茶館

 ラサの大通りから狭い路地まで、どれほど茶館があるでしょうか。数えようにも、数えきれません。ラサの隅々まで茶館が見え隠れしているようです。ツァイツィ(載追)*1、サルジュ(革命)、ガンジョン(崗瓊)*2、ルゥツォン(魯倉)*3などの有名な老舗には、毎日、老いも若きも集まってきます。早朝、ゾンジャオルカン*4で、剣を持って舞ったり、太極拳をしたり、ナンコルをコルラしてから、ジャンガーモ〔チベット風ミルクティー〕を飲み、トゥクパ〔チベット風うどん〕やバレ〔チベット風パン〕を食べるという退職幹部が集まる店もあります。リンコルをコルラする途中で一休みしてジャンガーモをおいしく味わうという庶民が集まる店もあります。「単位」の幹部や職員が集まる店もあります。まるで彼らの仕事場は茶館で、腰をおろしたら半日以上も立ち上がりません。
 ラサの外のカム地方から来る商売人やシガツェを中心とするツァン地方やアムド地方から来る巡礼者が集まる店もあります。「三・一四事件」の前は、どの茶館も巡礼者や僧侶でいっぱいで、空席を見つけるのは大変です。そして、どの茶館でも女性や子どもの物乞いが織機の梭のように行き交い、小銭をもらえるうえに、おなかもいっぱいにできます。
 どの茶館でも、様々なうわさが生まれ、そして伝わります。言うまでもなく、どの茶館にも「耳」と「目」〔監視者や密告者〕が潜んでいるそうです。誰でも「限度を超える」話をしたら、その場で肩をたたかれて連行されるか、あるいは、次に姿を見せることはなくなってしまいます。このようなうわさが、ひそひそと耳打ちされて、次から次へと伝わります。真に迫っているようですが、誰も自分の目で見たことはないようです。
 年配の知人が、声を低めて私に言いました。「ある退職した幹部が、茶館で感情を込めてダライ・ラマ一四世の近況を紹介したら、ある人からとても礼儀正しく誘われた。ジャンガーモは甘いでしょうから、これからコーヒーを飲みに行きましょうと。これは苦しみを味会わせるという意味だよ。コーヒーは苦いから」
 北京で「お茶を飲む」のが流行っていますが*5、ラサでは「コーヒーを飲む」に変わっています。総じて言えば、これらのうわさはどれも奇異で、人々を驚かせるものです。ラサはデマが狂ったように流行っている町で、茶館は民間口述文学が伝播する場であり、庶民の日常生活の一部であるとともに、報酬付きの秘密レポートに書かれるものにあふれています。
 私は茶館の壁にチベット語と中国語の二種類の文字で書かれた告示を確かに見ました。
 「デマをでっちあげ、デマを広げる違法行為は、断固取り締まる」
 それでは、どのようにして「断固取り締まる」のでしょうか。ある安くておいしい涼粉〔チベット式のところてんに似た辛い食べ物〕の店の、太ったおかみさんは「デマを広げた」ため、チベット暦の土鼠年〔二〇〇八年~二〇〇九年〕に連行されました。聞くところでは、おかみさんはテレビに出され、身をもって、どのように「デマを広げた」のか告白させられたそうです。おそらく、おかみさんは一つか二つ口から出まかせを話しただけなのに、不幸にも涼粉をおいしそうに食べるお客さんに密告されたのでしょう。地位は低く、言葉に重みもないため、やがて釈放され、今でも常連客でにぎわっている涼粉店を開き続けています。でも、おかみさんは少なくない保釈金を支払わされたと思います。お金を渡さなければ、出られるわけがありません。私は、その名声を慕って、おかみさんの店に食べに行ったことがあります。もちろん、何か聞ける可能性などまったくありません。たとえ、お客が私一人でも、また安い小さな店でも、高価なカメラが密かに設置されているかもしれません。そういうわけで、音も声もたてずに、涼粉を一杯、二杯いただくだけにしました。確かに、これはラサで一番おいしい涼粉だと約束できます。そして、ヒリヒリした激辛の物語もあります。アァ。おかみさんの表情には悲哀や恐怖が浮かんでいました。
 ある日、「ルゥツォン(ひつじ小屋)」に入ると、後ろの方のガラス張りの個室で、ある「単位」に勤める男性と女性が輪になっているのがチラッと見えました。私が後ろを振り向いたの見て、その人たちは一瞬シーンと静まりかえりました。その中に映画翻訳製作所の吹き替え俳優がいるのが分かりました。誰もがよく知っているスターでした。彼も笑顔で私に挨拶しながら、低い美声で輪になっている人たちに紹介してくれたそうです。みなはようやくホッとして、おしゃべりを続けました。そのうちに、ある中年男性が人に気づかれないようにこっそりと魔法瓶を持ってきてくれて、そっとジャンガーモを入れてくれました*6。その方の顔はもう忘れてしまいました。
 昔、ジャンガーモの値段は一杯二角でしたが、今は五角です。カップも小さくなったようです。客が多いため、店員さんはとても忙しく、一杯ずつ入れてられないので、魔法瓶で売るのが流行っています。一パイント(イギリスの重量単位)から八パイントまで、大小の魔法瓶が並べられています。三パイントのジャンガーモは三元から七元に値上がりしました。私は母や妹といっしょにラサ・ホテル(ラサの最高級ホテル)の向こう側の茶館に行きます。普通の茶館ですが、味は正真正銘で、お客さんでにぎわっています。持ち込みのネパール産コーヒーを少し入れるとさらに香ばしくなります。私はいつも飲みながら値段をメモします。
 自宅でジャンガーモをいれる場合、こだわる人はよく煮込んだインド紅茶に新鮮な牛乳をマッチさせます。地元の農家の乳牛からしぼった新鮮な牛乳が一番ですが、ふつうはスーパーで買い求めます。「伊利」や「蒙牛」という銘柄の牛乳は、一箱あたりの値段で、内地よりも数元高いです。運賃がかかっていると言われましたが、どうも一定の価格に移入の税金が加えられているようです。
 粉ミルクを使う人もいます。経済的に恵まれない人はトムセーカンの日用雑貨市場に廉価な粉ミルクを買いに行きます。どの茶館でも、そこの粉ミルクを卸しの価格で買ってきて使っているのかもしれません。このような粉ミルクはテレビや新聞の広告では見られず、また北京や成都など大都市のスーパーでも見られません。たいてい製造元は陝西、甘粛、青海にあり、安価で、けばけばしく包装されています。
 有機化合物メラミンが混入された三鹿の粉ミルクを飲んだ数十万人の乳児が「結石ベビー」*7になってしまいました。このメラミン事件が明らかになった後、二、三〇種類の粉ミルクが「毒ミルク」で、他のブランド乳製品にも問題があることが発覚しました。ある日、私は「ツァイツィ(ごちゃ混ぜ)」で、巨大な湯気が立ちのぼっている厨房を見学させてもらいました。廉価な粉ミルクの袋が小山のように積み重ねられていました。それは空っぽの袋で、半日分の量でした。毎日どれほどたくさんの粉ミルクがジャンガーモに使われているのか、想像できません。その結果は、どういうことになるのでしょうか。私はラサの友人と話しあいました。
 「ねえ、ラサで腎臓結石を患っている人はどれくらいいるかしら。」
 「たくさんいるわ。私の弟は今年かかったわ。」
 「よく茶館に通っていたの?」
 「毎日よ。」
 「真剣に調べるべきだわ。」
 「そんな勇気のある人なんているはずないわよ。真相は、ほんとうに恐いものかもしれないわ。」

(1)原註:チベット語で「ごちゃ混ぜ」。
(2)原註:チベット語で「雪国」。
(3)原註:チベット語で「ひつじ小屋」。
(4)訳注:ポタラ宮の裏に位置する公園。その中には一六世紀にダライ・ラマ六世が創建した龍神殿がある。
(5)原註:中国独特の言い方で、国内の安全部門が政見の異なる人に対して「お茶を飲もう」と言って嫌がらせや脅しを示す。それはシンボルにまでなっており、「お茶を飲ませられた人」が記録したサイトまである。
(6)訳注:以上の対応はオーセルさんが「危険人物」とされているが、密かに支持されていることを示している。
(7)訳注:二〇〇八年、北京オリンピックの開幕を前にして、中国最大の粉ミルクメーカーの三鹿集団の粉ミルクへのメラミン混入が発覚した。多くの乳児が腎臓結石に罹患し、その被害状況が発表され、関係者が処罰されたが、被害者家族の代表が投獄されるなど(その後釈放)、疑惑や批判は多い。
 

突然、至るところに現れた「銃」の広告

 「三・一四事件」以後、チベットに触れる際に最も頻繁に使われる言葉は「打砸搶焼〔暴力・破壊・略奪・放火〕」です*8。北京をはじめとして中国各地のすべての官製メディアは絶えず、この寺院から、あの寺院からと、次々に一定量の「銃と弾薬」を発見し、押収したと発表しながら、常にチベット人しか発声できない「カッヘイヘイ*9」を流しています。「喉舌〔代弁者〕」となったジャーナリズムは、チベット人を「妖怪変化」にするために、遊牧民の生活習慣である発声方法を誇張して、大狼の吠え声に変えてしまいました。チベット人が「テロリスト」であるという動かぬ証拠にされてしまったのです。チャムド地区のカムの男性が、三年の有罪判決を受けた理由は、みんなの前で「カッヘイヘイ」と大声で叫んだことでした。
 そしてあたかも、ある晩に春風が到来したかのように、ウ・ツアン地方、アムド地方、カム地方*10で突然たくさんの小さな広告が出現しました。その内容は、何と本物の銃と弾薬を販売するというものでした。全国各地から銃の商売人がチベットに入り、貼ったそうです。「小さな広告」とは、まさに中国の特色の一つです。街頭や町々の至るところで、ほとんどの公共的な空間、利用できるすべての空間には、様々な小さな紙切れが貼られているのを目にします。雑多で奇々怪々な情報が印刷されています。貸部屋、商品販売をはじめとして、最も多いのは偽の証明書〔身分証明書、卒業証書、戸籍簿、在職証明書など〕や領収書の作成です。病院のトイレの中まで、「代用」の領収書や経費の精算で使える証明書をつくるなどの「小さな広告」が貼られています。甚だしくは政府側のサイトでさえ、このような内容がよく更新されます。なんと不思議な国なのでしょう!
 チベット各地で「大狼のような吠え声」を出す「テロリスト」が現れたというプロパガンダを信じて、今こそ、大量の銃や弾薬の需要がある願ってもないビジネス・チャンスだと、もうけ話に敏感な商売人が天のように高い青蔵高原にどれほど多く入ったことでしょうか。彼らは千里万里の遠さをものともせず、旅の苦労に耐え、頭痛、動悸息切れ、呼吸困難などの高山病もなんのそのと、神速の勢いで、当局が対処する間もなく押し寄せ、天地を覆い隠すほど大量の「小さな広告」を貼りつけまわりました。こうして「あらゆる場所にテロリストが存在する」という状況に対して、武器を供給できるという情報が提供されたのです。ほんとうに狂気じみたことです!
 この荒唐無稽のような話は、私がアムドを通過するとき、冗談が苦手な友人から聞いたものです。彼は、きまじめに補いました。
 「見なさい。やっぱり市場経済の威力はすごいでしょう。」
 私は北京オリンピックを前に、全国で聖火リレーが行われたとき〔二〇〇八年三月〕、「愛国憤青*11」が怒り狂うようなことが起きたことを思い出しました。広東省の工場から「チベット独立」の旗、つまり「雪山獅子旗」が見つかったのでした。広東のすべての工場なら、全世界の需要をまかなえるでしょう。それでも、いったい誰が注文したのでしょうか? ダラムサラからパリ、ロンドン、ニューヨークまで、幾千幾万の人々が高く掲げた「雪山獅子旗」は、広東の工場でどれくらい生産されたのでしょうか。
 「銃の広告」は、チベットの現状を風刺するためにつくられた虚構の笑い話だと、最初は思いました。ところが、北京オリンピックのとき、私はラサに帰ったとたんに、この笑い話は事実だと、自分の目で確認しました。自宅の向こう側にある、チベットに出稼ぎに来た者への貸部屋に使われている古い「チベット式建築」の壁に、一行、黒々となぐり書きされた「13579293739媚薬・銃」という文字が特に目立っていました。その壁は、既に繰り返し貼られては、はがされてきたようでした。私は家に入るのを止めて、大急ぎでカメラを出して証拠写真を撮りました。私がこれをじっと見ていると、さらに驚いたことに、この公然と武器を販売する「小さな広告」の近くに、なんとパトカーが停車していたのです。平素から孫悟空のように邪悪を見抜く眼力を持つ「警察官同志」に、私のような近視でさえ見える、この危険な広告が見えないはずはありません。
 その後、私は「国保*12」に連行され、八時間も訊問されてから釈放され、「国保」の車で家に送還されました。車の中で、私は太ったワン・デュ支隊長にわざと「銃」の「小さな広告」の話をしましたが、鼻であしらわれてしまいました。
 「そんなでっちあげなどするな。何か下心があるのか。」
 ラサに遅い闇夜が訪れる前に、私は家の向こう側の壁に書かれた人目を引く「媚薬・銃」の広告を指さして、真剣に注意をうながしました。
 「警察は手がかりを探って、取り締まるべきです。この携帯電話の番号にかけて、こんなに公然と媚薬や銃を売る者を捕まえなければいけません。私たちのチベットがようやく手に入れた安定状態を破壊する気です。」
 「国保」はハッと驚いた顔になり、言いました。
 「ワッハッハ。お前が検挙の手柄を立てるとは、思いもよらなかったな。」
 もちろん、中国語で書かれているのですから、チベット人だけを目当てに売ろうとしているわけではないでしょう。もしかしたら「新世界をつくり出すためにラサに入った」漢人にも売る可能性があります。彼ら自身が「次々に現れては尽きないチベット独立分子」に対して十分に軍事的な準備をするためです。
 他にも、広告をつくる者はチベット語ができず、また誰でも中国語が読めるにちがいないと思いこんでいるためかもしれません。
 しかし、すぐにこう考えるようになりました。もしかしたら、銃の商売人ではなく、特殊な任務を負う者が貼ったのかもしれません。チベット全土にテロの雰囲気を醸成し、チベット人以外の人が、チベット人は左手で媚薬、右手で銃を持つ「テロリスト」に近いというイメージをつくり出すという目的です。ああ、そうです。もしかしたら、ワン・デュ支隊の隊員たちがやったのかもしれません。「魚を釣る」のが主な目的でしょうが、他にもあるかもしれません。そうでなければ、なぜハッと驚いたのでしょうか。
 そう言えば、まさにちょうどその頃、漢人女性のツーリストがシャングリラを旅行していたとき、ブログで恐ろしいほど銃の広告を目にした体験を書いていました。チベットの「銃の広告」は、まるで北京の「東南アジア証明書類団体」や深センの「探偵」の広告のように、堂々と連絡先の電話番号も書いてあると。
 私はそこにいる友人の瀟瀟(シャオシャオ)に頼み、この驚くべき広告の写真を撮ってもらいました。彼の撮った構図がおもしろいです。人を怖がらせる「銃の広告」のそばに、暖かそうな「火鍋〔中国風の寄せ鍋〕」のお店があります。火鍋を囲むグルメの中に「人民警察」の後ろ姿も見えます。「人民警察」は「銃の広告」とご縁があるでしょうが、あるいは、意識的にか、無意識的にか、感覚が麻痺して、至るところにある「銃の広告」や「媚薬の広告」など目にしても見えなくなっているのかもしれません。

(8)訳注:四月一日、新華社は「ダライ集団が操る『チベット民衆大蜂起』の内幕」として「三月十四日、ラサで不法分子が暴力・破壊・略奪・放火という深刻な暴力犯罪活動を行った」と報道した。
(9)原注:チベット固有の鋭くて長い口笛。チベット人は放牧のときに使う。
(10)訳注:チベットは伝統的に三つの地方に大別され、ウ・ツァンの信仰、カムの男、アムドの馬と称される。
(11)訳注:「憤青」は「憤怒青年」の略で過激な若い愛国主義者を指す。
(12)原注:公安機関で、「国家保衛」の警察の略称〔地区の公安局に配置され、異議を申し立てる者、NGO、直訴(上訪)者、法輪功信者などを取り締まる〕。
 

「私たちのクンドゥン*13様がお帰りになられたのですか?」

 「三・一四事件」の後、当局は「十分な証拠から、これはダライ集団が組織し、計画し、綿密に画策した暴乱である」と述べました。そのため、すべての宣伝機関が「証拠を示す」ために動員させられました。チベット・テレビは「重要な喉舌」として「チベット人民の心の声を」を取材するために各地に赴きました。
 記者たちは、ある村で幸せな生活を送る農民を撮影しようとしました。村長はふだんからとても従順でおとなしいアチャラ(お姉さんの敬称)を呼んできました。カメラのレンズが向けられ、準備万端整いました。
 「三・一四事件の主な原因は何だと思いますか?」
 こう記者が質問すると、アチャラは、このようなものものしい場面は初めてなので、とても緊張しましたが、村長からこれは政治的任務なので、必ずしっかりと完遂しなければならないと言い聞かされ、しかたなく、とても恐る恐る、やっとのことで口ごもりながら「えー、あー、もしかしたら、『打?搶焼〔暴力・破壊・略奪・放火〕』さんという人がやったのかもしれません」と言いました。
 記者たちはがっかりして、気を失いそうになりました。それに、僻地で条件が悪く、食事や宿泊も大変なので、撮影チームは早く仕事をおしまいして、町に戻りたくてたまりませんでした。そのため、時間とエネルギーを省こうと、アチャラにヒントを与えることにして、単刀直入に「ダライがやった」と助言しました。
 今度はアチャラが気を失う寸前になりました。そっと喜びの声をあげながら合掌し、敬虔な面もちで聞き返したのです。
 「おお、それはそれは。クンチョクスム*14よ。私たちのクンドゥン様がお帰りになられたのですか?」

(13)訳注:ダライ・ラマの尊称の一つ。敬虔な心で呼びかければ尊者が目の前に現れるという意味が込められており、敬愛や親愛の情を込めて使われる。
(14)仏法僧の三宝に誓ってという祈念の言葉。
 

パスポートを取得できない私でも、ダライ・ラマ尊者にお会いできました

 七年前の私のエッセイ集『西蔵筆記』の中に一枚の集合写真があります。それには悄然としてラサを離れ、ダラムサラにたどりついたチベット人の父と子が写っています。そして、「表情や態度は謙虚で、礼儀正しく端の方に控えていましたが、人々から中央に押し出された方、この方こそ、すべての敬虔なチベット人が最も熟知し、最も親しみ、最も渇望するお方―ダライ・ラマです」と書かれています。この記述、および、現実に触れた数編の文章について、当局は「重大な政治的錯誤」があると見なしました。そして、私は公職を解雇され、すぐにラサを離れました。
 さらに、それ以前、もう一六年も過ぎましたが、私は自作の詩に、深い思いを込めて、このように書きました。
 「私は俗世では生長しない花を抱く/枯れ萎む前に急ごう/熱い涙をまぶたにあふれつつ、急いで行こう/ただ一人のえんじ色の老人に捧げるために/一縷のほほえみが、世々代々を/一つに結ぶ」
 その後、私はこの中の詩句を書きかえて、直截「えんじ色の僧服をまとった老人」と題して、「私たちのイシノルブ〔宝物、ダライ・ラマを指す〕、私たちのクンドゥン、私たちのゴンサチュ〔偉大な法王様、ダライ・ラマを指す〕、私たちのギャワ・リンポチェ〔ダライ・ラマの尊称〕」としました。
 まことに、私は多くのチベット人と同じように、ギャワ・リンポチェにお会いして、説教を拝聴し、加持祈祷を受けることを渇望しました。これは心の底からの願望で、実現できるその日を、青年時代からひたすら待ち望んできました。でも、私はパスポートを入手できません。多くのチベット人と同様に、私たちを統制する政権がパスポートを下賜する可能性は永遠になさそうです。これは本来的に公民が享受するのが当然の基本的な権利なのに!
 去年、ラサでは六〇歳以上にはパスポートが発給されるという話が乱れ飛びました。ただし、申請期間は一週間だけとされたため、パスポートを発給する部署には、ごま塩の頭や足が不自由な老人たちがぎっしりとつめかけました。実は、老人たちが目指すところは、ヒマラヤ山麓の向こう側にいる親族を訪ねたり、仏教の聖地を詣でるためだけではなく、口には出せませんが、私たち誰もが切望しているあのためだということが明らかでした。
 そのとき、私は悲しい思いをしていました。六〇歳になってようやくパスポートを入手できるけれど、それまでずっと待ち続けることができるだろうか……。
 ところが、何とインターネットが、パスポートを手に入れられない私に旅券不要の旅をプレゼントしてくれたのです。新年になり、私の夢はかなえられました。――インターネットを通して、まるで夢を見ているようですが、それでいて確かに現実感を覚えながら、私はダライ・ラマ尊者にお会いできました!
 それはインターネット・テレビ電話による対話でした。二〇一一年一月四日、尊者はインド領のダラムサラにおられ、中国側にいる二人の人権問題に取り組む弁護士の勝彪、江天勇、そして作家の王力雄とネット・テレビ電話で語りあわれました。私は、その時、王力雄の後ろに貼りつくようにして、一言一言に耳を傾けていました。ダライ・ラマ尊者がテレビ画面に登場されたときは、とても信じられなくて、涙が目からあふれ出ました。
 デジタル革命がもたらした奇跡は、このような方法により地理的人為的な垣根を乗り越えさせ、半世紀にわたって亡命しているダライ・ラマ尊者と中国知識人との間にコミュニケーションを実現させました。この意義は疑いもなく重大です。
 「お互いの息づかいが聞こえないこと以外は、一緒にいるのと同じですね。」
 私は、尊者が三人の漢族知識人に向かって、こう話されたのを聞きました。
 七〇分余りの語りあいが終わってから、尊者は気づかうように、こう問いかけられました。
 「そちらはよく見えましたか?」
 三人ともよく見えていると答えると、尊者はユーモラスに自分の眉を指さしながら、「それでは私の白い眉が見えたでしょうか?」とおっしゃいました。
 私は涙があふれるばかりでした。チベット人のやり方で頭を三度床につけ、祈祷の言葉を口ずさみながら、両手でカタ*15を捧げ持ち、パソコンの前でひざまづきました。涙目のぼんやりした視界のなかで、尊者がはるばると両手を伸ばしてカタを受けいれ、さらに、私に加持祈祷をしてくださったかのように見えました。言葉では言い表せない深い感動を覚えました……。
 私はほんとうに幸せでした。チベットの地では、たくさんのチベット人がダライ・ラマ尊者の写真を一枚所持していただけでひどい目にあいかねないのですから。
 実際のところ、現在では中国各界の多くの人士が尊者と面会していますが、それが原因で自由を失うことはありません。ですから、この国で公民として等しいならば、チベット人が尊者に拝謁して、それで有罪とされるのは不法というべきです。
 ダライ・ラマ尊者は、ネット・テレビ電話の中で私の向かい諄々と教え導いてくださいました。
 「決して投げだしてはいけません。努力し続けてください。漢人の知識人と我々チベット人の知識人との間では、どのような時でもお互いに真実の状況を伝えあい、お互いに意志疎通し、理解しあうことがとても重要です。過去六十年以来、我々の中の多くのチベット人が堅持してきた勇気と敬虔さは山の如く確固としています。チベットの真実は国際社会の注目するところとなり、チベットには真理があると世界各地で察知されています。視野を広げれば、強大な中国もやはり変化しています。ですから、あなたたちは“必ず”と信じなさい。さらに頑張りましょう。しっかりと自覚しましょう。」
 こうして、私は次第に落ち着きを取り戻し、尊者のお言葉を心に刻みました。

(15)訳注:敬意を表すための薄いスカーフ状の白い絹布。

二〇一一年一月五日