大運河は徐州の北郊外を流れ水量も豊富だ。市街の迎春橋のたもとでその支流が廃黄河に合流している

▲大運河は徐州の北郊外を流れ水量も豊富だ。市街の迎春橋のたもとでその支流が廃黄河に合流している

 徐州の北郊には河幅が100メートルにも達する大運河が流れ、支流が市内の迎春橋のたもとで廃黄河と合流している。その水面を砂利や雑貨など比較的に付加価値の低い貨物を積んだ平底船が数珠つなぎになって静かに航行している。南北に分裂していた中華を統一したのは隋(581-618)の文帝だった。そして第2代の煬帝期には江南から大興(西安)、あるいは燕(北京)まで途切れとぎれの運河を繋いで大運河(京杭大運河)が完成した。分裂時代に発展した江南地方の経済が江北をしのぐまでになり、そこで産する糧米や物品の輸送、人の移動に南北を通貫する輸送手段が必須になってきたからである。

 広通渠(富民渠、大興〜黄河の東流開始付近)は584年、三陽瀆(楚州=淮安〜揚州。淮河と揚子江を接続)が587年、通済渠(板渚=洛陽近郊〜開封〜商丘〜宿遷。廃黄河と淮河を接続)が605年、江南運河(揚子江南岸の京口〜杭州余杭。揚子江と銭塘江を接続)が610年に繋がり、京師の大興(西安)から杭州を結ぶ2000キロにもおよぶ長遠な大運河が完成して関中と江南の経済圏を往来する内陸水運による物流ルートが開かれた。さらに608年には東北に跋扈した高句麗を征討する大軍への兵糧を輸送する目的で、現在の河南省焦作市(洛陽と鄭州の中間地点)武捗県の黄河北岸から北京に到る永済渠も整備された。これは元代以降、首都が北京に移ってから後の時代において、京師と江南を結ぶ大動脈となったのである。

歴代における南北物流

地図:現在の黄河と廃黄河、および徐州の位置

◀地図:現在の黄河と廃黄河、および徐州の位置(NIKKEI GALLERY101号より転載)

 唐朝までは周辺諸国との外交と交易の必要から首都は長安(西安)に置かれたため、南北物流は山門峡の険をいかにして越えるのかが難題だった。ここで物資の運搬が阻まれ、ときには長安が飢餓に陥ることもあった。

 北宋(960-1127)の時代になると山門峡を避けて首都は東の開封に置かれる。これによって南北漕運の距離が大幅に短縮された。首都が長安から開封に移ったのは西域との交易が衰退し、代わって南海貿易が栄えはじめたからだ。内陸奥深い長安の重要性が薄れたのである。アラビア商人の航海術が進歩して海のシルクロードが開け、これに接続する南海航路が開発された。福建省の泉州や広東省の広州がその拠点になったのは言うまでもない。

古黄河碑は徐州の市街と西郊外を画する廃黄河の岸辺に建つ

▲古黄河碑は徐州の市街と西郊外を画する廃黄河の岸辺に建つ

 元朝はモンゴルに近い大都(北京)に奠都した。それまでに江南〜開封間の漕運は確立していたが、それより北のルートは安定していなかった。そこで元朝は永済渠、山東の泗河、大清河、御河などを繋いで北方への物流ルートの開発に努めたが河底に土砂が体積して航行が阻まれ、最終的には内陸水運を捨てて海運に転換する。江南から黄海に漕ぎ出して渤海湾の直沽(天津)に達したら糧米などの貨物を陸揚げし、そこから通恵河で大都の積水潭まで運んだ。南北漕運の総埠頭があった積水潭は現在でも北京にその名称を残し、通恵河の名残も残存している。

 明朝(1368-1644)は金陵(南京)に奠都したので揚子江水運を利用し、首都に糧米を運ぶ際に大運河を使う必要はなくなった。北帰したモンゴル(元)勢力の追討に当った国境防衛軍への兵糧輸送は当初、元から引き継いだ海運にたよったが、倭冦が猖獗をきわめ、悪天候による海難事故も多発したため、旧三陽瀆、永済渠、会通河(須城=山東省泰安〜臨清=山東省聊城)を整備・復活して東方寄りのバイパス路を開き、海運と併用した。

項羽の戯馬台

 ふたたび徐州の散策に戻らなければならない。
 馬市街から長い階段を登るとそこが南山の高みで、徐州の市街を見下ろすことができる。状元街という静かな通りが頂上付近を鉢巻きのようにぐるっとめぐり、街路に連なる民俗博物館や戯馬台などの古建築が歴史的景観を再現している。遊山客たちが三々五々、路傍の建物をのぞき、土産物の屋台をひやかしながら楽しそうに行き交っている。

獅子山の項羽像は楚王陵の入り口を護っている

◀獅子山の項羽像は楚王陵の入り口を護っている

 戯馬台は項羽が秦を滅ぼして楚王となった後、徐州に都して最高度を誇る南山の頂きに邸宅を設け、そこで戯碼(芝居)などを楽しんだところから命名された。項羽像が屹立する南山の頂上あたりから東を眺めると、先ほど登ってきた馬市街の屋根の連なりを見下ろすことができる。水墨画家で齊白石の一番弟子であった李可染の旧居は、あの屋根のつらなりのなかにある筈だ。

 反対側には彭城路文化街が縦横にのびている。彭城とは徐州の古名で、その命名は春秋時代にまで遡る。現在の徐州一帯を支配した大彭氏の国都を彭城と称した。そのときからこの古都は彭城ともよばれるようになったのだ。項羽は楚の時代、次に訪れる宿遷にその本拠を置いていた。そこでまた、この古代の武将に出会うことが出来るに違いない。

獅子山に眠る兵馬俑

 徐州の空は今日も陽光が薄く、断続的に小雨が降っている。路線バスに乗って、市の南東にある獅子山の兵馬俑にむかう。中国には大規模な兵馬俑坑が三つある。もっとも大きいのは1974年に西安で発見された兵馬俑で、これは秦の始皇帝に陪葬されたものだ。二つ目は西安の北西およそ20キロに位置する咸陽の楊家湾にある。西安の10年ほど前に長陵(漢高祖)の陪葬墓区で出土した楊家湾彩絵兵馬俑である。これら二つの兵馬俑は秦とそれにつづく前漢の時代のもので、出土した場所も近いことからたびたび比較されて興味深い。三つ目がここ徐州の兵馬俑(徐州兵馬俑博物館)で、規模は前者の二坑に比べて小さく、俑の体格もまた小柄の30センチほどでかわいい。前漢の楚王に陪葬されたものとされる。

徐州兵馬俑。小人のような俑は西安に出土したものをコンパクトにしたような風情だ

◀徐州兵馬俑。小人のような俑は西安に出土したものをコンパクトにしたような風情だ

 徐州の兵馬俑は1984年、市の東郊外にあったレンガ工場のブルドーザーによって掘り当てられた。発掘された約4000体の俑はすべて西を向いている。この意味を探った研究者たちの間には二つの説が流布した。ひとつは楚王が死後も漢王朝(長安)に忠義を示した証しとされ、もうひとつは楚王に対して生前から謀反の心があり、死んでもなお朝廷に侵攻しようとしたというものである。はたしていずれの説が正しいのか、それは今後の考古学と歴史学の研究を待つほかない。それではこの楚王とはいったい楚国の何代目の王を指しているのか。それを探るために、兵馬俑坑に隣接する楚王陵に足を踏み入れてみよう。

楚王陵

 獅子山の麓で発見された兵馬俑がいずれの王に陪葬されたものなのか、長らく判らなかった。その真実が明らかになったのは、近在の農民が語った「山で紅芋の室(むろ)を掘った」というひと言を考古学者が聞き逃さなかったからだ。獅子山は全体が岩山で土層は薄く、2メートルもある紅芋の室を掘ることは不可能だった。学者は、農民が掘った場所が楚王陵に至る墓道の填土部分にちがいないと考えたのである。紅芋の室の周辺を掘り進めていくと、果たして墓道の先に墓室が現れた。1991年のことだった。

 楚王陵は残念ながら棺桶や高価な副葬品はすでに幾度か盗掘された後で、ただ人骨だけが残っていた。副葬品や印章が出土しないので楚国の何代目の王陵なのか特定が難しく、現状では第二代の劉郢、あるいは第三代の劉戊のものではないかと推測されている。楚王陵はその後、徐州兵馬俑博物館と南京博物館によってさらに詳細な発掘が進められ、1995年度の中国十大考古発見のひとつに指定された。

大運河の雄姿

 徐州の北郊外を流れる京杭大運河を見に行く。隋の煬帝が開削を号令し、最終的には北京郊外から河北、山東、江蘇、浙江の4省、約1千余キロを繋いだ内陸水路だ。交通旅遊図によると、路線バスで北郊外の劉湾というところまで行けば、そのすぐ近くを運河が流れているようだ。徐州駅前からバスに乗り、女性の車掌に劉湾に着いたら教えてくれるよう頼んでおく。1時間ほどたったころ、車掌が手を振ってくれた。劉湾に着いたのだ。バスを降りて広場を超えるとすぐ北側に京杭運河橋があり、橋の下にはもう大運河が流れている。

蘇山頭の廃黄河橋をすぎれば、そこはもう雑踏する徐州の市街だ

▲蘇山頭の廃黄河橋をすぎれば、そこはもう雑踏する徐州の市街だ

 大運河は広いところで100メートル以上の幅がある。杭州や無錫などで見る観光用の大運河の支流とは根本的に別物で、大河のような流れが滔々と走り、平底の作業船や貨物船が数珠つなぎに航行していて圧巻である。この運河が南北物流の大動脈だった近代以前の風景を想像してみる。糧米を満載した糧船の勇姿が目に浮かぶ。その大きな船を運河沿いに何百人もの苦力が引いている。船はゆっくりと河面をすべるように北に向かっていく。

 2年ほど前、中原に大雪が降ったとき、道路や鉄道、航空路線までがストップして交通が大混乱したが、京杭大運河だけはいつものように船舶が往来して南北輸送の命脈を支えたことがある。隋代に開削された大運河は、いまでも活きているのだ。

 大運河沿いの小鎮を歩く。路地では食事の準備なのだろうか、中年の女が一生懸命に芋をすりおろしている。陽光のあたる塀には、赤や青の色鮮やかな布団が晒してある。写真を撮っていると、自動車を修理中の男が穏やかな笑顔をうかべながら話しかけてきた。静かな運河の村を後にして再び路線バスの客となり、雑踏する市街へともどる。

蘇山頭の古黄河碑

 商丘から南流してきた廃黄河は、徐州の西郊外から市街に進入する。その境になっているのが蘇山頭廃黄河橋だ。橋のたもとには古黄河の碑が建っている。西から来た車輛や人はこの碑を見て徐州に着いたことを知り、徐州が廃黄河の街であることを知らされる。碑に刻された「古黄河」の三文字は、王氷石の揮毫である。王氏は江蘇省の著名な書家であると、近くで太極拳をしていた老人が教えてくれた。廃黄河橋以西の河は護岸されていない原始の姿で、まさに廃黄河という名前に相応しい。

蘇北の重要都市である徐州は「不夜城」で、深夜までにぎわいが絶えない

▲蘇北の重要都市である徐州は「不夜城」で、深夜までにぎわいが絶えない

 この街の最後の夜にもう一度、汴泗交匯の碑がある迎春橋のあたりまで散策する。夜に見る廃黄河は、徐州の夜景を映して格別である。黄河が南流した数百年、そして再び北に流れを変えて百年以上の星霜がすぎていった。その間、昼あるいは夜の廃黄河の水面に展開した風景のあれこれを想像してみた。徐州の夜が河水に映って揺れながら静かにすぎていく。

 明日は長距離バスで100キロほど南下し、宿遷にむかう。街の中心に廃黄河と大運河が交響する水の都だ。まだ見ぬ街並みに、期待で心が泡立つ。そこは南山から徐州の街を睥睨(へいげい)していた項羽の故郷でもある。

初出『NIKKEI GALLERY』101号の内容を加筆再構成

〔参考文献〕

星斌夫『大運河 中国の漕運』(近藤出版社、1971年)
星斌夫『大運河発展史』(東洋文庫、1982年)