「ママ、高校時代どんな子だった?」

 会話らしい会話もなくなった高1の息子から話しかけられると無条件にうれしい。それも、わたしのことを聞いてくれるなんて。自分語りの機会を逃すまじと長い演説が始まる。

 「えーとね、基本、目立たない普通の子だったんだけどね、『あぶれる』っていうのが一番、怖かったかな。球技大会や社会のグループ授業なんかで、先生が決めるんじゃなくて、生徒が好きな子たちでグループ作るってときがあるでしょ。『はーい、皆さん、席を立って、自由にグループ作ってください!』って。それで、生徒たちがお互い、ゆっくり顔を見合わせる瞬間。どのグループにも入れてもらえないんじゃないか、誰も選んでくれないんじゃないかってこわかった。他の子はみんな、事前にこっそり相談して、誰と一緒になるか決めてるんじゃないかって。すごい恐怖だった。先生に決めてもらう方が楽だった」

女の子は小学校高学年くらいから群れの掟を学ぶ。太古の時代から共同体から除け者にされることは個人にとって死を意味した

◁女の子は小学校高学年くらいから群れの掟を学ぶ。太古の時代から共同体から除け者にされることは個人にとって死を意味した

 「ああ。ママ。陰キャでボッチだったんだね」

 (若者とあまり話をしない読者のために翻訳いたしますと、「陰キャ」は「陰のキャラクターで、80年代の流行語「ネクラ」とほぼ同義。反対語は「陽キャ」。「ボッチ」は、文字通り、孤独で友だちのいない人のこと。ちなみにクリスマスを一人で過ごす人は「クリボッチ」)。

 「たぶんね。だけど、そう思われないよう努力してたかな…」

 「隠キャ」、「ボッチ」のほかに、若者言葉に「便所飯」があるという。一緒にランチを食べる人がいない己の姿を他人に見られないよう、トイレにこもって弁当を食べることだ。なんのことはない。それは昔からあった。わたしもやっていた。さすがに便器の上では食べなかった。だが、昼休みの20分間、話しかける人も話しかけられる人もいない自分を他人に見られるのが気詰まりで、弁当を食べ終わるとトイレにぼんやりこもっていたことはままある。

 では、わたしはどんな人と思われたかったのか? 

 ボッチの反対。都会的で、垢抜けていて、ジョークが上手くて、ちょっと、おっちょこちょいで、可愛くて、センスが良くて、笑顔が可愛くて、天然で、それでいて気遣いのある女の子。周囲から同じグループに入って欲しいと引っ張りだこの人気者。理屈をこねたり、企んだり、批判したり、ひがんだり、妬んだり、計算したりしない。朗らかで素直で、コミュ力のある人。

 陰キャ(当時はネクラ)という烙印を押されないための戦いは、いわゆる、敵を叩きのめす競争、優越を目指す競争とはちがう、不思議な戦いだった。中間、平均を狙う競争。目立たないように、努力を感じさせないように、属する集団の特性を察知し、その平均値を算出する。「普通の子だけど、天然で、ちょい面白い」の立ち位置が作れれば、めでたく社会性が認められて共同体の一員になれるというわけだ。

◁たとえば帰国子女は自分の綺麗すぎる発音を恥じて、日本人英語を覚える

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 一見、無邪気な少女たちの世界は、恐ろしいジャングルでもあった。何がイケていて、何がイケていないかは、論理でなく感性と空気で決まる。何に対して「カワイイ!」と叫ぶのか。スカートの長さは何センチがいいのか。いじめてもオーケーなのはA先生か、それともB先生か。手提げカバンのワッペンはスヌーピーが良いか、それともファミリアのクマちゃんか。理屈ではない。理屈で判断できないから、こわい。

 では、そんな空気を作っていたのは誰か。イケているのは、スヌーピーではなくクマちゃんだと決めていたのは誰か。

 それは、「世間=マジョリティ=陽キャ」であり、マジョリティを支配する「番長=オピニオンリーダー=カースト最上位集団」だった。

 必死に世間に身を合わせようとする個人にとって厄介なことは、自分の行動をコントロールしようとしても、なにせ、相手は空気だから、成功するか失敗するか、皆目分からないことだ。校則はこわくない。こわいのは暗黙のルールだ。空気だ。

 それで、わたしはリアルタイムの「世間の目」を読み尽くそうとした。「世間さま」を心に深くビルトインし、そこから少しもはみ出さないように努力した。そうするなかで、わたしは自分がこわいと思うものを恐れない人、排除されても平気な人を「ムカつく」、と無意識に憎むようになり、接触を避けるようになった。

 今から思えば、わたしのような人間こそが他人に同調圧力をかける側の正体だった。カースト最上位者に擦り寄る人たち。そこから蹴落とされるのを恐れる人たち。自分が恐れるものを恐れない人を憎む人たち。自分が綺麗だと思うものを綺麗と言わず、他人が綺麗だと思うものを綺麗だと言う人たち。ミイラ取りはミイラになり、世間に怯える人が、人を怯えさせる世間になる。グループから外れじと必死に努力する人は、自分が外れていないことを証明するために、外れて惨めな人を必要とする。「それ、見たことか!」と後ろ指を指す。卓越したものを引きずり降ろす。出る杭を打つ。何といっても攻撃は最大の防御なのだから。

 高校生の社会はいつでも大人の社会の縮図だ。

 大人の社会にも、高校生の社会にも、つねに支配的価値観があり、そこで優位に立つ人と劣位に立つ人がいる。「決める側」と「決められる側」がいる。「押し付ける側」と「押し付けられる側」がいる。ひとたび集団になれば、人と人のちがいは水平のちがいのままで放って置かれない。それは比較されて序列に変わる。「陰キャ」と「陽キャ」はつねに分断されている。「陽キャ」は「陰キャ」がいて、はじめて「陽キャ」になれるのだ。

 あれから40年。果たして、わたしは進歩しているだろうか。もう一度、高校生になったらあのときとちがう行動を取っただろうか。いじめや排除から無縁で入られただろうか? 一風、変わった人を、妬むことなく、蔑むことなく、フラットに付き合えただろうか? 誰からも声をかけられず、悲しく寂しい子に、「一緒にグループ作ろうよ」と、自分から勇気をもって声をかけられるだろうか? 

 「ボッチとか、陰キャとか、いやなことばだよね。大人になって、そんなことばと無縁になって、よかった」

 つぶやく母の横に息子はとっくにいない。見れば、自分の部屋にこもってイヤホンをしてyoutubeのサッカー映像に夢中になっている。

 振り返れば、世間はわたしが恐れていたほどには実体のないものだった。ながくわたしに寄り添ってきた恐怖心や過剰な自意識は無用の長物だったとつくづく思う。