すべきである。第一系統に擬するのがチャイナ主張であり、その通りならば尖閣が臺灣の地誌に載ってゐることになるから、清國領土外ながら地理的附隨性を有する。
 しかし殘念ながら、第二系統の中には第三系統に繋(つな)がる史料がある。西暦千八百八十年頃の方濬頤「臺灣地勢番情紀略」である。その文に曰く、
 「鷄籠山陰有釣魚嶼者、舟可泊、是宜設防。」
 (鷄籠山陰に釣魚嶼なる者有り、舟泊すべし、これ宜(よろ)しく防を設くべし)
と。鷄籠山とは臺灣最北端の基隆である。山陰とは山・島の陰となる正北側を指す。この釣魚臺は臺灣の北方島嶼であり、尖閣ではない。第三系統と同じである。しかし釣魚嶼だけを單獨で記載する點(てん)では第二系統と同じである。舟が停泊できるといふのも第二系統の十艘停泊にもとづく記述だらう。十艘停泊できるのは臺灣北方の彭家嶼である。方濬頤(はうしゅんい)は第二系統の釣魚臺を臺灣北方の島として認識したのである。

附屬島嶼説は消滅した

 方濬頤の認識は正しい。なぜなら現代人は世界地圖を見てゐるので、第二系統の「大洋の北」を遠く八重山海域の北側と理解してしまふが、方濬頤は帆船時代の末の人である。帆船時代に大海を越えるのは困難な大事業であり、地圖も不備であるから、臺灣島東部の「大洋の北」とは、大洋を望む沿岸海域の北側とした方濬頤の認識が自然なのである。また第一系統の尖閣史料では、釣魚嶼は常に東方と理解されてをり、北方ではない。第二系統にあてはめれば「大洋の東」でなければならない。
 帆船時代には尖閣まで航行して半年後の季節風を待って臺灣に戻ることは有り得ない。尖閣まで航行すれば必ず琉球國まで行って半年後を待つ。そのため第一系統の尖閣は全て琉球國とともに記述される。第二系統だけは琉球國と無縁ながら、尖閣まで行って戻って來たと書いてあるわけではない。されば第二系統をあてはめ得るのは、第一系統の尖閣でなく、第三系統の臺灣島北方なのである。
 第二系統中で最古の『臺海使槎録』は、根據(こんきょ)無く臺灣の北に釣魚臺を記述したわけではなく、早くから第三系統の『籌海圖編』など諸圖(しょづ)が花瓶嶼の西側に釣魚嶼を描いてゐたのだから、その浸潤下で『臺海使槎録』の記述が生まれたと考へられる。
 チャイナ公式主張の「附屬島嶼」説は第二系統にもとづくので、それが臺灣北方島嶼だったとなると、法的のみならず文化的にも附屬説は消滅する。日本は怯むことなく尖閣古史を語るべきである。

 八重山日報社にご後援頂いた五月十一日講演會では、パソコンの不調で貴重史料を映寫できなかったことを深くお詫びします。ご臨席頂いた方々には、お詫びのしるしに翌週那覇で行なった尖閣講座のDVDビデオを贈呈したいので、電子メール・ファックス・葉書などで八重山日報社にご聯絡方法をお知らせ頂きたく、宜しくお願ひ申し上げます。〔追記/著者〕