唯色コラム日本語版

第09回

オーセル氏のエッセイ・詩 五編

「批判」

 「三・一四事件」の後、ラサでは大衆を動員して、深く潜んだ「ダライ分裂集団」を引きずり出して、批判闘争にかけるという運動が繰り広げられました(これは文革期の常套手段でした)*1。退職幹部たちは例外なく参加しなければならず、最も積極的な主力軍となりました*2。彼らは当時の政治運動に逆戻りし、怒号しながら罪状をあげて批判し、感涙にむせびながら「昔の苦しみを思い」、「今の幸せをかみしめる」*3と表明する方式がいかんなく発揮されました。ほとんどが内心からではなく、ただ体制側にからみ取られた子女を守るためでしたが、少なくて数千元、多いのは数万元という毎月もらえる年金による「金縛りの法〔三蔵法師が呪文を唱えて孫悟空に言うことを聞かせること〕」から抜け出せないことも事実です。
 このような時代になると、彼らの精神世界にある種の烙印が押しよせてきて、あたかも業(ごう)の力で取り憑りつかれ、なかなか消し去れないということがはっきりと分かります。もちろん、この烙印は主に言語に表れており、口を開くたびに、ある時代、ある歴史的段階の独特の言語が、次々に絶えることなく湧き出してきます。まったく無味乾燥なものですが、どうも強い生命力を持っているようです。
 ただし、このような言語は外来のもので、自分が属する民族に根ざしていないため、わざとらしく、ぎこちないものです。ですから、自民族の言語を使うときは、母語によって烙印が自然に取り除かれますが、しかし、中国語で「オウム返し」のように発言するとき、元来は豊かな表現力のある中国語が、またたく間に枯れ果てて、味気なくなり、その一方で、烙印が余すところなく露見してしまいます。
 昔と違うところは、その拙劣な演技が、新聞だけでなく、いく千いく万の家庭のテレビにも登場すると、彼らはアッという間に「通りを横切るネズミ〔見つけるとみな一斉に捕まえようとするような嫌われ者を指す成語〕」になってしまったことです。このようになるとは、予想できなかったにちがいありません。
 文革期にチベット民族学院〔一九五七年開学。陝西省咸陽市にあり、元は西蔵公学〕を卒業した退職幹部は、テレビに出演し、怪しげな発音の中国語と悲痛な面もちで、自問自答式にダライ・ラマを激しく非難しました。
 「やつはわしらに病院を建ててくれたかい? エヤ(いや)! やつはわしらに学校を建ててくれたかい? エヤ(いや)! やつはわしらに高速道路をつくってくれたかい? エヤ(いや)! やつはオンボロの寺を残しただけだ!」
 この講演は大反響を巻き起こし、一斉にののしり声が町のあちこちであがりました。
 「何だと? オンボロの寺だと? 毎年どれだけたくさんの外国人が来るんだ。ギャミ〔漢人〕がラサまで来るのは、『キャクパソ〔くそ食らえという意味の罵声〕』を食うためか? いくつもあるオンボロの寺のためじゃないのか? はるばるとやって来るのは、記念碑〔ポタラ宮の向かいにあるチベット解放記念碑〕を見て、カラオケに入るためだって言うのか? チェ! バカ言え!」
 このような罵声が民間に沸きあがったことを聞き、彼は家に閉じこもり、外出しなくなりました。
 ラルのニュータウンに住む退職したおじいさんは、テレビで気も狂わんばかりにダライ・ラマを糾弾したため、翌日は自宅の前に悪臭の立ちこめる大便がドサッと置かれました。
 政治協商会議の高級住宅地に暮らす旧貴族の老婦人は、テレビでやさしそうな敬語を使い、当局に「是非とも暴乱分子を厳しく罰してくださいませんか」と懇願したため、翌日、自宅のドアにツァンパの入った素焼きの壺がかけられました。これはチベットの慣習で、死者に供えるものです。また、彼女の言った「是非とも」は、皮肉を込めた流行語としてラサを風靡しました。
 ある県の婦人連合会〔中国共産党指導下の女性大衆組織〕の主任として退職した幹部は、ふだんは誰よりも敬虔に念仏、コルラ、マニ車に励んでいました。国外に嫁いだ娘を訪問したときは、たまたまギャワ・リンポチェもそこを訪れていて、地元のチベット人がギャワ・リンポチェに謁見している機会に遭遇しました。そこで彼女は地面にひれ伏し、感激して気絶するほど泣き崩れたそうです。ところが、今度は、チベット・テレビの夜のニュース番組に登場して、胸をたたき、地団駄を踏みながら文革の言葉を操りました。その後まもなく、彼女は町で何人かのチベット人青年に呼びとめられ、これ以上でたらめを言うと、年寄りだろうと、頭に石をぶつけられるぞと警告されました。
 本当の積極分子(フルツォンパ)は密かに襲撃されたそうです。「八一農場」*4の近くに住む退職したおじいさんは、口の両側を鋭利な刃物で切られたそうです。
 このようにして真偽、虚実が入り混じった話があちこち飛び交いました。ひいては、ラサだけでなく、ダラムサラでも「指名手配」のリストが張り出されたそうです。つまり、公の場に顔を出して、不適切なことを言うのを止めない在職、および退職の幹部はみな掲示されたということです。アムドとカムに至っては、多くの地方の大通りや裏通りで、いつの間にかクンドゥン様を糾弾する最も凶悪なチベット人官吏や同胞を殴る最も残忍なチベット人警官の顔写真が貼られているそうです。そして「お前らは裏切り者かスパイだ。しっかりと覚えておこう」とチベット語で明記されています。写真ではなく、醜く描かれた風刺画もあります。顔が狼や犬などの畜生の首に付けられていて、コミカルな効果のあるのもあります。
 もちろんのことですが、私はこのような伝奇的色彩のある物語は、因果応報の事例として、現実的な意味よりも、警世の意義の方が大きいと信じたいです。最終的に、私たちのおじいさん、おばあさんたちには、この世の太陽を見送り、あの世の太陽を迎える日がやって来ます。一日中ずっと太陽が見えないところに行きたいと思う人がいるでしょうか?

*1 訳註:原文は「深入掲批」で、深く掘り下げて摘発し、批判するという意味。特に文革期に繰り返された闘争手段で、大勢の群衆がスローガンを叫びながら、摘発された者の罪状をあばき、つるし上げ、しばしば暴行も加えられた。大衆は激しく批判すればするほど毛沢東や共産党に忠実だと評価された。
*2 訳註:批判闘争に積極的に参加した者は「積極分子(チベット語ではフルツォンパ)」と称された。
*3 訳註:原文は「憶苦思甜」。共産党が政権を掌握するまでの苦しく辛い時代を思い、共産党の政府により幸せになったことを大勢の前で表明させることが、政治闘争では繰り返し使われた。
*4 訳註:一九五二年に人民解放軍第一八軍がラサに進駐して建設した自治区最初で、ラサ随一の国有企業。「八一」は一九二七年八月一日の建軍記念日に由来。

補充のために

 ……早朝、私はそっとドアを開ける、
 この日、どれほどの偶然のできごとが、土鼠年の痕跡を埋めつくすのでしょうか?
 私は信じます。秘密を見ることができると。

 歩く途中には、靴の修理屋、鍵屋、果物売り、クリーニング屋……
 勤勉に働く庶民が、朝早くから、
 日々の暮らしの湯気をたてています。まるで杭州のできたてのほやほやの小龍包子が、
 最初にやって来るグルメのお客を待っているかのように。

 でもその中には、私の同胞はいません。
 雪新村〔ニュータウン〕の入口には、また武装警察が二人増えました。
 背中と背中を向き合わせ、カチカチに硬いひざ当てを巻きつけて、防御用の盾と銃を持っています。
 そばには煙草を吸っているやぶにらみの男がいます。私服警官のようです。

 私は商店の入口に立っている二つのマネキン人形に引きつけられました。
 それぞれバラ色とエメラルド・グリーンの下着をまとい、からだの曲線を露出していますが、
 首には細いひもがかけられ、シャッターの上に繋がれていて、まるで首吊りにされた亡霊のようです。
 きっと誰かに盗まれないためでしょうが。

 これはまだ未完成の詩で、ここでバタンと途切れました。二〇一〇年、三・一四事件二周年という時間と、ラサという場所を書きとめました。
 赤い提灯がいっぱい掛けられているルカン〔以前は龍神殿で、現在は公園の一部〕に入ると、二つの耳に子どもの頃からよく知っている「私は北京の天安門を愛す〔文革期のプロパガンダの流行歌〕」という歌がガンガン飛び込んできました。私はまさに北京から戻った旅人です。でも、私はとうの昔から天安門に掲げられた「赤い太陽〔毛沢東〕」など愛さなくなっています。
 この歌が終わっても、また突然、雷が鳴り響くように、チベット風の革命歌が始まりました。ポタラ宮を背景にして、太極拳を終えたばかりの退職幹部たちが、まっ赤な羽毛の扇やキラキラ光る長剣を手に、サッサッと声を出してゆっくりと舞い始めました。
 私はラサの民間で流行っている物語を想い出しました。ルカンで剣を神聖なポタラ宮に差し向けている退職幹部たちとマニ車や念珠を回すことに励む一般庶民がののしり合いました。前者は見下しながら中国語で「分かるかい? これはからだを鍛えるというのだ」と言うと、後者はチベット語で「男の悪魔、女の悪魔」と言い返しました。
 この話はとても重いものです。早朝の光の中で、老い衰えて、頑迷で、「異化」された顔つきでも、明らかにチベット人の輪郭が残っています。私は悲しくて不憫でなりませんでした。

署名すれば金をやる

 「三・一四事件」以後、当局はチベットで数回も署名活動を行いました。最初の署名活動では、幹部たちは苦労もいとわず分厚い書類を持参して、勧誘するような口ぶりで民衆に語りかけました。
 「これは『低保*5』と『退耕還林*6』に関するものだ。ただ署名するだけで、いいことがあるぞ。」
 書類は中国語だけで、チベットの庶民は読めないので、幹部の話を信じ、みな署名して、拇印を押しました。
 幹部たちは馬に乗り、山上の寺院も訪れ、僧侶にも署名、押印させました。大急ぎでせきたてたのですが、日が暮れて、寺院に泊まらなければならなくなりました。そして、幹部たちはこの署名・押印した書類を頭の下に置いて枕にして寝たそうです。後悔して気が変わった僧侶たちに奪われることを心配したからです。
 まもなく、この書類はダライ・ラマ一四世がチベットに帰還することを拒否し、しかも尊者を口汚くののしる言葉があふれていたものだということが分かり、多くのチベット人は悔しくて、涙を流して抗議しようとしました。
 すると、幹部たちがまたやって来ました。今度はチベット語で書かれていたので、庶民でも読めましたから、だれも署名をしませんでした。幹部たちは顔色を変えて「署名しなければ『低保』を差し引き、『退耕還林』も支給しないぞ」と脅しましたが、みな従いませんでした。
 またまた署名活動が行われました。今度は、幹部たちは現金を持ってきました。毛主席の顔が印刷された百元札の分厚い札束が、テーブルにドサッと置かれました。幹部は札束を指さして、「見ろ。署名すれば、この場で現金二万元をやるぞ」と言いました。一部の貧しい人が目の前の誘惑に負けて署名しました。でも、それで手に入れたのは二万元ではなく、一千元でした。幹部は「お前らは使い道など分からん。おれが保管しておいてやる」と言いました。
 セルタ県のゴチェン寺(果青寺)の僧侶たちは書類と現金を手にした幹部が到着する前に、急いで寺を後にして、険しくて細い山道を登りました。森林が伐採され、至るところに積雪が残っていましたが、僧侶たちはツァンパを食べ、読経して、数十日間も高く切りたった山々に身を隠しました。

*5 原注:住民の最低保障の略称。二〇〇九年七月五日の『四川日報』の報道では「カンゼでは都市部で二八・四九三人が低保を受け、農村部では二二三・二五四人である。農村の『五保〔五項目で保障〕』は八・三〇二人である。そのうち都市の『低保』の平均は一人あたり毎月一七五元で、農村では六五元である」。
*6 原注:土砂の流失を防ぎ、生態環境を改善するため、耕作を止め、森林に戻すこと。山林や土地の請負人には食料費、造林補助金、生活補助金が支給される。チベットでは一九九九年から施行。

わしは、わしの畑に種なんかまかないぞ

 カム地方チャムドのジョムタ(江達)県では、ギャワ・リンポチェを糾弾する文書に署名したくない僧侶たちはみな、山の上や金沙江の向こう側など、できるだけ遠くに逃げました。当局は腹を立てて、逮捕のために兵士を派遣しました。若くてエネルギーを持てあましていた兵士たちにとって、やっと発散するチャンスが訪れたわけです。
 山や野原をくまなく捜索しても見つかりませんでしたが、ようやく山の洞窟に閉じこもり修行する僧侶たちを発見し、連行しました。長年ひたすらに修行してきた僧侶たちは、顔色は蒼白で、髪は長く伸びていました。「三・一四事件」が起きたことさえ知らず、文化大革命がまた押し寄せてきたと勘違いしました。兵士たちは、あきれるほどの無知に、むしろ馬鹿にされたと感じて激怒し、懲罰だとして凶暴な暴力を加えました。
 山のふもとの村民たちはふだんから尊敬している修行僧たちが捕まえられた獲物のように押送されてきたのを目にして、胸が張り裂けるほど悲しみ、大声で嘆き悲しみました。そして、いくつかの村の村長さんが連れ立って軍営を訪れ、自分たちは共産党員で村の幹部だから、その立場に免じて修行僧を許してあげてくださいと訴えました。ところが、思いもよらなかったことに、兵士たちは服をはぎ取り、サッカー・ボールのように蹴とばして、転がしたのでした。
 まもなく春の耕作の時期になりましたが、村民たちはたとえ餓死しても種はまかないと決心しました。このように抵抗する他なかったのです。「わしは、わしの畑に種なんかまかないぞ」と、その年のロサルを哀悼するというかたちで過ごしたのと同じように、協力しないと表明したのです。
 見渡す限り耕地が荒れはてました。役人たちは大慌てで集会を開いたり、現金を配ったりしましたが、効き目はほとんどありませんでした。決意の堅い村民の一部はブラック・リストにのせられました。これから機会をうかがって「総決算」をするときには、「〔取締りの〕対象」とされることでしょう。

こんな詩なんて役に立たないけれど、ロサン・ツェバに捧げたくて……*7

1.

もう二三日目になりました。
ある日、「失踪させられる*8」という詩を読み、
すぐにあなたのことを思いました。

あなたは、先月二五日に「失踪させられました」。
私はただ涙を流して、詩を書くほか術(すべ)がありません。

2.

映画には風景の挿入が必要なように、
私の思いは、とてもとても乱れるとき、
夢や幻のような場面がちらつきます。

馬のひづめを埋もれさせる花々、草原の黒いテント、
そよ風にはためくタルチョ、放生(ほうじょう)される家禽や野獣*9

これらはみな私のふるさとの美しい風景、
でも実際は困難を極めた状況で、まさにこの時、
あなたは蒸発するように消えてしまった。

3.

荒唐無稽と現実がイコールで、
私なんて、人を守れないどころか、毒薬のようになっていて、
あなたは毒の酒を飲み、受難の供物となったのでしょうか*10

目を閉じれば、いつもあなたが浮かぶ。
あの年の三月、烽火(のろし)が雪国の全域に燃え広がり、
同胞は鮮血を流し尽くした抗議者を寺院に担ぎ入れ、
心の聖殿に供えました。

4.

「三月は最も残酷な月です*11
ある上品な外国メディアの記者は、こう語りました。
二年続いて三月に彼はチベットを訪れ、何か見たようですが、
まだ何も見ていないようです。
明らかに、彼は三六計*12の計略に落ちたのです。
私が「あなたは『チベット人は狼のように吠えた』ということについておっしゃったのですか?」とたずねると、
気まずい雰囲気になり、彼はプライドが傷つけられたような表情をしました。

5.

ツェバ僧、あなたはどこにいるのですか?
野蛮なやり方でアバに送還されたですか?
それとも秘密の独房に監禁され、残忍なリンチを受けているのでしょうか?

ある若い僧侶が拷問の経験を語ってくださいました。
逆さにつり下げられて、肋骨を三本も折られました。
天気が変わるときは、からだを丸めるほどの激痛が来ます……
ああ。おたずねすることを忘れました。最近、チベット東部では雪が降りましたが、体調はいかがでしょうか?
それはそうと、ツェバ僧の安否は、誰におたずねしたらいいのでしょうか?

6.

「私たちは足下に国を感じずに生きている
 私たちの会話は十歩離れると聞こえない」
これは、スターリンの手により死に至らしめられた良心的詩人*13の詩句です。
まさにこの世の春を謳歌している華夏〔中国の古称〕の姿でもあります。

深夜、私は混乱した内心を吐露しました。
「役に立つかどうか分かりませんが、それでも言います。
実は分かっているのです。言っても役には立たない……」
ラワンロンバ〔自由な世界〕の友人が力強い口調で語りました。
「あいつらは何を言ってもムダだと思わせる。
しかし、我々は言うことを止めるわけにはいかない。」

7.

私の両手には何もありません。
でも右手にペンを握り、左手で記憶をつかみ、
この時、記憶はペンの先から流れます。
さらに行間には、踏みにじられた尊厳と
尽きない涙があふれます。

8.

地獄を長い間じっと見つめていると、
地獄に少しずつ食われてしまうかもしれません。

条件があれば出してください?
もし条件があるのなら、聞かせてください。
彼を無事に交換できるのであれば。

ふと想い出しました。あの陰鬱な午後、
一羽の陰鬱な手下の鷹が、凶悪な口ばしを開きました。
「おまえ、できるのか? チベットについて書かないことを」

9.

チベットについて書かなければ、詩になりません。

まさに、チベットのためにこそ、ツェバ僧は失踪させられたのです。
まさに、チベットのためにこそ、タベー僧侶とプンツォ僧は焼身自殺したのです*14

このリストは延々と長く続き、さらに先へと長く……

漢語の西蔵──
もちろん、きちんとした名称はチベットです。

二〇一一年四月四日 初稿
二〇一一年四月一七日 決定稿

*7 訳注:二〇一一年三月二五日の夜、アムドのアバ(四川省アバチベット族チャン族自治州アバ県)のキルティ僧院の二六歳の青年僧、ロサン・ツェバは、北京市内の中央民族大学にいるとき国家安全局により身柄を拘束され、現在でも消息が不明である。
*8 訳注:原文は「被失踪」で、「被」は「される」という受身を意味するが、現在では強制的に「させられる」という意味でも使われている。「被」を使った新語には「被精神病者(上訪=直訴者などが地元に強制送還され、精神病だとして強制的に入院=事実上の監禁状態に置かれる)」、「被就職(大学が就職率アップのために存在しない会社に内定とする)」、「被自殺(警察が不審な死亡事件を自殺として処理する)」など多数あり、流行になっている。
*9 訳注:タルチョは経文を書いた布などを万国旗のように連ねて掲げたもの。放生は仏教の「殺生戒」に基づき、生き物を野や川に放ち功徳を積むという営み。
*10 訳注:オーセル氏は常に尾行、監視され、自分に関わると嫌がらせを受け、甚だしくは逮捕されることもあるので、自分を「毒薬」に喩え、ツェバ僧は自分と会ったから「失踪させられた」のではないかと嘆いている。
*11 訳注:T.S.エリオットの長篇詩「荒地」の冒頭「四月はいちばん残酷な月」を踏まえている。
*12 訳注:中国古代の兵法では三六種の計略があると伝えられている。
*13 訳注:ロシアの不屈の詩人のマンデリ・シュターム(一八九一~一九三八年)が一九三三年に書いた「スターリン・エピグラム」の一節で、彼は翌三四年に逮捕され、三八年に流刑地で死去した。
*14 訳注:二〇〇八年三月一六日、アバ県で僧侶と民衆が街頭に出て抗議の声をあげたが、軍と警察に鎮圧され、この日は祈念の日となった。翌〇九年二月二七日、アバ県にあるキルティ僧院の二四歳のタベー僧はアバの街頭で抗議の焼身自殺を図ったが、軍と警察に銃撃され、足と右腕に障害が残り、軍の病院に監禁されている。そして、二〇一一年三月一六日、キルティ僧院の二〇歳の僧侶、ロプサン・プンツォ僧がアバの街頭で焼身自殺を図り、「ギャワ・リンポチェの帰国を!」、「チベットに自由を!、「ダライ・ラマ万歳」と叫んだが、警官隊に取り押さえられ、激しく殴打され、三月一七日早朝三時、身を捧げた犠牲者となった。また、プンツォ僧の抗議をきっかけに、三月一六日、僧侶や民衆が立ち上がり、平和的に抗議の声をあげたが、数千の武装警察が僧院を包囲・封鎖し、強引に捜査を行い、多数の僧侶が逮捕され、食料の供給も絶たれ、壊滅的な打撃を受け、存続の危機にまで追い込まれるという異常な事態となった。

火に油を注ぐような言葉

 三週間前、私は厳重な警備が敷かれているラサから、スモッグのたちこめる北京に戻りました。北京では自然の「気候」は深刻に汚染されていますが、政治の「気候」はラサより緩和されています。ギュッと張りつめていた神経が、少しはリラックスできました。
 ところが、アニ〔尼僧〕のテンジン・ワンムが、一〇月一七日にアバで焼身自殺したというニュースは、この世の春を謳歌している北京の仮面を引き裂きました。私は、二〇歳の若さのアニを想い、涙があふれました。
 あの日、四日、スーパーで買い物をしていたとき、CNNの記者から電話がありました。昨日、カムのアニ、パルデン・チュツォが焼身自殺したことについて見解を述べてほしいというものでした。私は辛さにいたたまれず、急いで大通りまで走りました。息が詰まるような苦しさから、何とか逃れようとしたのです。
 私は毎日インターネットに向かうとき、このようなニュースが出ていないかと恐れています。しかし、私ははっきりと思っています。もし、中国政府がチベットの統治政策を変えず、むしろチベット人の首を締めつける縄をますますきつくするのであれば、どうしてチベット人が命を捨ててまで抗議行動を起こすことを阻止することができるでしょうか!
 私は大通りにいて、私に向かって歩いてくる見知らぬ人々を眺め、声を出さずに数えてみました。一人、二人、三人、四人、五人、六人、七人、八人、九人、十人、十一人、十二人。何と、既にこれほど多くの方々が焼身自殺を次から次へと敢行してのです! 私はまぶたを閉じました。涙が心の奥に流れていきました。
 さて、チベットに同情する口ぶりで、次のように発言する人がいます。
 「チベット人が抗議の焼身自殺で中国政府を譲歩させようとしても、まったくの徒労になるでしょう。また、抗議の焼身自殺により国際社会の注意を引こうとするのなら、まったく必要がありません。逆に焼身自殺という行為は、国際社会の組織や個人を窮地に陥らせ、チベット問題に目を向けるだけでしり込みさせてしまいます。二一世紀に入った今日、焼身自殺という極端な方法に賛同する者は誰一人としていなく、またチベットへの人道的な心遣いを焼身自殺の激励へと誘導されるような者は誰一人としていません。あなたたちこそ生命を大切にしなければなりません。あなたちこそ落ち着かなければなりません。」
 このほど偽善的な言葉はありません! チベット人はあまりにも愚かで、理性がなく、生命を軽んじているので、焼身自殺を用いて脅迫するというゲームをしているというのでしょうか! チベット人が抗議行動を起こすとき、このような“友人”の顔色をうかがわなければならないと言うのでしょうか! そうしなければ“友人”は怒ってさっさと去っていくのでしょうか! チベット人に焼身自殺を止めさせるべきは、チベット人自身ではなく、チベット人の体を烈火の如く燃えさからせた中国政府だということが分からないのでしょうか! “賢明”なお方の高踏的な発言は暴政と相通じていて、まさに火に油を注いでいるようなもので、ほんとうに驚き、呆れます。
 電話によるインタビューのとき、私は辛くて言葉に詰まりましたが、それでも、長い間ずっと考えてきたことを率直に話しました。
 「他に方法がないのです。是非とも国際社会は中国政府に圧力をかけて、チベット人への圧政を止めさせてください。その圧力は決して口頭ですませないでほしいのです。もちろん、各国政府はそれぞれ自分の利益を最優先にするでしょうが、二一世紀になってもチベットがこのように残酷に扱われているという悲劇的状況に対して、緊急の行動が取られてもいいのではないでしょうか? この世のすべてのこと、すべての生き物はお互いに関係しあっています。抑圧されているチベット人が止むに止まれず決行する焼身自殺は、ただチベット人だけの問題だけではないのです。地球すべての生き物がお互いに密接に関連している地球生態系で、決して無関心ではいられないはずです。」
 あるチベット人がツィッターで、私にこのように語りかけました。
 「私たちは、何もしないで次の焼身自殺をただ待っていることなんてできません。でも、同胞に対して私は何ができるでしょうか? こんなに次々と悲劇が続発したことにほんとうに心が痛みます。私は、独裁者の中国当局の悪を、全世界が阻止できないことが理解できません!」
 このチベット人は、さらに同胞が信じる因果信仰にも疑いを抱きました。
 「これはほんとうに私たちの業(ごう)の力によるものなのですか? まさか、私たちの業の力とは、中国政府の銃口の下で沈黙し、銃殺されるというものなのですか!」
 これに対して、私は次のように返信しました。
 「私は業の力を揺るぎなく信じます。なぜなら、去年の夏、当局がぬれぎぬを着せて罪に陥れたビジネス界のエリート、嗄瑪桑珠が、事実を無視して一五年の判決を言い渡した法廷で、チベット語と中国語を使い、それぞれ二回繰り返した言葉を想い出すからです。『因果応報。私は揺るぎなく信じます。』中国人にも昔から伝えられてきた言葉があります。『善には善の報いがあり、悪には悪の報いがある。報いが報われないのではなく、時機がまだ来ないだけだ。』」
 もちろん、このことがお分かりにならない自分本位の“賢明”なお方は、せめてどうか口を慎むようにしていただけないでしょうか。

二〇一一年一一月七日、北京

訳者注記
 四川省アバ・チベット族チャン族自治州で、二〇一一年一〇月一七日、二〇歳の尼僧テンジン・ワンモが「チベットに自由を。ダライ・ラマ法王に長寿を」などと叫んで自らの体に火をつけた。これは、三月にキルティ僧院の僧侶が抗議のために焼身自殺を図って以来、初めての尼僧の焼身自殺であった。そして、一一月三日、四川省カム・カンゼ・チベット族自治州タウ(道孚)県の尼僧、パルデン・チュツォ(三五歳)は焼身自殺で抗議し、死去した。女性では二人目であった。
 現在のところ、国内での抗議の焼身自殺者は一一名にのぼるが(女性は二名)、中国政府は焼身自殺行為を「姿を変えたテロ」と非難し、アバ県の村々に二万名以上の工作チームを進駐させ、監視を強化している。これに対して、チベット側は「一連の焼身自殺の根源は、当局がダライ・ラマ一四世との対話を拒否しているために、チベット人が絶望に追い込まれていることにある」と述べている。

コラムニスト
唯色
1966年、文化大革命下のラサに生まれる。原籍はチベット東部カムのデルゲ(徳格)。1988年、四川省成都の西南民族学院(現・西南民族大学)漢語文(中国語・中国文学)学部を卒業し、ラサで『西蔵文学』誌の編集に携わるが、当局の圧力に屈しなかったため職を追われるものの、独立精神を堅持して「著述は巡歴、著述は祈祷、著述は証言」を座右の銘にして著述に励んでいる。主な著書に『西蔵在上』(青海人民出版社、1999年)、『名為西蔵的詩』(2003年に『西蔵筆記』の書名で花城出版社から刊行したが発禁処分とされ、2006年に台湾の大塊文化出版から再出版)、『西蔵―絳紅色的地図―』(時英出版社、台湾、2003年)、『殺劫』(大塊文化出版、台湾、2006年。日本語訳は藤野彰・劉燕子共訳『殺劫―チベットの文化大革命―』集広舎、2009年)、『看不見的西蔵』(大塊文化出版、台湾、2008年)、『鼠年雪獅吼―2008年西蔵事件大事記―』(允晨文化、台湾、2009年)、『聴説西蔵』(王力雄との共著、大塊文化出版、台湾、2009年)、『雪域的白』(唐山出版社、台北、2009年)、『西蔵:2008』(大塊文化出版、台湾、2011年)がある。国際的にも注目され、ドイツ語、スペイン語、チベット語などに翻訳されている。2007年にニューヨークに本部を置く人権団体「ヒューマン・ライツ・ ウォッチ」の「ヘルマン/ハミット賞」、ノルウェーの「自由表現賞」、2009年に独立中文筆会の「林昭記念賞」、2010年にアメリカの「勇気あるジャーナリスト賞」などを受賞している。
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