ジョカン寺(大昭寺)を虹が彩る

 一九九六年の真夏のある日、ジョカン寺(大昭寺)はいつものように巡礼者や観光客でにぎわっていました。ニマツェリンもいつものように入口で入場券を販売しながら、いつでも遠くから来た観光客に英語や中国語で解説できるように準備していました。これはニマツェリンの仕事です。他のラマ僧と違い、新聞やテレビでは「ラマ僧ガイド」と呼ばれています。実は、彼はラマ僧ガイドだけでなく、多くの肩書きを持っています。その中で最も特別なものはラサ市人民代表大会常務委員です。そのため、チベット〔自治区が放送範囲〕、あるいはラサ〔市が範囲〕のテレビのニュース番組で、私たちはいつも世俗の服装をしたしかめつらしい顔つきの役人に混じって、えんじ色の僧服をまとった若者が謹厳な様子でいるのを見ます。彼は落ちついて、物わかりがよく、自重したようにしています。
 ある日突然、ニマツェリンは、パスポート用の顔写真を二枚、関係部門に提出するように伝えられました。数日後に、まず北京に行き、そこで政府役人と合流してノルウェーに向かい、人権問題に関する国際会議に参加することも知らされました。
 ノルウェー? ダライ・ラマは、あの国で、一九八九年にノーベル平和賞を授与されたのではないか?
 ニマツェリンは、心密かに胸が高鳴るとともに、不安になりました。写真を渡すとき、彼は何度も何度も諄々と言い聞かされました。でも、その人は、ニマツェリンの顔色が変わったのを見ると、「安心しなさい。君といっしょに行く者はレベルが高くて、我々のような何も分からないラサの役人とは違う」と言いました。

 早速ニマツェリンは首都北京への飛行機に乗りました。当然、ラサでも、北京でも、案内する人がいましたが、彼はどういう人に会って、どんな話をしたのかよく憶えていません。二日後、彼は十数人のメンバーとノルウェーに飛びましたが、途中の記憶はぼんやりとしています。これはニマツェリンにとって最初の国外旅行でした。見ること、聞くこと一つひとつはっきりと憶えるはずですが、しかし、「人権」という文字に比べれば、どのような記憶も重要ではありません。彼にとって、あの会議よりも重要なものがあったでしょうか? お分かりでしょうが、彼は十数人の代表団の中で、ただ一人のチベットから来たチベット人で、ただ一人の僧服を着たラマ僧でした。

 ともあれ、この十数人はやはり違っていました。この自分より年長の役人たちは、やはりラサの役人とは違っていました。それぞれみな知識も教養もあり、余計なことは話さず、あれこれ人のあら探しなどしませんでした。ニマツェリンが今でも記憶していることがあります。民族宗教管理局の要職にある人物が、最も耐えがたくて、涙がこぼれる寸前のとき、そっと「からだの具合が悪いのかね」と尋ねただけで、それ以上は何も言いませんでした。とうとう涙を止められなくなっても、誰もそのことを説明しろとは要求しませんでした。何と言おうとも、これは人の気持ちがよく分かっていたためで、ニマツェリンはとても感謝していました。
 今でも、あの会議について、ニマツェリンは多くを省略して、あまり語りません。例えば、会議のスケジュール、出席者、内容、例えば、会議の背景、様子、雰囲気、そして会議以外のパーティー、議論、観光…などくらい。ところが、突然、ニマツェリンはあの二つのできごとにについて語りだしたのでした。
 まさに突然でした。心の奥底に長く押さえこまれていたことが、とうとうこらえきれなくなったようでした。とりとめのないおしゃべりを突然中断して、長く口にしなかったできごとがどんどん口をついて出てきました。
 初日、午前の会議が終わり、一行は大使館で開かれるランチ・パーティーに向かいました。もちろん、中国大使館です。ニマツェリンは午前中ずっと心配していました。しかし、自分を困らせたり、答えられなくさせる質問は出なかったのでホッとしていました。そして、大使館へ行く途中、窓の外をゆっくりと通り過ぎる優雅な北欧の風景を楽しみ、近くにいた数人の外国人と話しはじめました。ニマツェリンの表情に、いささかラサのジョカン寺で外国人の観光客を案内するような顔つきが戻りだしました。
 その時、バスが急停車し、ドアがバタンと開き、人声が雷鳴のように飛び込んできました。耳をふさぐことも間に合いませんでした。
 あの声、エエーッ? あの声だ、こんなにたくさんも!
 ニマツェリンはドシンと不意打ちされたように、頭の中で「轟音」が鳴り響き、知覚が麻痺して、身動きできなくなりました。
 「ギャミ(チベット語で漢人を指す)……」
 「ギャミラマ……」
 「共産党ラマ……」
 大使館の門前には、何十人もの憤激した顔が見えました。ニマツェリンがよく知っている顔つきでした。数十もの唇が叫んでいる言葉も、ニマツェリンはよく知っていました。その数十人はニマツェリンと同世代で、しかも血のつながりのある同胞でした。
 ただ異なる点は、彼らは海外に亡命したチベット人で、ニマツェリン一人だけ、中国国内で「解放」されたチベット人であることでした。その時、ダライ・ラマのノーベル平和賞授与式が行われたオスロで、中国大使館の門前で、彼らとニマツェリンはそれぞれ明白に異なる陣営を代表していました。
 彼らはスローガンを高く掲げていました。それにはチベット語、英語、中国語で「中国人、我が故郷を返せ」などとと書かれていました。
 一行の他の者は、魚のようにどんどんすり抜けていきました。相手にせず、無視して通り過ぎました。しかし、ニマツェリンはできませんでした。どうしてできるでしょうか? その後、彼はどのようにそこを通り過ぎたのか、どうしても思い出せませんでした。それは、彼の三二年の人生のなかで最も長くて、最も苦痛に満ちた道でした。
 チベット式の僧服は烈火のように燃えあがり、火焔はチベット人である自分の体と心を焼きつくし、その上さらに油が注がれているようでした。あの軽蔑したまなざしは、灼熱して飛び散るバター油のようでした〔チベットではバターを様々なかたちで供える〕。ニマツェリンは頭を低く下げ、背をかがめ、よろよろと歩きました。両足は飛び散ったバター油でひどい火傷をしたようでした。
 ここまで話すと、ニマツェリンの声は尖った感じになりました。「どうしたらいいだろう。どうしたらいいだろう。ぼくが身にまとっている……」
 彼は陽光の下で鮮やかな色彩を放っているえんじ色の僧服を引っぱりながら、独り言を繰り返していました。
 それから、ニマツェリンは思い出しながら「あれから私はもう何も楽しめなくなった。四日間ずっと、私は熱い鍋の上のアリのような気持ちを味わっていた」と語りました。
 本物のアリの方がよかったかもしれません。たとえ小さなアリでも、鍋が熱くなってきたからどうしたらよいかと考えて、思い切って、勇気をふりしぼって飛び出し、遙か遠くに逃げ去ることができます。しかし、恐るべきは、至るところ熱い鍋だらけで、身を隠すべき涼しい場所がどこにもないということです。
 ようやくニマツェリンはじりじりと焼かれるような道を通過しましたが、全身大やけどを負いました。全身に深く烙印を押されました。烙印の痛みで泣き叫びたいのですが、涙は枯れていました。大使館のスタッフは何事もなかったかのようにけろりとしていました。あるいは、十分に見ていながら、知らないふりをしていたのかもしれません。誰も、先ほどの光景について口にしませんでした。みな、別の話をしていて、礼儀正しく語りあい、礼儀正しく食べていました。その中で、彼一人だけ魚の骨が刺さって何も喉に通らないようでした。ニマツェリンは初めての異国の地で、とても多くの血族、同胞、あるいは「亡命チベット人」に出会い、とても接近しましたが、あたかも関所や山で隔てられているようでした。
 ニマツェリンと言葉を交わした人は少なくありませんでしたが、話題は明らかにとりとめもなく、痛みも痒みもないもので、どれも耳を素通りして、すっかり忘れてしまいました。彼はまさに心が突き刺されて、魂が抜け出てしまったような状態でした。それでも、はっきりと憶えていることがあります。バスの中である外国人が同情のまなざしで見つめていたことと、いっしょに北京から来た役人がそっと「からだの具合が悪いのかね」と尋ねてくれたことです。ニマツェリンはちょっとうなずいただけでした。あの人は温和で礼節をわきまえていますが、民族や宗教において国家の代弁者となっているため、「人権」をテーマにした会議ではいつも非難の矢面に立たされています。
 数日来の心配がなくなったと思ったら、再び沸きあがってきたのです。これはラサを離れる前から絶えず出てきて、取り除けることができません。今は心がえぐり出されるように痛みます。もしドアを出たら、彼らと出会い、さげすまれ、皮肉を言われ、あるいは憐れまれるでしょう。
 彼らは心の中で「お前はおしまいだ」と思っている。確かに、私は「ギャミラマ」、「共産党ラマ」だ。ニマツェリンは苦笑いしました。
 このようなわけで、彼は心が乱れ、小心翼々と注意しながら、思い切って大使館から出ました。何もなくほっと胸をなでおろしましたが、また残念な気持ちも起きました。あのあたりには数十人の憤激した同胞がいたけれど、今はがらんとしていて、一体どこへ行ったのだろうか?
 二日目は無事でした。
 三日目、ニマツェリンは会議で発言しました。これこそ、彼が参加させられた目的でした。彼は身をもって、チベットには人権があり、チベット人の人権は保障されていると証明しなければなりませんでした。それまでの国際会議では、チベットの人権に話題が及ぶとき、中国政府の説明はいつも弱腰になりました。それはチベット自身の声ではなかったからです。しかし、これこそニマツェリンの悩みでしたが、誰に分かってもらえるでしょうか? どのように話すか、何を話すか、何を話すべきか、何を話してはいけないか? 本当に悩み苦しむことがらです。自分が身にまとっているえんじ色の僧服はただの飾りにすぎないと、彼は前々からよく分かっていました。しかし、余りにも枠からはずれ、常軌を逸することもできません。彼は密かに信頼できる外国人に尋ねてみたところ、彼は「具体的には言わず、あいまいにすませなさい」と教えてくれました。
 ニマツェリンは会議で書かれたとおりに読みあげました。正確に言えば、新聞、ラジオ、テレビで伝えられていることをそのまま繰り返しました。それは、中国のマスメディアの一本のわだちから出た言葉で、チベット民族の文化は最大限に保護されて発展し、宗教や信仰は自由で、多くの僧侶は祖国を愛し、宗教を愛しているなどなどです。会場ではみな黙々と聞いていましたが、一人だけ質問しました。アメリカ人で、英語で質問しました。
 「そうであるならば、あななたちにはダライ・ラマに会う自由はありますか?」
 ニマツェリンは少しポカンとしました。このような質問に対処するように心の準備はしていて、既に覚悟していましたが、ダライ・ラマの名前が出て、初日にここはダライ・ラマがノーベル平和賞を授与されたところだと教えられたときと同じように、ポカンとしてしまいました。しかし、ニマツェリンはすぐに落ち着きを取り戻し、賢明に回答しました。
 「これは政治問題ですから、答えられません。」
 「政治問題ですか? 一人のチベット人、一人のラマ僧が、自分たちのダライ・ラマに会うのが政治問題ですか?」
 しかし、その後に続いて質問する者はいなく、まるでみな彼の境遇、彼の気持ちが分かっているようでした。ニマツェリンは、そのように思いました。
 こうして、第四日目がやって来ました。ニマツェリンは、これで耐えがたい日程が終わると考えていて、この四日目に最大の打撃が降りかかるとは想像さえしていませんでした。 スケジュールの最後の日ということで、ノルウェーの有名な国立公園の観光が組まれていました。ノルウェーの公園は本当に美しく、自然と調和した魅力にあふれ、世界の屋根で生まれ育ったニマツェリンは心からうれしくなり、あたりを見渡していました。
 ところが、突然、若い女性がまっすぐニマツェリンの向かって進んできました。Tシャツとジーンズで、周りの外国人と変わらない姿でしたが、ニマツェリンにはすぐ分かりました。チベット人です。典型的なチベット人の顔つき、チベット人の雰囲気、チベット人の気質が伝わってきました。
 典型的なチベット人女性がどんどんニマツェリンに向かって近づき、両手を伸ばして、久しぶりに再会したような表情を見せました。
 一瞬、ニマツェリンもどこかで会った旧知の間柄のような気がして、思わず手を伸ばして女性の手を握りました。すると、思いも寄らないことが起きました。その女性はニマツェリンの手をしっかり握って放さず、大声で泣き崩れたのです。
 「グシュ(ラサの方言で、僧侶の敬称)。ここで何をなされているのですか? このような中国人と一緒に何をされているのですか? 自分がチベット人だということを思い出してください。彼らと一緒にいないでください。……」
 ニマツェリンは困り、焦りました。とても辛いけれど、手をふりほどくこともできず、また何を言ったらいいのかも分かりませんでした。人々が取り囲みました。みな外国人でした。えんじ色の僧服を着た僧侶が、女性を泣かせているのですから、好奇の目で見られて当然です。いっしょに会議に出ていた人たちは誰もいなく、逆にさっと離れてしまいました。自分とは無関係のようにしていましたが、これも一種の思いやりかもしれません。ただ一人、大使館の付けた人だけ違っていました。彼はこの四日間ずっとニマツェリンに付いていました。ただニマツェリン一人に付いていました。その時、彼は口を開きました。
 「行こう。ニマツェリン。相手にするな。」
 チベットの女性はまちがいなく中国語は分かりませんでしたが、その意味を理解することはでき、英語で言い返そうとしたので、ニマツェリンはあわてて止めました。そして、繰り返し泣いている女性に言いました。
 「分かった。分かった。分かった。」
 チベット女性は、むせび泣きながら言いました。
 「本当にお分かりなら、帰らないでください。」
 この時、ニマツェリンはやっとの思いで内心をうち明けました。
 「帰らないわけにはいかないんだ。あそこは私たちの故郷だ。みんな出てしまったら、土地は誰のものになるんだ?。」
 こう話しているうちに、彼は耐えきれなくなり、涙があふれ出てきました。
 最終的にこの窮状を打開してくれたのは、――チベットからノルウェーに留学していた数人のチベット人でした。ラサでは社会科学院、チベット大学、図書館などの「単位」に所属し、定期的にノルウェーに留学や訪問で派遣されていた人たちでした。ニマツェリンは彼らを知りませんでしたが、みなチベットから来たチベット人だと分かりました。しかし、今でも分からないことは、あの日、どうして様々な立場のチベット人があれほどたくさんあそこに集まっていたのかということです。しかし、あの時は考える余裕がありませんでした。彼は大急ぎで泣いているチベット女性の手から抜け出し、僧服で涙をふきながら飛ぶようにして一行のところに戻りました。
 「グシュ」と、窮状を打開してくれた人たちの中の一人が、好意的に一つの考えを言いました。「もし、彼らがどうしたのかと聞いたら、彼女の親族が亡くなったので、ラサに帰ったらジョカン寺で親族のために灯明をあげ、読経してくださいと頼まれたと言えばいいです。」
 ニマツェリンは慌ただしくうなずきましたが、再び心が突き刺されるように感じました。ところが、まるで事前に相談したかのように、ニマツェリンが戻っても、十数人のなかの一人として彼を見もせず、一言も聞きませんでした。まるで何も起きなかったか、あるいは、話すに値しないものであるかのようでした。
 とうとうノルウェーを離れる時が来ました。しかし、すぐに離陸できず、代表団一行は空港で長時間待たされました。二時間余りでした。大使館の指導部やスタッフは空港まで見送って帰りました。四日間ずっとニマツェリンから少しも離れなかった者も帰りました。広くて、明るくて、快適な空港で、人々は座ったり、立ったり、歩いたりして十分に自由を満喫していました。どの国の市民も同じでした。ニマツェリンも自由に行ったり来たりして、誰にも束縛されず、行きたいところはどこにでも行けるようでした。ほんの一瞬、彼の頭に、突然、一つの考えが浮かびました。
 「もしも、彼らについて帰らなければ? それにパスポートは持っているし、お金も十分ある。別の航空券を購入し、別のところに行ったら?」
 言うまでもなく、これはほんの一瞬ひらめいたことでした。先述したように、ニマツェリンは総じて落ちついて、物わかりがよく、自重した人です。ですから、最終的に、彼は熱い鍋のアリのように、一行について帰国しました。どこから来て、どこに帰るのかということでは、彼の場合、これが最善の選択でした。
 飛行機がオスロ空港を離陸し、ゆっくりと上昇していきます。次第に自由を象徴する国から離れていくなかで、二筋の熱い涙がニマツェリンの痩せた頬を静かに滑り落ちました。

二〇〇〇年八月 ラサ
オーセル『名為西蔵的詩』大塊出版社、二〇〇六年より