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『黄禍』著者・王力雄氏から日本の読者へ

黄禍

タイトル:黄禍
Yellow Peril
著者:王力雄
訳者:横澤泰夫
価格:本体2700円+税
判型:A5判上製 528頁
発売予定日:2015年11月09日
ISBN 978-4-904213ー34-6 C0097

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小社刊『黄禍』の著者・王力雄氏から「私の選択」というメッセージをいただきました。このメッセージと併せ、『黄禍』収録の「日本の読者へ」という序文をここに掲載いたします。また、朝日新聞(本年一月二十八日付け)国際欄にて、「(世界発2016)中国への警鐘、再び脚光 91年の小説『黄禍』著者に聞く」というインタビュー記事が掲載されました。下記URLよりご高覧いただければ幸いに存じます。
朝日新聞──(世界発2016)中国への警鐘、再び脚光 91年の小説「黄禍」、著者に聞く

私の選択

 『黄禍』の出版によって私は中国語世界で注目されました。当時、私には二つの選択がありました。一つは引き続き小説を書くことでした。私は当時、ほかにも幻想的長編小説を二部書く構想を持っていました。一部は『絶望』というタイトルで、精神世界の破壊が社会の崩壊を引き起こす状況を描こうとするものです。もう一部の『極楽』は、物質主義が人類を壊滅に導くありさまを描こうとするものです。もし『黄禍』の影響力が残るうちに、数年間かけてこの二部の長編小説を書き上げ、『黄禍』と合わせ『壊滅三部作』を構成することができたなら、私はおそらく名誉と利益の双方を手にすることができたでしょう。

 ですが私はもう一つの選択をしました。私が『黄禍』を書いたのは単純に小説を書いたのではなく、中国の未来に対する心からの憂慮に出たものでした。『黄禍』が描写している恐ろしい場面は故意に過激な言辞を弄して人を恐怖に陥れようとしたものではありません。私はあのような事が起こりうると確信していますが、そのような未来は防がなければなりません。私は小説家の道を放棄することにし、私が言う所の「逓進民主」の研究に身を投じました。「逓進民主」は中国問題を解決し、黄禍のような未来図の実現を避けるための方策として私が考え出した政治体系です。これまでに私は「逓進民主」に関する本を二冊出版しており、目下三冊目を執筆中です。しかしこの類の本を読む人は少なく、三冊すべてをひっくるめても『黄禍』のごくごく一部にも及びません。

 この間、私の副業は中国の民族問題を研究することでした。この二~三十年の(世界各地の)民主的転換に伴う民族の衝突を目の当たりにすれば、未来の中国もこの問題に向き合わなければならないということは容易に考えられます。それで私は始終チベットを旅行し、チベット問題を副次的な研究課題にしました。元々あまり多く時間をかけるつもりはなかったのですが、一度手をつけるとそこから抜け出すのは難しいことでした。チベットの本を書き終え、次いで新疆に関する本(日本語版『私の西域、君の東トルキスタン』)を書きました。その結果、私の本業とする「逓進民主」は今では影が薄くなり、副次的な研究の民族問題がなんと看板になり、私は「中国民族問題の専門家」と紹介されます。ちょっとしたお笑いぐさです。

 しかし、チベットの研究が縁で、私とチベットの作家オーセルは結婚しました。私たちは現在北京で共に生活し、文筆活動に携わり、中国がほどなく迎えることになる激変を目の当たりにしようとしています。

二〇一五年九月 王力雄

「日本の読者へ」と題された『黄禍』収録の序文

日本の読者へ

 本書は、想像を語るというやり方で中国社会の崩壊及びそれが世界にもたらす衝撃を述べたものです。一中国人作家として、私は何故に中国の未来にこのように悲観的な描写をしたのでしょうか? 多くの外国人の目には、中国には崩壊の様子が認められないだけでなく、それどころかいかにもこの上なく安定しているように見え、防ぐべきは中国の勃興後の拡張のみのはずだと映っているのでしょう。

 確かに、さしあたり中共(中国共産党)の統治は見たところかなり安定しています。だが私はまさにこの安定の背後に危機を見ているのです。これについてまず語るべきは危機についてではなく、中国がなぜこのように安定しているのかということです。

 現在の中国では、政権以外には、いかなる組織的勢力も全般的に社会に対し統合を行うことができません。政治的反対派、イデオロギー、国家化された軍隊、宗教、市民社会、これらのまっとうな社会でなら欠くことのできない総体的統合メカニズムは一掃されるか、圧制の下で育ちようがなくなっています。唯一の総体的統合力としては政権があるばかりです。中国がこのような情況下でいかにも安定しているように見えるのは少しも不思議ではありません、なぜなら政権自身を除いては、いかなる勢力も社会を結束させ、人民を指導することができず、政権に対し挑戦を形成するに足る力がないからです。すべては政権の号令のもとでのみ進行することができるのです。

 中国の基本的状態は以下の通りです。一面では自由が拡大し、多くの新たな活動の余地が増え、社会の成員の間にもともと強制されていた硬直性が次第に取り除かれました、しかし新たな組織が取って代わることはなく、あとに続いたのは社会の益々のまとまりのなさです。誰でもが私利をはかりますが、すべてばらばらでまとまりのない個々の行為であり、あるいはごく狭い範囲の新たな統合です。別の面では、政権は行政化の方式で全社会をコントロールし管理しています。イメージ的に形容すれば、一つの政権という桶の中に一四億人のばらばらの砂が詰め込まれているようなものです。ばらばらの砂は活気づき無秩序に運動しています。桶それ自体は精神的思想的拠りどころを失って脆弱化し、毛沢東時代の鉄の桶から今日のガラスの桶に変わってしまいました。ばらばらの砂はどっちみち桶に挑戦のしようがありません、たとえガラスの桶でもです、これが今日の中国が外国人の目にこの上なく安定していると映る原因の存するところなのです。

 しかしこのような安定は決して吉兆ではありません、逆に極めて大きな危険を孕んでいます─万一ある時予想外の衝撃がガラスの桶を粉砕したらどうでしょう? 唯一の統合が失われることになり、社会はコントロールを失い、あらゆる危機が一度に突発し、桶の中のばらばらの砂はそこら中に飛び散り、収拾がつきません。
 中共政権が永遠に存続するとしましょう、たとえ問題が山積していても、少なくとも災難で破滅することはありません。しかし、そのようなことは明らかに不可能です。この世に永遠に存続するものなどありません、中共政権も例外ではありません。まして役人が腐敗し、イデオロギーが万全でなく、民心を失い、それに経済的危機が累積しているという状態が、中共政権が内部から崩壊する要因を造り上げているのです。

 中には私の中国の未来に対する描写があまりにも悲観的だと考える人もいます。どの時代の憂国の士も中国が滅びると心配しなかったでしょうか? もう明日が訪れないかのように。しかし中共政権が崩壊すれば天までもが崩れるでしょうか? 案ずるより生むが易しです。歴史上政権の崩壊は数限りなくあり、みな試練を乗り越えはしませんでした。今日の崩壊論はやはり過去と同じように、自身の置かれている状況がよく分からず行き過ぎた解釈をしているだけなのでしょうか?

 今日の中国が過去と異なるのは、過去にはたとえその他の統合の要素がすべて機能を失っても、少なくともまだ文化の「骨組み」の支えと生態の「土台」の支えがありました。

 政権が倒れても、もし倫理、道徳、人間関係を統合する原則と価値体系が残っていれば、法律と警察がないという情況の下でも、人びとは自発的に持ち堪え、基本的な安定を維持し、政権と法律を再建するための緊張緩和を得ることができます。一方文化的構造を失い、外在的な統合がなければ、人びとは互いに闘争し、その結果動乱が速やかに拡大し、連鎖的に拡散し、崩壊の危険は大いに増加することになります。

 もし生態環境がよく、人口がそう多くなければ、最もひどいことにはなりません。人びとは困難に際し共に助け合い難関を共に乗り越えられることができなくても、社会が再度統合されるまで、少なくとも各自が田畑を耕し、果物などを摘み取り、狩猟をし、自然経済を頼りに生活することができます。不幸なことに、今日の中国は文化的構造を失ってしまった上に、生態の土台も失ってしまい、一旦唯一総体的統合を行う政権がつぶれれば、全社会がばらばらのかけらになる状態から粉末化する状態へと加速的に墜落し、最終的に崩壊の局面に至ります。

 中国崩壊の憂慮をあざ笑うのは容易なことです、しかしそのような憂慮を正視するにこしたことはありません。「杞憂」はせいぜい取り越し苦労に過ぎませんが、「棺桶を見ないかぎり涙を流さない〔落ちるところまで落ちないと自分の失敗を悟らない〕」というのでは、棺桶を見た時に悔やんでも間に合わないことになります。前者の代価は取るに足りませんが、後者の代価は耐えきれません。崩壊を言ったからといって決して努力を放棄することではありません。古人の慎重に行動する原則の中に「事に臨んで懼れる」とあるのは、まさに「熟考してから行い」、「謀を好んで成す」前の第一歩です。

 ただ予言者はある種の論理矛盾に直面することがあります、人びとがもし悲観的予言を信じ込み、備えを怠らなければ、予言はこのためふいになり、予言者は本当に杞憂という滑稽な状態に落ち込むことになります。このため次のような言い方があります─万能の神はそのような窮地に陥るのを避けるため、予言を行う時には常に、人びとは誰も信じないかもしれないがね、という条件をつけるというのです。

 私がこの本を書いたのは、出来るだけ多くの人が中国崩壊の危険を正視して欲しいと望むからです。現今の体制の安定を維持することで崩壊を防止しようというのはその場しのぎにすぎず、新たな活路を探し求めることによってのみ危地を脱することができます─私がこのように筆墨を費やし中国の崩壊を書き記した目的は、ここにあります。

王力雄
二〇一四年七月九日 北京

『黄禍』に対する寸評

▶この長編小説(『黄禍』)ほど大きなタブーに挑んだ作品は曾てない。(劉賓雁 独立中文筆会主席)
▶『黄禍』は、生態の崩壊、社会の危機が相まって切迫した状況を生みだし、未来の中国が壊滅に至る過程を予言している。本書の影響は中国語世界をはるかに超越し、中国と人類の前途に対する深刻な悲観主義の代表作となっている。(鄭義 独立中文筆会副主席)
▶最近の(中国国内の)一連の危機と衝突は、正に作者の大胆な予言を現実のものにしようとしている。(中国独立筆会第一回創作自由賞授賞の言葉より)
▶イギリス人のジョージ・オーウェルは『一九八四年』を書き、日本人は映画『日本列島沈没』を作った。我々にも当然『黄禍』があってしかるべきだ。(蘇暁康 ルポルタージュ作家、評論家)
▶このように規模壮大で整然とした文章の政治予言小説の出現は、現代文学史上恐らく初めてのことだろう。作者の創造力の大胆にして人の予測を超えていること、知識が広く豊であること、筆致の雄渾で円熟していること、これらはすべて驚嘆に値する。(蘇暁康)
▶『黄禍』の意義は、それが未来の中国にとっての可能性を構想したことにあるのではない、その可能性が現実の土壌の中にうち立てられていることにあるのだ。(何頻 ジャーナリスト)
▶非常に成功した中国語の小説……予想されている出来事は凄まじく驚くべきものだが、起こりうることなのだ。(Amazonサイト M.Campbell)

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