アキとカズ──遥かなる祖国
書名/アキとカズ
副題/遥かなる祖国

発行日/2015年08月
著 者/喜多由浩
発 行/集広舎
四六判/392頁/並製
定 価/1,500円+税

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娯楽として読む事実

ガルーダ三矢(評論家/コラムニスト)

 本書は、二〇一四年四月から二〇一五年三月まで、産經新聞に連載された小説を加筆修正したもので、作者は昭和三十五(一九六〇)年大阪出身、現産經新聞文化部編集委員の喜多由浩氏である。

 喜多氏は、韓国延世大学留学経験も含めた豊富な取材を基に、東京大空襲、終戦前後ソ連軍が侵攻した北方領土・樺太の悲劇、シベリアとフィリピンの抑留の悲劇、戦犯裁判の悲劇、戦争末期の日本軍および軍属の狂気、戦後十五年近く経って行われた在日朝鮮人とその子女、および日本人妻の北朝鮮「帰国事業」の悲劇、拉致被害者の悲劇、そしてその顛末のひとつである「脱北」「処刑」「自殺」の悲劇を、分かりやすく説いている。
 その中には、北方領土に於ける抑留朝鮮人の悲劇や、東京、大阪に於ける在日朝鮮人の悲劇もあれば、逆に戦中、いや、戦後の混乱期でさえ仕事を求め日本に渡った、朝鮮・韓国人の存在も語られている。

 一方で本著は、「はじめに」で作者自身が述べているように、準ノンフィクションなのだ。つまり、実在した人物たちの確かな実話ではあるのだが、それをつづれ織りのように、綾取りのように、自在に組み合わせた創作でもある。
 だから、読者は、アキとカズという生き別れの姉妹、および彼女たちを取り巻く人々の物語を、あたかも冒険小説、激動の時代を生き抜いた女性の波瀾万丈の人生小説として読み進めて行くことができる。おそらく、それを作者も望んでいるに違いない。

 現に、樺太に抑留された寺谷昭子が、ロシア人のスパイに仕向けられるあたりや、我が子をロシア人妻から取り戻すくだり、並河和子の恋人・松男がフィリピン住民虐殺犯の身代わりで戦犯となり、フィリピンと東京を行き来するように護送されるあたり、極めつけは、三十六年ぶりに再会した双子の姉妹が共に朝鮮人の夫を持つ運命となっていて、いずれも北朝鮮に「帰国」した後、ある出来事から姉妹は入れ替わるくだりは、フィクションであるから可能になった「あやとり」であろう。

 しかも、昨今流行の複雑怪奇な推理小説のように、登場人物が思わぬ形で関わりを変遷するから、しっかり記憶して読み進めないと置いて行かれてしまうし、どんでん返しも含め充分に推理小説であり、日本赤十字から外務省、果ては自衛隊まで巻き込んだスパイ小説でもあるのだ。
 しかもそれらは、新聞連載のおかげでそれぞれの場面は、比較的短文で完結しながら、めまぐるしく場面が転換する。大きめの文字、改行や段落の工夫も含め、不謹慎ながら、娯楽小説としてさえも「読みやすい」「面白い」一冊なのである。

 そう思って一気に読み進めることや、ワクワク、ドキドキしながら読み進めることの方が、作者および編集出版社の願いに沿うのではないだろうか? なぜならば、本書で説かれている歴史的事実は今日、それぞれ全く別な問題としてそれぞれに問題意識を持つ人々に説かれ訴えられているからである。

 北方領土問題と、北朝鮮拉致問題は全く別であり、戦争の狂気や悲惨さもまた別次元の問題である。同じ朝鮮問題のようでいて、拉致問題と、一九五九年に始まった帰国子女問題と、在日問題もまた、取り組む熱心さに比例して専門性・個別性が際立ってくる。もちろんそこに共通する根源的な問題は誰もが感じているが、それを外側から「共闘会議」や「連絡会議」のようなもので括ってみても、実は何ら新陳代謝を促すことも、掘り下げる原動力を与えることにも繋がっていないのが実情である。

 また、戦中のことは、たまたま、と言っては不謹慎であるが、戦後七十年の節目の今日であるからこそ、大衆は関心を抱き耳を貸すが、来年、再来年以降はどうなってゆくだろうかと考えた時、虚しい諦観を禁じ得ないのは私だけではないだろう。 

 そのことを考えると、戦中の問題、戦直後の問題、戦後十五年の帰国問題、拉致問題、ごくごく近年の隣国および日本の民衆の感情問題、隣国政府のプロパガンダ問題、日本におけるヘイトスピーチ問題、領土問題、今年度国会の安保関連法案問題、そして、朝鮮半島問題、アジア問題、北方領土問題は、いずれも距離感があるばかりでなく、決定的な「時差」が存在するのだ。

 だから、本書のような創作でのみ許される「あやとりの技」で、距離を自在にワープし、人物の歴史によって綴られた時間を自在に繋ぎ合わせて一本の筋を見出すことが必要なのであろう。 
 そして、「まるで娯楽小説」のように一気に読み進めるからこそ、その根底に流れ、実際確かに繋がっている「真実」らしきものを、おぼろげながらでも感じ取ることができ、「面白く読めた」からこそ、心に記憶に残るのではないだろうか。

 実のことを言うと、私は当初それ(面白く読むこと)が出来ていなかった。
 それは、失礼ながらか、恥ずかしながらか分からないが、産經新聞を購読するセンスを欠いていたからでもある。これが連載を追って読むのであれば、それなりに堅苦しい気分を免れたに違いない。 
 加えて、「戦中戦後の諸問題が一冊で判る本」のような先入観で読み始めたのである。だから「アキとカズ」というタイトルにそもそも引っ掛かっていた。しかもその名も昭和を象徴し代表するから「昭子と和子」だなどという作者独特のユーモアにもつき合える気分ではなかった。

 ところが、各章は新聞連載サイズのおかげで流麗に読み進むのだが、登場人物が複雑なところに、昭子と和子が、物語の中で、十数人とも思えるほどキャラクターが変遷しているのだ。これは激動の時代に生きたゆえのことなのだが、実際推理小説を読む時にこっそりやっている、「登場人物の記憶と理解の為のメモ」を取らねばならなかった。 

 そして、「アキとカズ」は、単なる一人の「寺谷昭子」でも「並河和子」でもなく、実際有り得たに違いない、様々な立場と人格を強要され波瀾万丈に生きた「寺谷昭子」と「並河和子」であるとともに、同時代、いや、今日でさえも続いている問題(物語)の、普遍的な日本女性、在日女性、日本人妻、帰国子女の代表としての「寺谷昭子」と「並河和子」であることに気づいたのである。
 それに気づくや、ふたりは、やはり「アキとカズ」でしかないのであった。

 そして、一気に読み終えた時、ひとつの言葉が頭に浮かんだ。「事実は小説より奇なり」。恥ずかしいと感じるほど、ありきたりな言葉である。が、「娯楽小説」として読み進めることが出来たからこそ、心に残り、そして、知らされたのである。事実は、この小説よりも悲惨であり、終っていないことを。

 しかも、この「小説」は、「歴史小説」の性格を全く持っていない。最後になったが、これは欠かさず特筆すべき点である。随所に、まさに今現在の価値観と視座が現れてくることもあるが、常に「今日」の感覚で、全ての事柄が描かれているのである。

 等しく人間には「忘れる」という機能が備わっている。嬉しいことも楽しいことも、美味い食い物でも、忘れるからまた欲する。同じ様に、根に持っているフリをしているが、嫌なことも悲しいことも、実は大方は忘れているのである。だから、先に進んで行ける。ましてや、これが「対岸の火事」であり、「他人事」であれば、なおさらだ。
 しかし、日々忘れていたであろう情報に、「理解」が加わったならば、それは実体験により近しいものになるはずである。いや、ほとんどの人間は、実体験ですら「分析」どころか「理解」すらしないのであるから、それ以上に「心に残る」可能性は高いのではないだろうか。