本稿は、台湾海峡の両岸から発せられる対外宣伝放送のうち、とくに日本語による放送に関し、実際の送出、受信に力点を置いた上で、両放送局を比較しつつ、その特色を歴史的に検証しようとするものである。連載にあたっては、中華人民共和国(大陸)側と中華民国(台湾)側の動向をこの順で交互に、可能なかぎり対応した形で進めていくが、歴史的事情から冒頭の二回分については、記載の順序を逆転させた。なお、本稿の執筆は、中華人民共和国側に関しては中村達雄、中華民国側に関しては山田充郎と本田善彦が担当する。ご一読の上、ご高見をいただければ幸甚である。

 今年8月1日、中華民国(台湾)では対外放送を担当している中央広播電台と大陸地域を含めた中国において最も長い歴史を有する放送局で、以前は対外放送も行っていた中国広播公司が、創立90周年記念日を祝うことになっている。
 しかし台湾における放送記念日(広播節)は、この日ではなく、1925年に中華民国の国父とされる孫文が亡くなった後、北京でスピーカーを通じその遺音を流した日に因んで3月26日と定められている。このように放送とは直接的な関わりのないこの日が放送の日とされた理由としては、その送信の主体(中国国民党、以下特記以外国民党)と内容(孫文思想の宣伝普及)とが大いに関わっている。つまり中華民国においては、少なくとも比較的最近まで、放送は国民党のプロパガンダ色に彩られてきたということを、はしなくもここから窺うことができよう。したがってここでは放送事業自体の開始日が放送記念日として意識されることは全くない。その対象が中国全体であるにせよ、台湾のみであるにせよ。

 

中国の放送の濫觴

 中国における放送の開始日は、1923年1月23日とすることができる。これは米国人記者オズボーン E.G.Osborn が華僑の資本で上海に設立した中国無線電公司が、同地の新聞「大陸報」と提携して本放送を開始した日である。
 この新事業に対し政府は何らかの規制を図ろうとしたが、その対処方法は簡単なものではなかった。当時の電信条例では、私人の無線電信・電話の利用は禁止されていたが、新たな発明あるいは事業である放送は、その対象枠に入らなかったうえ、法人自体が政府の管轄が及ばない租界に所在したため、これを禁止することはできなかった。
 しかし、これとは別に存在した海関章程なる法例により、放送受信機は軍用品とされ、輸入が禁止されていた。政府はこの規定を活用、そのため受信機の販売益を主たる収入源に当て込んでいたオズボーンらの計画は大きく外れた。これに加え、放送の専門家がいなかったこともあって、この局は開局後2ヶ月足らずで閉局を余儀なくされた(「上海広播無線電台的発展」〔『上海研究資料続集』715頁所収〕)。

 

中国での初期の日本語番組と日本語放送局

 中国無線電公司が放送を開始した1923年以降、その3年後の1926年までの間にいくつもの放送局が開局したが、そのすべては外国人の手によるものであった。そしてその中には、日本人の経営した放送局もあった。
 1924年4月に放送を開始した米国ケロッグ商会による放送局(略称KRC)は、上海・江西路の自社内所在の演奏室(スタジオ)以外にも、市内の数箇所に副演奏室を設置したが、その一つは四川路橋北堍の神戸電気会社内にあった。ケロッグ商会の代理店でもあった同所からは毎週日曜日の19時から21時まで日本語によるニュースと日本音楽が流された(曹仲淵「三年來上海無線電話之情形」〔『旧中国的上海広播事業』58頁所収〕)。当時日本国内においては、正式放送が始まっていなかったことから、これらの番組は世界で初めての正式な日本語放送であったと言える。この番組の放送時間にはその後若干の変化は見られるものの、日曜日の邦楽番組そのものは、少なくとも1年以上は続いていた。
 この頃、上海で単なる番組枠の購入ではなく、自ら放送局の設置を企てていた日本人が二人いた。その一人は蓄電池、電気機械、電気材料、電球の輸入を取扱う新昌洋行の支配人であった柴崎勝正、もう一人は日本電報通信社(電通)の上海支局長であった兒玉璋一である。この中、兒玉は1925年に2NDS局を創設、この放送は同年中には東京でも受信されている。1926年に入ると、同局の経営権は上海の邦字紙である上海毎日新聞社の手に移り、上海毎日放送(略称KSMS)と称して放送規模を拡大した(『無線と実験』大正15年2月号、同5月号)。一方柴崎も同年12月にはNKS局を開設、同局は新昌洋行と上海日日新聞との共同経営により事業を進めた(『ラヂオの日本』昭和2年10月号)。

 

公営局と本国人による民営局の創設

中国人による放送局の創設
 先に述べたとおり、1926年までに開設された放送局は、すべて外国人の経営によるものであったが、その間に当然ながら中国人による放送計画も企てられるようになった。
 このような計画が最初に表面化したのは、浙江省においてであった。1926年の春、同省余姚の名望家何連第等が無線電話を使った市況報道を計画、これを伝えるための放送局の認可申請書を浙江電政監督に提出したのが、中国人の手になる初の申請であった。しかしこの申請は、当時の電信条例の規定に適合しないという理由で却下された。中国人自身による民営放送がようやく始まったのは、上海の百貨店新新公司が経営する新新電台(略称SSC)が開局した1927年10月のことであった。

法制の整備と公営局の設立
 外国人や中国民間人による放送局設置の動きは、政府側にも反映、国民政府は1926年9月25日に無線電信条例を制定するとともに、公営放送局の設置計画を速めることとした。そして政府の担当部署である交通部は、1927年5月に天津、9月には北平(北京)で本放送を開始した。

 

中央広播電台の成立と展開

中央広播電台の成立
 今年創立90周年を迎える中国広播公司は、その創設の最大功労者としての栄誉を、国民党の元老陳果夫に与えている。上海のKRC放送で商業広告を耳にした陳果夫は、その効果の可能性に深い関心を寄せ、主義の宣伝、国策の闡揚、教育の推進の手段として、党自体による放送局設置の計画を温めていたが、1928年2月の国民党第二回中央執行委員会第四次全体会議で宣言が発表されるや、その精神を全国民に速やかに伝達し、浸透させていくには放送が絶好の手段であると同党の戴傳賢中央宣伝部部長、葉楚傖中央委員の両に放送局の設置を慫慂、その賛同を経た。そして同年6月には中央宣伝部の管轄する「中国国民党中央執行委員会広播無線電台」(略称中央広播電台)が設立され、8月1日に首都南京から本放送が開始された。当時の呼出符号はXKM、使用波長は300m(周波数1000kHz)、使用電力は500Wであった。同年12月には呼出符号がXGZに変更され、使用波長も420m(周波数714.3kHz)に固定化された。1931年7月、中国国民党中央執行委員会広播無線電台は中央広播無線電台管理処(以下特記以外管理処)と改められ(放送局としての略称は引続き中央広播電台)、管轄部署も中央宣伝部から中央執行委員会へと移った。

中央広播電台の事業展開
 中央広播電台の本放送開始に先立つこと2ヶ月半、日本放送協会は東京・大阪両放送局の出力を10kWに増力していた。中国の国内、特に沿海部においても、夜間にはこれらの放送が受信できた。一方、南京からの放送の出力はわずか500Wで、その聴取可能範囲は極めて限られたものであった。そこで1929年1月には同局の10kWへの増力計画が提出された。検討の結果、その規模は、75kWの大電力放送計画へと拡大、新送信所が南京郊外に建設されることになった。計画の着手から3年有余にわたったこの送信所は1932年5月に完成、入念な整備と3ヶ月間の試験放送を経て、国父生誕記念日に当る11月12日に新送信機による本放送が開始された。呼出符号はXGOA、使用波長は454m(周波数681.8kHz)であった。管理処の管理する放送局は、1936年までに地方局を含め6局に増加、この年には南京で短波による放送も開始された。

 

中央広播電台の日本語放送の変遷

南京中央広播電台XGOAの受信証

◁南京中央広播電台XGOAの受信証(中国楊氏提供 中央広播電台ホームページより)。本受信証の印刷は1932年乃至1933年8月、ただし周波数と波長に修正の記載があることから、その獲得時期は1933年9月乃至1937年11月であったことがわかる。

日本語放送の開始
 1932年1月、上海で日中間に軍事衝突が発生、首都南京への戦火拡大を危惧した中華民国政府は洛陽への遷都を宣言したほどであった。また前年の満洲事変勃発以降、日本は要衝の多くを占領、3月には満洲国の建国宣言が発せられるなど、日中両国間の関係は著しく悪化していた。守勢一方の立場にあった中国側としては、日本国民に対し直接呼びかけることのできる大電力放送は、絶好の武器であったと言えよう。かくして、本来国内向に使用される放送時間の一部を利用して、日本語を用いた日本向放送計画が実行に移されることとなった。その開始期日は本放送開始翌日の11月13日、毎日19時30分から20分間の放送であった。番組の制作には、日本留学の経験がある中央宣伝部の方治があたり、アナウンスはその夫人である日本人植木ますえ(中国名方益之)が担当した。この放送は、海外から日本向けに行われた初めての日本語放送であった。つまり日本語による最初の放送は、国内向、国外向の双方とも中国において中波により行われたのである。

日本語放送の変遷──南京から漢口、長沙、貴陽まで
 新送信機による電波は広い範囲に届き、日本でも場所によっては地元局の受信に大きな支障を与えていた。すでに試験放送の段階から、とくに福岡、京城、台北放送局に対する混信がひどく、日本政府は中国政府に対し、混信を除去するための措置を執るよう9月と10月の計2度にわたり要請していた。しかしこれに対する中国側の回答は否定的なものであった。

林忠氏(1981年)

◁林忠氏(1981年)

 こうした中で、日本政府を非難する日本語の番組が始まったわけであるから、日本側の受けた衝撃には甚大なものがあった。各新聞もこの放送には敏感に反応し、声の主である女性が日本人であること並びにその氏名が判明するや、身元から経歴に至るまでこの女性について詳しく報道、「祖国に弓引く女」としてその行動を口を極めて非難した。日本政府や軍部からの強硬措置の示唆もあって、方夫妻による放送は開始後10日余りで終了した。日本語放送自体は、その後も散発的に1年ばかり続いていたようである。
 中国からの日本語放送が復活したのは1937年、蘆溝橋事件からしばらく後のことであった。放送の担当者は台湾出身で、中国の台湾収復に協力すべく帰国したばかりの林忠と、在日華僑で日本の大学を卒業した張兆豐の両名であった。この放送は、日本軍が南京に迫った1937年11月までに中止され、対外宣伝の担当部署も従来の軍事委員会第五部から新設された国民党宣伝部傘下の国際宣伝処に移管された。南京から漢口へと移っていた林忠は、同地から送信される日本語放送の一員となったが、その同僚の中には日本人反戦活動家の姿も見られた。その一人がエスペランチストの長谷川テル(緑川英子)であった。林忠は漢口で3、4ヶ月業務に携わった後、長沙で約1年、そして桂林を経由して貴陽に入り、同地でも一人で日本語放送を担当、その後政府が中枢機能を置いていた重慶へ移った。

日本語放送の変遷 ― 重慶時代
 国民政府は南京陥落に先立つ1937年11月に重慶への遷都宣言を発していた。中央広播事業管理処(中央広播無線電台管理処を1936年1月に改称、以下特記以外管理処)も同地に設置され、放送局も中央広播電台(呼出符号XGOA)として、1938年3月10日に復活した。周波数は1450kHz、出力は10kWであった。

南京復帰後の中央広播電台XGOAの受信証(1948年)

◁南京復帰後の中央広播電台XGOAの受信証(1948年)Short Wave QSL Cards より

 同地からの短波放送の開始計画も、着々と進められた。1938年10月に35kWの短波送信設備が完成、中央短波広播電台が正式に開局したのは1939年2月6日のことであった。日本向の放送は呼出符号XGOYをもって行われ、夏場には11mc帯、冬場には9mc帯の周波数が用いられた。この短波放送部分は、翌年には分離され、局名も国際広播電台(英文名 Voice of China)と改められた。
 XGOYの日本語放送は国際宣伝処対日科の管轄下にあり、科長の崔萬秋は番組の内容審査など実務を林忠にすべて任せていた。林忠はここでは番組に登場することはなく、実際の番組は5名の女子アナウンサーが中心となって担当していたが、後には時事ニュースの割合が増え、日本人捕虜(男子)の登場する機会が増加した。反戦活動家が出演することもあった。その中には、国民政府、とくにその最高指導者である蔣介石とは相容れない思想を有している者も少なくなかった。
 1945年8月10日、日本はポツダム宣言を受諾する用意のある旨を連合国側に通告、重慶の日本語放送は逸早くこの報を11日に伝えた。終戦の詔書が放送された15日には、蔣介石の「戦争終結の意義」の邦訳版が、翌16日から27日までは在華日本軍将兵に対する投降の呼びかけが引続いて放送された。これを放送したのは、日本人捕虜であった。
 終戦に伴い、国民政府は可及的速やかに南京へ帰還する旨を発表、これにしたがって中央広播事業管理処と中央広播電台の南京への移転の方向も定まった。1946年4月、管理処と中央広播電台の役職員は重慶から南京へ移動、5月5日には両機関の南京復帰が実現した。それと共に組織上重慶の中央広播電台は廃止されたが、国際電台の名称は依然重慶の放送局が保持していた。

日本語放送の変遷 ― 南京復帰から大陸失陥まで
 1947年1月に復活した南京からの海外向放送が大幅に拡張されたのは、その2ヶ月後のことであった。日本語放送もこの時復活したようで、毎日現地時間20時から30分間、15350kHzで放送された。また1945年10月以降、上海でも日本語放送が行われていたが、これが日本に向けたものであったかどうかは判明していない。これらの放送は少なくとも1947年9月の段階までは継続していたようである(『広播事業』33,34頁)。
 日本敗戦後の指導権を廻って対立していた国民党と共産党の争いは、1947年後半からの中共軍の反撃後、全面的な内戦状態に拡大したが、中共軍の攻勢はその後も続き、国民政府(国府)側の支配地域は急速に減少していった。1948年11月に政府は広州への遷都を宣言、中央広播電台の大出力送信機も取り外され、最終的には広州と台湾へ運搬された。この時期までには海外向放送の規模が縮小され、日本語放送も廃止されていたと思われる。
 国府側は1949年4月に南京、5月には上海を失い、同年10月1日に毛沢東中国共産党中央委員会主席は、北京で中華人民共和国の成立を宣言、闘いに敗れた国民政府は12月7日に台北を臨時首都とする旨決定した。しかしこの時、同政府による台湾からの海外向放送はすでに始まっていたのである。
 

〔主要参考文献〕
(全般)呉道一『中廣四十年』
    北見隆『中華民國廣播簡史(上冊)』
(今回)上海市木當案館等合編『旧中国的上海広播事業』
    鳥居英晴「中国の対日放送・秘話(『総合ジャーナリズム研究』第99号所収)
    貴志俊彦「中国の日本人捕虜と「対敵宣伝ラジオ放送」」(『増補改訂 戦争・ラジオ・記憶』所収)