獄中のテンジンリンポチェ、バンリーリンポチェ、ロサンテンジンに捧げる

彼らは私とどういう関係があるのかしらと、よくよく考えさせられます。
三十三年間も拘禁されたパンタンギャツェは(1)
一二歳から投獄されたガワンサンドルは(2)
それに、釈放されたばかりのピンツェニーチュンは(3)
さらに、今もなお獄中に監禁されているロサンテンジンは(4)
私は面識がありません。ほんとうです。写真さえ見たことがありません。

ただネットでは見たことがあります。年老いたラマ僧の前に、
手かせ、足かせ、匕首、性能が異なるいくつかの電気棒。
彼の落ちくぼんで、しわが溝のように深く刻まれた顔から、
若いころのはつらつとした容貌がかいま見えました。
その美しさは俗世間には属さず、幼少期に出家したため、
外見の美は仏陀の精神へと転化していったのでした。

十月の北京郊外、秋風がうら寂しく吹きわたります。
私はラサでダウンロードした伝記を読み、
雪国の衆生が外国の蹄鉄に踏みにじられるのを目の当たりにしました。
パンタンギャツェが低い声で語りました。「私は一生の大部分を、
自分の国に中国人が作った監獄で過ごした」(5)
でも、「寛恕という言葉を知る」という声も聞こえてきます(6)

覆面をつけた悪魔(7)が不定期に正体を表し、
古い神々(8)もかないませんが、
肉体のある一凡人でも勇気を持っています。
深夜の祈祷を真昼の叫び声に変えるとき、
高い壁の下のうめき声を四方に向かって響かせる歌声に変えるとき、
逮捕! 刑罰! 無期懲役! 死刑執行猶予! 死刑!

私はもともと口をつぐんできました。何も知りませんでしたから。
私は生まれると解放軍のラッパの音のなかで成長し、
共産主義の後継者となるように育てられました。
突然、赤旗の下の卵は、打ちこわされました。
中年になり、遅ればせながら怒りが喉を突き破るばかりになりました。
私よりも若い同胞の受難のため、涙があふれて止められませんでした。

(1)原注:チベットの僧侶。一九五九年三月に「ラサ抗暴事件」が起きた後、二八歳であった彼は高僧を密告することを拒否したため投獄され、その後も繰り返し刑期を加えられ、辛酸をなめ尽くした。一九九二年、六〇歳になりようやく釈放された。その後、密かにインドに渡り、ダライ・ラマ一四世の居住するダラムサラで、苦難の一生を口述し、『雪山下的火焔』という伝記として出版される〔次仁夏加記録、廖天琪訳、台湾前衛出版社〕。
(2)原注:チベットの尼僧。一九九〇年、ラサでの街頭抗議デモに参加し、まだ一二歳の彼女は投獄され、チベットで最年少の女性政治犯となり、九カ月後に釈放された。一九九二年にデモ行進に参加し、再び逮捕され、禁固十一年の判決を下された。彼女はタプチェ監獄(チベット第一監獄)に入れられ、他の一三名の尼僧とともに獄中生活を歌にして、密かに運び込まれたレコーダーに録音し、また密かに運び出し、社会を大いに震撼させた。彼女たちは「タプチェの歌う尼さん(タプチェ監獄で歌う尼僧)」と呼ばれた。二〇〇三年、国際社会の強い抗議により、刑期を繰りあげ釈放されたが、既に衰弱していた。
(3)原注:チベットの尼僧。一九八九年、「反革命宣伝煽動罪」により懲役九年の判決を下された。タプチェ監獄で、他の一三名の尼僧とともに自由を求め、ダライ・ラマ一四世を讃える歌を録音したため、さらに八年の刑期を加えられた。二〇〇四年二月二四日、国際社会の強い抗議により、刑期を繰りあげ釈放されたが、既に極めて衰弱していた。彼女は最後に釈放された「タプチェの歌う尼さん」であった。
(4)原注:ラサの人。一九六六年生まれ。逮捕される前はチベット大学チベット文学系二年生。一九八九年三月五日のいわゆる「ラサ騒乱」において、中国の武装警察の殺害を謀ったと告発され、何の証拠も提出されないまま、死刑執行猶予二年とされた。国際社会の抗議により、無期に改められ、さらに十八年とされ、二〇〇四年から十年の服役となった。今は林芝地区波密県の監獄に入れられている。そこは重大な政治犯を専門に投獄する監獄で、二五人の中の一人は発狂し、ロサンタンチュン自身は拷問され、心臓や腎臓がひどく傷つき、腰をまっすぐに伸ばせない。両目も陣発性の失明になり、激しい頭痛に悩まされている。多くの人々は、このような状態では二〇一四年に刑期を終えるまで耐えられるかと心配している。
(5)原注:『雪山下的火焔』第十一章「在廃墟中」より。
(6)ポーランドの Czesiaw Milosz(中国名は米沃什)の詩集『吹弾集』(台湾の杜国清訳)より。
(7)訳注:オーセル氏は中共や入植者を指すと説明。
(8)訳注:オーセル氏はチベット伝統の多くの護法神を指すと説明。

私は重罪とされて獄中にいる二人を知っています。
二人とも活仏で、東部のカムの人です。
ジグメテンジン(9)、アシタシ(10)、あるいはバンリー、テンジントゥルク、
これは彼らの俗名と法名です。
まるで忘れていたパスワードが作動したように、
それほど遠くはないけれど、避けて、しっかりと閉じていたドアが開いたようです。

そうです。最初はラサの郵便局でした。彼は私に電報を書いてくれと頼みました。
彼は笑いながらいいました。「私は中国人の字は書けないのです」
彼は、多くの友人のなかで初めての活仏でした。
チベット暦の新年のとき、私たちはバルコルにある写真館で、
けばけばしい色彩のセットの前で、仲良く写真を撮りました。
また、私は朱哲琴のMTVに連れて行き、優美な「手印」を演じてもらいました(11)

めがねをかけたウ・ツアンの女性が彼の伴侶となりました。
二人は孤児院を開き、路上で物乞いをしていた五〇人の子どもを世話しました。
私も一人の里親になりましたが、憐れと感じてもできることは限られ、やがて突然、思いがけず止めさせられました。
二人は逮捕されましたが、何のためか分かりません。話によると、ある朝、
ポタラ宮広場で雪山獅子の旗(12)が揚げられたことに関わるそうです。
でも、私は認めますが、あまりたくさん知りたくないのです。監獄に面会に行く気にもなりません。

そうです。数年前、ヤルルン川のほとりで、彼はほとばしる流れの中のりんごを見つめていました。
「ごらんなさい。報いがやって来ました」
彼の名は知られていますが、それは痛ましくもあり、私は困惑するばかりでした。
もちろん、彼は高名です。次々に変節し、また沈黙するこの時代において、
村々をめぐり仏法を説き、政府や時弊を直接批判しました。
多くの農民、牧畜民、そして孤児は心の中で「大ラマ」と仰ぎ見ていますが、
しかし、役人には目のかたきにされ、この突き刺さったとげを抜き取らなければ気が休まらないと思われています。
何度も何度も苦心してわなを張りめぐらせ、「九・一一」の後でやっと捕まえることができました。
ご立派な罪状で、「反テロ」の名目を借りて見せしめにしました。
密かにダイナマイトと卑猥なビデオを隠し持ち、五ないし七件の爆破事件を計画したということです。
でも、私は、投獄される半年前に、彼は辛そうに語ったことを憶えています。
「母が病気で死にました。私は母のために引きこもって、一年修行しなければならない」
厳しく誓った仏教徒が、殺生を犯して命を奪う爆破事件に関われるでしょうか?

(9)原注:カム北部の活仏で、法名はバンリー。一九九七年頃、妻のニマチューキンとともにラサで「嘉措児童之家」という孤児院を設立し、五〇名のストリート・チルドレンの世話をした。一九九九年、国家安全に危害を加えるスパイ活動という容疑で逮捕され、それぞれ一五年と一〇年の懲役刑を言い渡された。孤児院も閉鎖され、多くの孤児は身を寄せる家もなく、再びストリート・チルドレンとなり流浪した。
(10)原注:カム南部の活仏で、法名はテンジントゥルク。四川省カンゼ(甘孜)州ニャクチュカ(雅江)県、リタン(理塘)県において人々から「大ラマ」と呼ばれている。彼は農村や牧場に深く入り、仏法を教え、また多くの慈善活動を進め、孤児院を設立し、孤独な老人を助け、道路や橋を改修し、環境保護に取り組み、煙草、酒、賭博を戒め、不殺生を説き、とても敬愛された。しかし、二〇〇二年一二月、「国家分裂を煽動」し、「一連の爆破事件をもたらした」という罪状で死刑判決を下された(執行猶予二年)。この暗黒裁判には多くの疑惑がある。二年にわたり、国際社会、亡命チベット人社会、国内の一部の知識人から、中国政府が法律を遵守し、新たに公正な審理を行うことを求める声が強く出されたが、応じられなかった。この事件では他に多くのチベット人が投獄され、ロプサン・トンドゥプには死刑が執行された。
(11)原注:一九九六年、「阿姐鼓」の歌でデビューした朱哲琴が、ラサで「央金瑪」を歌う音楽番組を収録したとき、一人の僧侶が手の動作を演じたシーンがあった。その僧侶はバンリーリンポチェで、「手印」は仏教用語で、梵語ではムドラーである。「印契」とも称され、修行のときに両手や両指を様々に組み合わせる〔その後、多くが投獄〕。
(12)原注:チベット国旗〔国家分裂に関わる〕。

私はもう一人のラマ僧を知っていて、彼から帰依と瞑想の経文を教えられました。
ある日、セラ寺で、彼の弟子が泣いて訴えました。
彼が修行していたら、突然、警察の車で名の知れたグツァ監獄に連行されたのでした。
理由は、あれこれの政権転覆計画事件の容疑でした。
私は数人の僧侶と駆けつけました。道路は、今のように舗装されていなく、土ぼこりが舞いあがっていました。
炎天下で、銃を持つ兵士の氷のように冷たい顔を目にしただけでした。

突然逮捕されのと同様に、突然釈放されました。証拠不十分だったからです。
「劫」を経て与えられた余生だと感無量で、彼は私に珍しい念珠をくれました。
それは獄中で与えられたマントーと窓の外で燦々と咲いていた黄色い花と親族が差し入れてくれた砂糖をこねて作ったものでした。
一個一個の珠にはびっしりと指紋がついていて、一個一個が体温でぬくもっているようでした。
読経しながら、屈辱の九十数日を過ごしのでした。
一〇八個の念珠よ、一個一個が堅固な石のようです。

私はあるアニ(13)に出会いました。彼女は私の年の半分でした。
彼女はバルコルに沿って歩きながら、叫びました。チベット人によく知られているスローガンを。
私服警察が押し寄せ、口をふさがれました。それは、ある夏の日でした。
その日は、私が二八歳となった誕生日で、私はきれいな服を選んでいました。
また、その時の彼女と同じ一四歳のときは、ただ来年に成都の高校の合格することしか考えていませんでした。
私が書いた作文は、ベトナム人と戦う解放軍に捧げるものでした(14)

七年後、寺院から追われた彼女は、ある親切な商人のところで手伝いをしていました。
背が低い彼女は、強烈な炎天下でも見すぼらしい毛糸の帽子をかぶっていました。
「布の帽子にしたら?」私はプレゼントしようと思いました。
彼女は辞退しました。「頭痛がするので毛糸の帽子がずっといいのです」
「どうして?」そういう答えは初めてなので尋ねました。
「私の頭は獄中で殴られて壊れてしまったのです」

挨拶を交わす仲のルオダンは、人もうらやむ職業と前途でしたが、
夜通し暴飲した後、一人車に乗ってガンデン寺に行きました。
山頂でルンタ(15)を投げるとき、命取りになるスローガンを幾度か叫んだため、
ただちに寺院駐在の警察に逮捕されました。
党書記は「酒を飲み本音を吐いた」と書類を作成し、
一年後、ラサの街頭では前科者の無職がまた一人増えました。

(13)原注:チベット語で、出家して尼僧となった女性。
(14)訳注:一九七九年二月~三月、中国・ベトナム国境で武力衝突が起きた。
(15)原注:チベット語で、仏教のしるしのある紙で、五種類の色を使う。「ルンタ〔風の馬とされる〕」を投げるのは宗教的儀式で、チベット人は経文をしるした五色の紙を天空に投じると、祈祷や念願が四方八方の仏様や菩薩様に見て、聞いてもらえると信じている。

ここまで書いてきて、私はこの詩を告発にはしたくありませんが、
なぜ、拘禁される者のなかで、袈裟をまとう者がそうでない者よりも多いのかと問わずにいられません。
明らかに常識からはずれています。暴力と非暴力の境界線は誰でも知っています。
ですからやはり私たちは羅刹女の骨肉なのです(16)。苦難をラマ僧やアニが引き受けているのです。
代わりに殴られ、投獄され、死に赴いているのです。
担ってください。ラマ僧よ、アニよ。私たちの代わりに担ってください!

誰にも知られず、耐えがたい一分一秒、忍びがたい昼と夜、
どのようにして肉体と精神を錬磨しているのでしょう?
肉体と述べて、私は思わず身震いしました。
痛いことは最も恐ろしい。ただ一度のビンタでも、私は耐えられない。
恥じながら、私は終わることのない刑期を指折り数えます。
チベットの良心は、止むことなく、現実のなかの地獄で脈打ち続けているのです。

コルラ(17)の道の茶館で、つまらないうわさが隅々まで飛びかっています。
コルラの道の茶園で、退職した役人たちが夕方まで楽しそうにマージャンをしています。
コルラの道の居酒屋で、でっぷり太った公務員が毎晩酔っぱらっています。
あぁ、彼らが楽しく堕落するままにしましょう。「昂覚(アジン)」になるよりずっとましです。 「昂覚」というのは「耳」、つまり隠れた密告者です。
「昂覚」とは、なんとピッタリしたあだ名でしょう。なんとラサの人はユーモアがあるのでしょう。

裏切りと密告が、のぞき見とひそひそ話のなかでこっそりと進行しています。
すればするほど、ご褒美もたくさんもらえて、大物になれます。
ある日、町を歩いていると、奇妙な気持ちになって、私は耳をおおいました。
注意せず、気をゆるめたら、他人の手のなかに落ちてしまうのです。
注意しなければ「昂覚」になり、隅々に入りこみ、どんどん鋭くなっていきます。
おとぎ話のなかで子どもの鼻がうそをつくたびに長く伸びるようです。

いったいどれくらい怪しい「耳」が身近にいるのでしょうか?
また、どれくらい「耳」ではないのに「耳」だと誤解されているのでしょうか?
この奇異な人間模様は、アメとムチよりもずっと破壊力を持っています。
こう考えてくると、私は憂い、悲しみ、不本意ながら気づきました:
もう一つのチベットがあるのです。私たちが生活するチベットの裏面に隠されているのです。
このようなわけで、私はもはや抒情詩を書けないのです!

(16)訳注:チベットは羅刹女が寝そべった姿と言われている。
(17)訳注:寺院や聖地などの周りを時計回りに巡礼すること。

でも、私は依然として沈黙しています。これはもはや習慣となったスタイルです。
理由はただ一つ。とても恐いからです。
なぜでしょうか。誰かはっきりと説明できるでしょうか。
実際、みなこうなのです。私には分かります。
「チベット人の恐怖は手で触れるほどだ」と言います(18)
でも、私は「本当の恐怖は既に空気中に溶けこんでいる」と言いましょう。

過去と現在のことに触れると、彼〔リンポチェ〕は突然すすり泣きだし、私は驚きました。
えんじ色の僧衣で彼は顔をおおい、私は思わず笑ってしまいました。
こみ上げる内心の痛みをまぎらわせるためでした。
周りの人たちは私をにらみつけましたが、
彼は僧衣の中から頭をあげ、私と視線を交わしました。
そのかすかな震えから、どれほどの恐怖が伝わってきたことでしょうか。

新華社通信のある記者は、北チベットの牧畜民の子孫で、
中秋節の夜に口から酒の臭いのする党の言葉で私をどなりつけました。
「お前は何様だ? お前があばきたてれば何でも変えられると思っているのか?
おれたちがやっと変えたばかりだというのを知ってるのか? お前は何をしでかそうとしてるんだ?」
私が規則違反したのは確かなことなの? 私は反論しようと思いましたが、彼の口から走狗の凶悪さがさらけ出されていました。
もっとたくさんの人は、もっと重大なことをしでかしたので、粛清されたのでしょうか?

彼女たちが朗唱する軽やかな声が聞こえてくるようです。
「かぐわしい蓮の花は、太陽(19)に照らされ、枯れてしまいました。
チベットの雪山は、太陽の熱で焼けこげてしまいました。
でも、永遠の希望の石は、命をかけて独立を求める私たち青年を守ります」(20)
いや。いや。私は政治の暗い影を決して詩に入れるつもりはありません。
でも、どうしても考えてしまうのです。獄中の十代のアニはなぜ恐れないのでしょう?

書き続けましょう。ただ心に刻むために。上に立って憐れむような道徳感など、
当然、持っていません。一個人が吐露するような私事を書きましょう。
ふるさとを遠く離れ、見知らぬ異民族のなかで永遠に身を置きながら、
ちょっぴりと後ろめたさを抱きながら、安全に、声を低くして話しましょう。
つくづく思うのです。彼(女)たちは私と無関係ではありません!
ただこの詩をもって、ささやかな敬意と、遠くからの想いを表します。

(18)原注:二〇〇二年六月一一日、ドイツの声(Deutche Welle)の報道。「スイスの新チューリッヒ新聞(Neue Zürcher Zeitung)がチベットについて詳しく報道した。……一つの文章はチベットを訪れるための基礎となっている。まずチベットの街頭の風景やチベット人のアイデンティティについて述べ、次に書き方をがらりと変えて『しかし、私たちがチベット人に近づこうとすると、誇らしい山岳民族は臆病な策略家になる。自己否定をしているのではと疑わずにはいられない。……多くのチベット人が恐れている。自分たちの民族のことになると、トラブルに巻き込まれるのだ。……チベットの至るところで中国の国旗が掲げられており、チベット人の恐怖は手で触れるほどだ』
(19)訳注:毛沢東は「紅太陽(赤い太陽)」と崇拝された。
(20)原注:一九九三年、有名なラサのタプチェ監獄で、アワンサンチュ、ベンツェニーチュたち一二名の尼僧の不屈の歌声は、暗黒と暴虐の真相を明らかにし、チベット人の心にしまわれた希望を表明した。これは彼女たちの歌の一つで、外国のラジオで放送された。

二〇〇四年一〇月二一日、初稿
二〇〇四年一一月一〇日、改稿、北京
(『雪域的白』より)