明子の二歩あるいて三歩さがる

第02回

ウィンブルドン化する東京

 はたらく人が足りない。スーパー、コンビニ、飲食店、マッサージ店。どこもかしこも労働力の逼迫を感じる。一番よく見えるのがサービス業で、いつのまにか、周りは中国人、ベトナム人、インドネシア人の店員ばかり。一体、日本人の主婦や学生はどこに行ってしまったのだろう? サービスをされる側のお客さんも外国人がやたら多い。物見遊山のインバウンド外国人観光客、茅場町や新川のIT企業や証券会社で働くインド人や中国人エグゼキュティブとその家族。まるで外国のような光景は、何も北海道ニセコだけでない。ここ東京のど真ん中でも、日本人抜きのウィンブルドン経済が密かに絶賛進行中だ。

東京都中央区の湾岸地区。タワマンの住民にはインド人の駐妻や中国人のおばあちゃんなど、外国人高度人材の家族が増えてきた

◁東京都中央区の湾岸地区。タワマンの住民にはインド人の駐妻や中国人のおばあちゃんなど、外国人高度人材の家族が増えてきた

 実感なき好景気には既視感がある。

 昔住んでいたパリが四半世紀前にすでにそういう状態だった。フランスは経済が長く停滞し、90年代には失業率はすでに慢性的に10%を超えていた。だから、国内にヒトは余っていたのだが、不景気でも外国人移民が増えていた。自国民がやりたい仕事と社会が必要とする仕事にあったギャップのせいだ。

 フランスでは、戦後、教育機会の均等化と若者の高学歴化が進んだが、安定したホワイトカラーの仕事はそれに見合ったペースで増えなかった。だから、カルチエラタンには、気に入る仕事が見つからないまま、いたずらに学歴を重ねる若者が多かった。大学は人材育成の場というより、若者が労働市場に溢れないようにする溜池、安全弁であり、大学院への進学は就職できない若者の言い訳の様相を呈していた。

 そんなトホホな現実とは裏腹に、花のパリはいつでもインバウンド需要で活況。カフェやレストランは大混雑、ホテルも満室。観光関連、サービス関連の仕事ならいくらでもあった。それらの「汚く辛い」仕事を担うのは、ハイスペックのフランス人の若者ではなくロースペックの外国移民なのだった。

 あたりまえのこととはいえ、高学歴になった人材は、これまで教育に投資した時間とカネが回収できる仕事しか望まないようになる。知識と能力が発揮できる仕事。余暇の多い安定した仕事。やりがいのあるエキサイティングな仕事、キャリアアップが見込める仕事。だが、そんな仕事はいつでも激戦区だ。激戦に立ち向かうためには、ますます高い学歴が必要。だから、まず、勉強、勉強、先行投資。かくして、虚しくオーバースペック人材が量産され、一方で、安く、汚く、不安定だが社会が真に必要とする仕事の求人には閑古鳥が鳴く。

 先進国社会に本格的に足りないのは、生産性の低いボリュームゾーンの底辺の仕事を担う人材だ。国民の少子化、高学歴化でそれを自給自足できなくなれば、いきおい、供給元は外国人労働者に求めざるを得ない。

 ではなぜ、そんなロースペックな仕事のために、喜んで海を渡ってくる外国人が絶えないかといえば、シンプルな話、国と国に格差があり、ヒトの教育程度に格差があるからだ。安価な労働力を提供する国の雇用環境はあまりに状況が悪く、そんな国の人々にとっては、どんな底辺の仕事でも先進国の仕事は自分の国よりましだからだ。

 もし、世界のすべての人に教育機会が均等に与えられるようになり、先進国と後進国の通貨価値や時間あたり賃金に差がなくなったらどうなるだろう? 安価な労働力の供給国だったはずの国の子どもにも潤沢な教育が与えられるようになったら? それらの人々が日本やフランスの若者のように教育投資の回収が見込める高付加価値の仕事しか望まなくなったら、世界はどうなるだろうか? 

 スーパー店員や道路工事や介護の仕事をしたい人は世界を探しても誰もいなくなってしまうだろう。工場で服を作る人、トンネルを掘る人、痴呆老人の世話をする人もいなくなってしまうだろう。

フィリピン、マニラの貧しい地区の女の子。20年後、彼女はどこでどんな仕事をしているだろうか

◁フィリピン、マニラの貧しい地区の女の子。20年後、彼女はどこでどんな仕事をしているだろうか

 格差がなくなれば、すべての人が豊かで幸福になれるのか? いや、その反対だ。その時こそ、グローバル経済は正真正銘のどん詰まりかもしれない。教育格差、国と国の格差があるからこそ、それがリアルタイムの世界の掟だからこそ、不利なスタートラインに立つ人も、「汚い」仕事しかできない人も、そのことをことさらな不公正や不幸と感じないですんでいるのだ。

 自らの受粉のために花が虫を必要とするように、社会はその再生産のために、汚い仕事、不安定な仕事、安い仕事を喜んでやる、たくさんのヒトを必要とし続けている。世界の全ての人が一方の側に回ることはできず、ヒトとヒトに格差がなければ経済は回らない。格差がない世界。すべての人の国や地域や階層による個人の技能や欲望や人生目標にレベルの差がなく、万人が同じ土俵でガチンコで競争し、勝ち負けが決まる社会。そんな社会はユートピアどころか悪夢のディストピアだ。

 というわけで、今日も東京では再生産され続ける両極端のグローバル・ノマドがせっせと経済活動に勤しんでいる。一方の極みは、労働需給のギャップを埋め、底辺の仕事を担うために来日した貧しい人々。そして、もう一方の極みは、高い教育を受け、どこの国に行っても、その国の大半の国民をはるかに上回る収入を得ることができる世界級のハイスペックな人々。

 目を凝らせば、隅田川端のベンチからでも浮世の生態系が見えてくる。

コラムニスト
下山明子
翻訳業、ブロガー。早稲田大学、パリ政治学院卒業。格付会社、証券会社のアナリストを経て2009年より英日、仏日翻訳に携わる。チベットハウスの支援、旅行、読書を通じて、アジアの歴史を学んでいる。著書『英語で学ぶ!金融ビジネスと金融証券市場』(秀和システム)。訳書『ヒストリー・オブ・チベット』(クロード・アルピ著、ダライ・ラマ法王日本代表部事務所)
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