高耀潔医師、ニューヨークのアパートにてはじめに

「私はよく考えました。私の最善の死に方として求めるのは、中国へ飛んでいる飛行機の中です」
 二〇一〇年一〇月一六日、一九二七年生まれで八四歳の高耀潔女史は、自由アジア放送(本部ワシントンDC)のジャーナリストの北明に穏やかに語った。アメリカでは死にたくないが、しかし中国で死にたくもないという意味で、高女史の切ない思いが吐露されている。
 それでは、なぜこのようになったのか? これについて、高女史の『高潔的霊魂―高耀潔回憶録』(増訂版、明報出版社、香港、二〇一〇年)と、私が今年一月から毎日交わしてきた電子メールに基づいて述べていく。
 高耀潔女史は女医として血液ビジネス(血漿経済)の利権による深刻なエイズ被害の調査や救済に取り組むが、構造的な問題に迫ったため迫害された。実際、河南省衛生局長は大規模感染の責任を問われるどころか、中央に抜擢された。その理由として「血漿経済」が財政に貢献したことが評価されことが考えられ、まさにエイズ禍は国家体制の中枢に及ぶ構造的な人災と言える。
 他方、高医師は厳しい監視下に置かれた。しかし、彼女は八二歳にもかかわらず逃れて出国し、タイ経由で渡米し、事実上の亡命者となった。
 そして、二〇〇九年十二月一日の世界エイズ・デーに、ワシントンで、高医師は初めて公式の場(記者クラブ)に姿を現した。記者会見の臨んだ高医師は、真相を明らかにし、人類社会の教訓として残したいなどと語った。やはり米国に脱出した王樹萍医師や一万人以上のエイズ孤児を救済してきた香港の財団「持恒基金会」の会長・杜聡氏も記者会見に同席し、証言した。杜会長は「エイズ村(大規模な集団感染地域)」を訪れとき、当局に強制連行されて罰金を科せられたという。
 その後、高医師は、アメリカ議会などで証言し、中国のエイズ禍の根源は「血漿経済」の利権にあり、衛生当局の高官が深く関与し、構造的な汚職に結びついているため、政府は真相を隠していると訴えた。

プロフィール

 高耀潔医師は一九二七年一二月一九日に山東省に生まれ、一九三一年九月一八日に抗日戦争(日中戦争)が起きると、河南省に移った。幼い頃は活発で腕白だったため、男の子のようではだめだと、五歳から纏足にされた。足が痛くて眠れないほどで、歩こうとしても、両足を同時に地面につけることはできず、這って前に進んだ。こうして外に出ることが減り、家か、村の塾で『三字経』、『千字文』、『論語』などを習い、儒教的教養を身につけた。五年余りの間、塾には人に背負われて通った。
 十一歳のとき、開封に引っ越し、他の女児はみな纏足をしていないため、纏足を解かれた。足に巻きつけられた細長い布を取り去ると、水ぶくれができて歩けなくなった。徐々に歩けるようになったが、二一センチしかない小さな足で、歩き方がみっともないとあざけられ、いじめられた。
 それでも彼女は女医を目指して勉学に励み、一九五四年に河南大学医学部を卒業した(専門は婦人腫瘤)。
 一九九〇年七月に河南中医学院を退職し、穏やか余生を送ればいいという年齢になったが、ある日、病院から難病の診療を依頼された。この時、高医師は初めてエイズ患者を診た。それ以来、高齢にもかかわらず、高医師はエイズ禍を見過ごすことができず、全力で取り組むようになる。高医師はインタビューなどでエイズ禍への取り組みの開始を質問されると、一九九六年四月七日からと答える。この日は最初に診療した女性患者の命日である。
 しかし、これから述べるように高医師の活動は様々に妨害された。これに対して、彼女は粘り強く対処し、その功績が次第に認められるようになり、一九九九年に中国教育部より「次の世代に貢献した先進的個人」として顕彰された。ところが、問題の根本的な解決のために、その核心に迫らざるを得なくなり、さらに強い圧力を受けるようになった。そして、先述したように亡命を余儀なくされた。
 高医師の著書には、エイズ(中国語で愛慈、艾滋)問題関連に『性伝播疾病蔓延与防治』(河南人民出版社、一九九三年)、『愛慈病与性病的防治』(河南科学技術出版社、一九九六年)、『鮮為人知的故事―愛慈病、性病防治大衆読本―』(中原農民出版社、二〇〇三年)、『一万封信―我所見聞的愛慈病、性病患者生存現状―』(中国社会科学出版社、二〇〇四年)、『中国愛慈病調査』(広西師範大学出版社、二〇〇五年)、『中国愛慈病禍』(香港天地出版社、二〇〇八年)、『高潔的霊魂―高耀潔回憶録―』(香港明報出版社、二〇〇八年)、『血災―一〇〇〇〇封信―』(香港開放出版社、二〇〇九年)、『掲開中国艾滋疫情真面目』(台湾博大出版社、二〇一〇年)があり、他に産婦人科や母子保健の著書もある。
 その中の『一万封信―我所見聞的愛慈病、性病患者生存現状―』は発禁処分は逃れたが、内容が大幅に削除され、また宣伝もなく、ほとんど知られずに消えたが、改めて香港で『血災―一〇〇〇〇封信―』として削除もなく出版できた。
 なお、二〇〇四年に閻連科が北京から伝記を書きたいと訪れたが、高医師は私の伝記よりエイズ禍について書いた方がいいと勧め、閻連科は一カ月ほどエイズ村に泊まり込み書きあげた(日本語版は『丁庄の夢―中国エイズ村奇談―』)。これは中国で初めてエイズ禍を取りあげた出版となった(前掲『高潔的霊魂―高耀潔回憶録』「前言」参照)。

売血所で列をなす農民大規模なエイズ集団感染の続発(エイズ禍)

 一九八〇年代末から、中国では血液売買のビジネス、「血漿経済」が盛んになった。それが、天安門事件以降、政府が経済成長を加速させて、事件をカモフラージュしようとする政策により、さらに強まった。また、経済成長に伴い、格差が広がり、貧しい農村では多くの農民が簡単な現金収入として売血に走った。腐敗官僚は環境保護、緑化、「計画生育」などを理由に様々な税を課しで徴収したために、農民は現金収入のために売血しなければならなかった。
 中国では、それ以前から闇の売血が横行しており、血液売買のブローカーは、密航ブローカーに倣い「血頭」と称されていた。そして、この取締りが不十分なところに血液売買ビジネスが台頭した。
 まず県の防疫所や母子保健院に売血所(血液収集センター)が設けられた。さらに、売血所は村の物資購入販売部門、炭鉱、工場などにも広がり、政治協商会議や人民代表大会まで売血所をつくるところもあった。こうして、短期間で二三〇以上の「合法」的売血所ができ、さらに無数の私営や闇(違法)の売血所が族生した。一回に五〇〇ミリリットル採血し、売血者に四〇~五〇元を支払い、集められた血漿は製薬会社に売られた。
 売血所は不衛生で設備も不十分だった。小型トラクターの上に遠心分離機が一つ置かれ、繰り返し再使用するゴムチューブと針しかないというところもあった。血液ビジネスは血漿しか必要としないので、遠心分離機で赤血球を分離すれば、売血者に返した(単成分採血)。そして、単成分採血の後の残りを戻すときに、エイズに感染する者が多かった。そのほとんどが青壮年であった。
 売血所では「採血はいいことが多い、単成分採血は全部の採血よりいいことが多い」、「血は井戸水と同じで、何杯汲んでも減らない」、「たくさん採血すると高血圧にならない」などと宣伝された。売血所のある防疫所や母子保健院だけでなく、病院などにも「献血は光栄、人命を救う」などスローガンが掲げられた。さらに、村々には宣伝カーが走り、売血を呼びかけた。
 このように腐敗官僚と貧困とプロパガンダに駆られ、多くの農民にとって売血が生活の手段になるまでに至った。売血のために町までヒッチハイクする農民が道端に大勢立ち、売血所では押しあいへしあいしながら長蛇の列をなして採血の順番を待つような光景が至る所で見られた。これは、村に出向く私営や闇の売血所でも同様であった。
 その上、売血があれば輸血があるため、輸血による感染も引き起こされた。特に児童の感染では、生理的に性的能力はなく、麻薬の可能性もなく、両親はエイズに感染していなく、ただ輸血歴があるという例がある。これは明確に判定できる感染例であり、当然、他の患者でも可能性は大いに考えられる。
 このようにして、大規模なエイズ集団感染が続発し、「エイズ村」と呼ばれる村落が数多く現出した。確かに、エイズ禍は、その規模と深刻さを覆い隠せず、また高医師たち努力を続けたため少しずつ知られるようになった。しかし、隠蔽された問題は多く数えきれないと思われる。ここで述べたことはまさに氷山の一角である。

ヒラリー・クリントン氏と高耀潔医師エイズ禍への取り組みと評価

 高耀潔医師は一九九〇年代半ばから、地元の河南省で売血によりエイズ・ウィルス(HIV)の感染が急速に拡大していた実態を個人で調べ始めた。身長一五〇センチの小柄なからだ、纏足の後遺症がある小さな足で河南、河北、山西、山東など一五の省で、エイズが蔓延した村を百以上も回り、千人以上の感染者や患者を調査し、また当局に陳情するとともに、診療や予防に努め、自己資金を投じてエイズ予防などのチラシを配布し、孤児や感染児童を救援するなど人道的な救済活動を進めてきた。この間に彼女が受けとった手紙は一万通を超えた。
 そして、高医師は、政府が容認、奨励する“合法的”な売血所、貧しい農民の窮状が改善されるという“血漿経済”のプロパガンダ、血液を安価で手に入れる製薬会社、それと結びついた官僚という構造が、組織的な腐敗汚職と深く関わっていることを告発するようになった。しかし、それでも事態は改善されなかった。そのため、この構造的な人災とも言える深刻なエイズ禍を国際社会に告発した。こうして、高医師は内外で注目されるようになった。
 二〇〇一年には、Global Health Councilより「ジョナサン・マン世界健康人権賞」を授与されたが、パスポートが発行されず、授賞式に参加できなかった。
 二〇〇二年には『タイムズ』誌では「アジアの英雄」に選ばれた。また、同年、アメリカの『ビジネス・ウィーク 』誌では二五人の「アジアの星」の一人に選ばれ、人民大会堂での式典で表彰された。
 二〇〇三年には、フィリピン政府のマグサイサイ賞(Ramon Magsaysay Award )の社会奉仕(Public Service)部門で授賞され、名誉市民の称号も授与された。また、『南方週末』誌は二〇〇三年度を代表する人物の候補者に選んだ。
 そして、このような国際的評価を無視できず、国内でも二〇〇四年には、CCTVの十人の「感動中国」の一人に選ばれ、また『南方人物週刊』誌より「中国で影響力のある公共知識人五〇人」の一人に選ばれた。なお、一一月には「内藤寿七郎国際育児賞」(アップリカ・チルドレンズプロダクツ、本社大阪)を受賞した。
 さらに、二〇〇五年には、『一万封信―我所見聞的愛慈病、性病患者生存現状―』が、『新京報』と『南方都市報』共催の「二〇〇四年図書大賞」を受賞した。
 しかし、二〇〇七年一月、アメリカを拠点とする国際的女性人権NGO「生命の声(Vital Voices Global Partnership)の「世界リーダーシップ賞」を受賞し、三月の授賞式が近づくにつれ、出席を止めさせようとする圧力が強まった。これに対して「生命の声」名誉会長のヒラリー・クリントンが胡錦濤主席に訴え、高医師はようやく渡米でき、授賞式に出席した。しかし圧力はその後さらに強まった。
 この二〇〇七年には、三八九八〇号惑星が「高耀潔」と名づけられ、九月に、蒋彦永医師とともにニューヨーク・アカデミーの「科学者人権賞」や中国民主教育基金会から「中国で傑出した民主人士賞」を受賞したが、それでも圧力は強まる一方であった。このため、ついに高医師は亡命せざるを得なくなった(後述)。

中国当局の対応

 中央の党と政府は、中国におけるエイズ感染の経路は性感染のみであると強調し、同時に情報を統制し事実を知らせなかった。それは愚民政策であり、その結果、感染者や患者や家族が差別され、侮辱され、見捨てられ、さらに自責の念に苛まれるようになり、無実の者へ不当な苦しみが加重された。その上、治療費が出ていくだけで一向に治らず、財産を失った親は子供がどうなるのか心配と絶望のなかで死を待つだけになった。
 ところが、地方の党と政府は、「政績(政治的業績)」や面子を重視しイメージ・ダウンを恐れ、問題を隠蔽し、実態解明や責任追及を抑え込もうとした。しかし、高医師はあくまでも実態を解明しようとした。こうして、彼女は血液ビジネスと、それに癒着した腐敗官僚にとって容認できない存在となった。金品や栄誉などによる買収や懐柔が失敗したあと、脅迫、監視、盗聴、電話回線の切断、軟禁、親族への恫喝など迫害が強められ、出国もできなくなった。

民衆の反応

 統制・管理の手段は、科学技術やシステムの発展に伴い次々に新たに開発され、より精密になり、末端に及ぶようになった。そして、当局はその下で実態を解明しようとせず、プロパガンダで説得しようとするため、民衆は原因を考えずに、ただ恐怖に怯えるだけになった。その中で、救援しようとする高医師たちに対して、当局の言われるままに監視し、村に入れないようにするという荒唐無稽な事態さえ現れた。村々には、高医師を見つけて報告したら五〇〇元の懸賞金を出すという告知まで張り出され、至る所に見張りが配置された。
 高医師は、医師として当然、偽薬の販売やエイズを治せる「神医」という偽医者なども追及してきた。偽の薬は格段に安いが、効能などないばかりか、ひどい場合は有害物質を含み、病状を悪化させるものさえあった。その中には「高耀潔先生ご推奨」など高医師の名前を勝手に悪用する者までいた。
このように苦しむ人々から金をだまし取る者まで現れる背景には、愚民政策の所産である無知と貧困の悪循環があり、それがまた人心の荒廃をもたらした。
 こうして人心の荒廃が広がる中で、慈善をかたる詐欺や、救援活動で配布した医薬品の横流しなどまで現れるようになった。そのため高医師たちは医薬品を患者に直接手渡すようにしたが、それでも奪われてしまうことがあった。甚だしい場合は、親族が来て持ち去り、売り払ってしまった。
 このような状況において、当局や売血ビジネスだけでなく、偽医者や偽薬売りたちも、高医師たちを追い払おうとした。まさに、上からの統制と下の追従、そしてさらに下の詐取や収奪という構造を見ると、「改革開放」が提唱されながら、王朝・帝国時代の「東洋的専制」の性格は変わっていないと言える(*1)
(*1)石井知彰『K・A・ウィットフォーゲルの東洋社会論』社会評論社、二〇〇八年参照。

強まる弾圧

 高医師に対して、監視カメラ、盗聴、ネットの監視、制服・私服の警官、パトカーなどが日常生活の常態となった。彼女は重点監視の対象とされ、あたかも「巨大な黒いネットワークがおおいかぶさってきた」という。特に二〇〇七年の春節(旧正月)を前にした半月は「不法な軟禁という、この残酷で不条理なドタバタ劇のクライマックスでした」と述べる。これは、先述した「生命の声」の「世界リーダーシップ賞」受賞後であった。
 高医師は妨害を乗り越えて授賞式に出席できるようになったが、その時「河南省当局は『高耀潔はアメリカに行って、もう帰らない』というデマを流した」。これは国外追放に近いいやがらせであるが、しかし、実際には高医師は帰国した。そして、帰国後も監視やいやがらせは続いた。彼女は、次のように述べている。
 「四月八日、私は上海浦東国際空港で飛行機から降りました。二番目の弟が迎えに来てくれ、私たちはある友人の家に泊まりました。当局はほんとうに情報に敏感で、この友人の家にすぐ電話がかかってきました。『高耀潔はそこに泊まっているか?』と。
 四月中旬、私は鄭州の自宅に帰る前に、開封にいる一番下の弟の家を訪れました。ところが、私の一挙手一投足が緻密に監視されていました。これらすべてが、私の帰国が暗い影を落としていました。帰宅するまでの間、私はずっとアメリカへの旅がもたらす様々な悪い結果について想像し、最悪の結末に対する準備を整えました」

亡命の決意

 高医師への弾圧が強まるにつれて、ある者は好意から、また別な者は悪意から、彼女の先行きについて様々に推測してきた。しかし、高医師は一貫して亡命という選択を拒絶していた。彼女は、二千年あまり前に汨羅のほとりで嘆き悲しみ入水自殺した屈原に思いをはせ、追放や亡命は、処刑や監禁と同様に、古今東西、暴政の暗黒時代における聖賢や君子の逃れることができない運命だと感じていた。
 しかし、まさに「鳥は飛び回っても故郷に返り、狐は自分の穴のある山を枕にして死ぬ」(『礼記』檀弓・上)とあるように、高医師の故郷への思いはとても強かった。それは、第一に孤独な死は想像もできない恐ろしいことであり、第二に、医師としての責務、使命を放棄できなかったからである。高医師は「病人に奉仕する医師の職責を最後まで全うしたい」と述べている。
 このような高医師でも、状況は悪化するばかりであった。そして、「道、行われず。桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん」(『論語』公治長篇)と孔子でさえ述べたことを想い、もはや「道」はまったく閉ざされたと判断し、自分の声を発することができる自由の地を求めて中国を離れるようと決心した。
 二〇〇九年五月六日、厳しい監視下で、入れ歯を持ち出すことも、亡くなった夫の遺影に別れの挨拶をすることもできず、ただ長年調査してまとめたポータブル・ハードディスクだけを持って逃れた。まず、北京に身を隠し、それから四川、広東など各地を転々とした。
 そして、六月半ば、成都市の環境保護活動家で、『文化人』元編集長の譚作人が四川大地震で犠牲となった子供たちや「おから工事(手抜き工事)」の調査をしていたとき、国家政権転覆煽動容疑罪の容疑で拘束されたことを知り、高医師は強烈な衝撃を受けた(*2)。それは二人とも調査により問題の真相を究明し、弱者のために道義を回復しようとしたからである。しかも、高医師の調査は、譚作人の調査よりも時間、空間、関係者、影響などにおいて規模が遙かに大きかった。従って、家に戻った場合、河南省当局が加える圧力は譚作人よりも強く、厳しく、残酷になり、その結果は一層悲惨になるにちがいないと、高医師は考えた。
 もちろん、高医師は前々から命を奪われるという最悪のケースまで覚悟していた。しかし、闇から闇に葬られてしまえば、貴重な資料も無になり、極悪非道の権力犯罪の証拠も消えてしまう。そのため、調査結果を公表できるところまで何としても逃れようと想いをさらに強くした。それは、エイズ禍の真相を明らかにし、被害の拡大を防ぐとともに、人類社会の教訓としたいからであった。
 また、高医師は、譚作人の境遇を知ったとき、後輩の友人である胡佳を思い出した。彼は子供のように無垢で天真爛漫な青年で、妻の曽金燕とともにエイズの調査、予防、救援に全力で取り組んだ。高医師が極めて困難な状況にあったときには、勇気をもってしっかりと援助した。二〇〇七年、高医師が軟禁状態に置かれたとき、やはり軟禁状態にあった胡佳がメールやブログで広く訴え、その努力で国際社会が注目し、抗議が高まり、最終的に軟禁が解かれ、出国でき、「世界リーダーシップ賞」の授賞式に出席できた(*3)。
 このような絆から、高医師は、胡・曽夫妻を息子や娘のように見ていた。ところが、胡佳は投獄され、劣悪な獄中で病におかされ、また、妻は厳しい監視下で子供を育てながら苦難の日々を送っており、高医師は悲憤を覚えた。
 胡・曽夫妻だけでなく、高医師とともにエイズの調査、予防、救援に携わった者はみなブラックリストにのせられ、監視や尾行など厳しい状況に置かれている。「重災区」として隔離された村に潜入し、「中原紀事(*4)」というドキュメンタリー・フィルムを制作し、観た者を強く感動させた艾暁明教授は、絶えず私服警官から嫌がらせや脅しを受け、大学では授業などすべて取り消され、出国の権利が奪われた。

(*2)譚作人は翌二〇一〇年二月九日に懲役五年の判決を下された。
(*3)胡佳は二〇〇七年一二月二七日に国家政権転覆煽動罪で逮捕された。
(*4)「中原」は黄河の中流から下流の地域を指し、「中原に覇を唱える」というように、古くから重要なところであった。現在の河南省の大部分、山東省西部・南部、河北省の南部に当たる。

亡命

 二〇〇九年八月七日、高医師は密かに中国を脱出し、飛行機を三回乗り継ぎ、八日に目的地に到着した。彼女は幼い頃から四書五経を熟読し、八〇歳を過ぎても多くの章句や詩篇を暗唱できる。飛行機の中では命より大切なエイズ禍の資料を入力したポータブル・ハードディスクを抱えながら、「詩経国風」の名作「碩鼠(でっかい鼠)」を繰り返し暗唱していた。

碩鼠碩鼠 無食我黍 語韻
 でっかい鼠よでっかい鼠よ おいらの黍を食うのはやめてくれ
三歳貫女 莫我肯顧 遇韻
 三年お前に貢いだけれど おいらをかまう気などないんだな
逝将去女 適彼楽土 廬韻
 もうお前とはおさらばだ あの楽土に行くんだ
楽土楽土 奚得我所 語韻
 楽土楽土 そこでおいらは暮らすのさ

 高医師は暗唱を繰り返すにつれて、すすり泣きはじめ、最後は涙が顔中にあふれたという。様々な想いが交錯して言葉にならず、ただ涙を流すしかなかった。しかも心の中で繰り返す詩では「楽土」というが、自分の行き先は「楽土」かどうかまったく見当がつかなかった。
 その時を思い起こし、高医師は「私はただの医者で、長年中国を覆ってきた醜悪な政治はとても嫌ですが、政治には全く興味はありませんでしたが、結局は政治のために亡命しなければならなくなりました」、「私はきっと中国の最高齢の亡命者でしょう。……このような未曾有の記録は、自ら進んで作りたくはありませんでした」と述べている。
 それでも、少なくともアメリカは思想の自由、言論の自由があり、そして、これだけで十分であった。そこで彼女は十数年ものあいだ困難と危険を乗り越えて得た史上空前のエイズ禍の真相をまとめて出版し、公表しようと再び努力しはじめた。瀕死の患者たちの悲哀、孤児たちの慟哭、社会の最下層から発する義憤を、国際社会に伝えるのである。そして、この惨禍を歴史に記録するだけでなく、いつか必ず法廷に立ち証言するつもりであった。たとえこれがかなわず、異国に骨を埋めることになっても、決して後悔などしない。残されたわずかな日々でも、良知と道義を求め続けようと改めて決意した。
 からだはアメリカにあり、「エイズ村」からはるか遠く離れていても、その絆はかたく結ばれている。議会で証言するとき、高医師はエイズ患者の手作りの服を着て発言したのであった。

高医師との交流

 二〇一一年の春節の前、私は北明の紹介で高耀潔医師と電子メールで交流を始めた。北明は亡命作家の鄭義の妻で、私は夫妻と二〇〇〇年から親交を結んできた。
 北明は紹介するとき、孤独と郷愁のなかにいる高医師を励ましてねと頼んだ。こうして、大阪とニューヨークの一二時間の時差を考慮し、「お早うございます」という言葉でメールを送り始めた。
 八四歳という高齢の亡命者は、極めて稀だろう。頼まれるまでもなく、私は何かしたいと思ったが、どうしたらよいか悩んだ。非力な私にできることは、ただ手軽でおいしい日本の食品や使い捨ての貼るカイロ(大好評)などを送るぐらいしか考えつかなかった。これらは、他の亡命者に送って、とても喜ばれていた。
 私は、二〇〇九年に亡命先のパリで亡くなった林希翎(一九三五生。本名は程海果)を思い起こした。彼女は、私が送った和菓子を「見てはきれいで、食べたら上品な味よ」と絶賛してくれた。
 このような経験があるので、日本のおそばや手打ちうどんなどを送ったのだが、高医師は「涙があふれました。とてもおいしい。でも、若い頃に胃がほとんど切除され、肝臓にも病があり、高血圧で心臓病もある者にとって、ともすると吐いてしまう。そして、食べ物よりもっと大切なことがある」と諭された。
 高医師はまた「先日、知人にパンをいただき、クリームパンだと知らないで食べたら三日もおなかをこわしてしまいました。このようなからだで幾ばくもない余命をなお繋いでいるのは、患者、感染者、子供たちが暗黒の深淵の中で懸命にもがいているのに、見殺しにはできないからです」とも述べた。彼女は、十数年も貪欲な利権、世間の冷淡な無関心、人心の麻痺に直面してきた。さらに、胡佳はじめ協力して活動してきた者はみな弾圧で口を封じられ、エイズ禍の真相を広く知らせられるのは、自分しかいないことを知っている。だからこそ、老いや病にもかかわらず、エイズ禍への取り組みを第一にしているのである。
 この思いに応えようと、私は公表されたもの以外に、もっと知りたいと彼女に伝えた。すると、詩人でもある高医師から詩や詞がたくさん送られてきた。その表題から、内容は次のように分類できる。
一、常に理解し、支えてくれた亡き夫の回想(二〇〇六年逝去)。
二、反右派闘争、大躍進政策、文化大革命などの政治闘争で批判された体験。特に文革では「牛鬼蛇神」として批判闘争にかけられ、「労働改造」を強いられ、自殺未遂にまで追い込まれた(「労働改造」は三年とされたが、夫が奔走し一一ヶ月に減刑され、その後、名誉回復)。
三、党幹部、高級官僚の腐敗汚職、マスメディアの虚飾、庶民からの苛酷な搾取への義憤。
四、エイズ禍の告発と犠牲者への哀悼

 ここでは、第四に注目し、その表題を紹介すると、「血漿経済は災いの根源」、「彼は亡くなった。やりきれない」、「朱進忠、お疲れさま」、「幼い子が輸血で命を落とした」、「誰の罪か」、「偽薬、偽薬、偽薬」、「偽薬販売の詐欺師」、「貪欲」、「冷酷な虫けら」などなどがある。それらは、エイズ禍の真相究明が阻まれ、告発者は金品や昇進などの飴と、脅迫、軟禁、投獄などの鞭でコントロールされ、偽の「太平と繁栄(太平盛世)」が作り出されている状況を弾劾している。
 「朱進忠、お疲れさま」で述べられている朱進忠は、河南省柘城県双廟村のエイズ感染者で、二〇〇二年に村に「関愛之家」という孤児院を開設した。山東省からボランティアの教師が来て、五〇数名の子供を教えるなどの活動をして、CCTV等のマスメディアで報道されたが、当局により強制的に閉鎖された。
 二〇〇四年、高耀潔医師と香港の杜聡(前出)、上海復旦大学の高燕寧教授が支援しに孤児院を訪れたとき、朱進忠は外出していた。他方、高医師たちは村人の見張りに拘束された(五〇〇元の懸賞金がかけられていた)。そして、郷の当局がワゴン車でやって来たため、高医師たちは仕方なく会えずに帰った。その後、朱進忠は二〇〇五年に亡くなった。

詩による告発

 高医師の平易で分かりやすいが、深刻で厳しい現実が凝縮されている。ここでは一篇を訳出する。

誰の罪か
 一九八〇年代、国の扉が開いた
 世界の文明を迎えたと同時に、エイズ禍も迎えた
 エイズは中国の特産でもないのに、なぜ?
 全土に速やかに蔓延した
 その勢いは、敷物を広げるようだった
 なぜ? 中国のどまん中の河南に根を張り、花開いたのか?
 そこでは、エイズの生存と繁殖の環境が整っていたから
 根深い社会問題があるから

血の災い!
 次々に心を痛める訴訟事件が起きる
 売血による伝染か、輸血による感染にちがいない
 「血漿ビジネス」が中原を掃討する!
 豫東、豫南の県にはほとんど空白地域がない(*5)
 血を売る者が長蛇の列をなし、中には一日三回、十年間で千回も売った者さえいる
 覚えているか? どれだけ稼いだか?
 三つの新しい部屋、四人の子ども
 それでも、「計画生育」に反した罰金で借金が残る(*6)
 売血で貧しい困窮から脱出できると、みんな思っていた

貪欲と腐敗!
 汚職と腐敗の後ろ盾がなければ
 闇の売血所が、どうしてこれだけ農村で横行するのか?
 エイズ禍がどうしてこれほど大規模に広がったのか?
 罪深い汚職役人が、まっ赤に染まった銭を貪る
 貧しく苦しい売血者が死の深淵へと向かう
 今日に至っても
 この罪悪の根源は明らかになっていない
 エイズは山を倒し、海を覆すような勢いで押しよせ
 こっそりと消え去って行き
 ふたがしっかりとかぶせられた。言うまでもない
 エイズ禍の真の元凶と血液感染はタブーとされ
 同性愛の感染経路のみ強調される

愚昧!
 愚弄されるのは、いつも弱者
 娘が何人いても、男の子を産まなければいけない
 子どもを食べさせなければ、「計画生育」違反の罰金を払わなければ
 貧困が産まれ、苦難が重なる
 無知の道のり
 エイズ禍の感染の原因は性感染だけにされる
 ふしだらな病気で、接触だけで感染すると思われ
 家族さえ近づかない
 エイズ予防の宣伝が足りない

悲惨!
 この世のものとは思われない悲惨! 家族全員が死亡!
 二歳の幼児が、梁に縄をかけて首を吊った母親の足首をつかみ泣いている
 「降りてよ。おなかがすいた。ご飯」(*7)
 瓜の畑で、女性の死体がさらされている
 布団をかける力さえ失われていた

 大みそか、家々では団欒
 まもなく世を去る息子が
 無言でわが子を白髪の老母に託した

 みな去って逝ったが、遠く離れてはいない
 みなから搾り取ったまっ赤な血が、新たな感染を誘発する
 誰の罪か? 誰が償うべきか?
 貧困? 愚昧? それとも別の原因?
 ただの氷山の一角。私はこの目で見た
 エイズ予防と孤児救援の仕事は
 今まさに緊急課題で、その道のりは、はるかに遠い。はるかに遠い。

 これを読み、私は水俣病を告発する歌詞を思い起こした。文学の領域で、水俣病は、武田泰淳『鶴のドン・キホーテ』(一九五七年発表。全集第六巻、増補版、筑摩書房、一九七八年所収)や水上勉『海の牙』(一九六〇年発表。『別冊文藝春秋』一九五九年一二月号掲載「不知火海沿岸」を大幅に加筆して改題。全集第二三巻、中央公論社、一九七七年所収)で取りあげられた。そして、石牟礼道子の『苦海浄土―わが水俣病―』(一九六九年発表。全集第二巻、第三巻、藤原書店、二〇〇四年所収)により、より広範に水俣病が知られるようになった。
 この『苦海浄土―わが水俣病―』から抜粋した詩に作曲した歌もある。海援隊の「水俣の青い空」(第三章「ゆき女きき書」より。アルバム「漂泊浪漫・心をこめて回天篇」所収)や上条恒彦の「花あかり」(宮崎駿を中心とした企画制作によるCDアルバム『お母さんの写真』に収録) は、いずれも聴く者に強く訴えるものである。それぞれの歌詞は全て引用したいほどで、曲に合わせて聴くとき心が大きく動かされる。
 なお、後者のCDに付いている宮崎の手書きの「メモ」には「私達の生活の根っ子は砕け、日々ゆらぎながら日を送っているのですが、ねむっている私達の中の何かを目覚めさせ、引き出してくれるメロディーや詞があるのだと思っています」と書かれている。『風の谷のナウシカ』(一九八二年~九四年のコミックと一九八四年のアニメ映画)を創作した宮崎ならではの「メモ」である。また、やはりCDに付いている歌詞を収録した冊子になかで糸井重里は「こうして、このアルバムは生まれた」を寄せて、「さんざん山越え谷越えしてきた」、「さんざん修羅場をくぐってきたおとなたちが」、この『お母さんの写真』を制作したと述べている。多くの想念が込められていることがうかがえる。そして、これらは中国のエイズ禍を考える一つの参考になる。

(*5)「豫」は河南省の別称で、「県」は行政単位(日本より行政レベルは低い)。
(*6)一人っ子政策に違反して、子どもを二人以上生むと罰金などで処罰される。
(*7)一六歳の若い夫婦が二人とも感染し、夫が死に、周囲に見放された妻が後追い自殺した。その後、幼児も見放され、一カ月後に死亡した。

息子や娘への思い

 高医師は亡命が子供たちに悪影響を及ぼすことをとても心配していた。息子の郭鋤非は一九五五年生まれで、高医師が「牛鬼蛇神」として批判闘争にかけられたときは中学生だった。一九六八年一一月、一四歳で中学二年生の彼は、トイレなどで「反動漫画」や「反動標語」を書いたとして、残酷な体罰や「車輪戦」という相手が次々に代わり際限なく続く訊問を受け、最後は「現行反革命」の罪状で三年の実刑を下された(出獄した時は一九歳)。
 そして、二〇〇七年、先述したように高医師の授賞式出席のための渡航を、当局は様々な手段で阻止しようとした。その中で、郭鋤非を連れてきて、高医師の前でひざまずかせ、泣きながら「お母さん、他人のことなどほっといて、息子のことを思ってくれよ」などと長時間懇願させ、「年老いて、病気もあり、授賞式には出席できない」と書かせようとした。彼女は息子への思いに心を痛めながら、鄭州を脱出して渡航し、出席した。
 また、娘の郭炎光は河南職工医院皮膚科の医師であったが、連座で一九九八年から二〇〇〇年まで職を失った。その経緯は次のようであった。一九九七年、病院が皮膚科の診療を福建省から来た資格のない「渡りの医師」に請け負わせ、ただ年間の請け負い代金を受けとっただけの「丸投げ」にした。しかも、その実態は詐欺で、患者の弱みにつけ込んで治療費をだまし取った「医師」は莫大な私財を蓄え、患者の病状は悪化した。郭炎光は義憤からこの実態を病院に告発し、マスメディアも報道したが、これにより病院から逆恨みを買うことになった。
 ちょうどその時、高医師は地元当局と「売血」ビジネスによるエイズ禍の深刻な実態を示すデータを中央当局に提出した。ちょうどその時、一九九八年に郭炎光は転勤することになっていたが、何の説明もなく、突然転勤先に受けいれられなくなった。そして、職を失い、二〇〇〇年にカナダに移住せざるを得なくなった。
 亡命後、娘から親子関係を絶縁するという手紙が届けられた。それは母を非難し、孤独で寂しい死を迎えなさいという内容だった。
 高医師は、胸が針で刺されるような痛みに襲われた。同時に、これは建国以来六〇年以上も中国大陸で「階級的に路線においてはっきりと一線を画す」、「大義、親を滅す」、「矛を返して一撃を加える」などを混ぜ合わせた古くさい茶番劇の再演だとも感じた。中国で暮らしたことのある者なら、誰でもよく知っていることである。意図的に家庭内の問題につけ入り、悪用し、追いつめ、洗脳の効果を高めるという陰険で悪辣な方法は、いつでも、どこでも使われてきた。こうして権力に追従し、利益に誘導され、社会全体の精神状態が悪化し、人心が荒廃するのである。

遺言の公表

 高医師は、死後、息子を使って自分が利用されないように、「三つの不(しない)」を書き入れた遺言を、二〇一〇年五月一日に公表した。この「三つの不」とは、次のとおりである。
 第一に、私腹を肥やすことになるから、基金会などいかなる組織も作らない。
 第二に、下心ある者が付け入れるので、いかなる組織、いかなる個人の寄付も受けない。
 第三に、義理の縁戚関係や師弟関係を含め、いかなる組織、いかなる個人とも連携しない。
 その上で、高医師は、普通に死ぬ場合は葬儀を行わないと表明した。ただし暗殺などの場合は別に考えると述べた。そして、火葬した後は骨を中国に送り、伴侶の郭明非の骨とともに黄河に散骨し、海にまで流し、永遠に消え去ることを望むと言った。
 このように、高医師は、死後、自分の名前が乱用され、甚だしくは偽薬に悪用されることを防ごうとしている。中国で横行する腐敗や拝金主義は、自分を排除しながら、利用できるようになればためらいもなく悪用することを、彼女はよく知っているのである。

むすび

 現在、高医師はニューヨークのアパートの一室で亡命生活を送りながら、『私のエイズ感染予防の道のり』など三冊の著作に全力で取り組んでいる。他の様々なことにも忙殺される毎日だが、時々ポカンとして郷愁に駆られることもあるという。からだの物理的な時差ぼけはなくなったが、精神的な時差ぼけはまだ続いている。からだは新大陸に置かれても、心ははるか遠くの故郷にある。
 インターネットで中国のニュースを読む。中国人の友人が訪ねてくれば、話題は中国のことになる。食事は故郷の味に近い中華風に作る。そして眠りにつけば、夢は中原の大地をさまよう。八〇年以上の長い歳月で、どうしても中国人であることを変えられない。
 確かに高医師は自由を得た。ドアを開けたとき、外で私服警官が見張っていないかと心配する必要はない。おしゃべりするとき、盗聴される恐れはない。歩くとき、尾行されていないか注意しなくてもいい。毎朝、目が覚めたら、今日こそ投獄されるかと怯えなくてもいい。
 しかし「玉にきず」というとおり、この自由な国は、彼女の祖国ではなく、そして、祖国の人々はまだ恐怖のない自由を享受できていない。
 高医師はこのように思いつつ、はるか遠い故郷の方向を眺めると、いつもエイズ禍の深淵で懸命にもがいている哀れな人々を思い出す。診療した患者たちはどうなっただろうか? 村の外の荒れはてた丘にどれだけのお墓が増えたのだろうか? 孫亜の孫はまだ粘り強くエイズを闘っているだろうか? 母親はやはり涙に暮れる毎日を送っているのだろうか? 李喜閣はまだ「居宅監視」に置かれているのだろうか? その末娘は……
 このように思いつつ高医師はエイズ禍の克服のために努力し続けている。

謝辞:小論は『イリプスⅡnd』第7号(2011年3月)に掲載したものです。本サイトへの再掲にあたり、心より感謝します。