北京の胡同から

第52回

八大胡同の諸相 高級料亭から女性用銭湯まで

 先回も登場した八大胡同。前門の西南に広がるその一帯は、清の末期から民国期にかけては、北京最大の遊郭街であり、貴賎さまざまな人々の欲望や野望、陰謀、駆け引き、そして愛憎の舞台となった。
 よく誤解されているが、八大胡同は単純に色だけを売っていた街ではない。実際にそこに集まっていた店の種類や格式はさまざまだった。上客の接待、商人や政治家の談合などに使われ、いわば一見さんお断りの京都の料亭や銀座の高級クラブのような役割を果たしたトップクラスの妓楼「清吟小班」。中級クラスで、良家のぼんぼんなどが遊蕩にふけったであろう「茶室」。単なる売春宿で、客層も貧しい人に限られていた「下処」など。これらは、それぞれ相応するクラスの芸妓や妓女を抱え、時には遊覧船の上で営業したり、出張サービスなどにも応じたりしながら、各自のやり方で経営していた。そしてもちろん、妓楼以外の店も多く、その種類もさまざまだったようだ。

男娼窟から接待の場まで

 八大胡同がこの場所に発達した理由は、やはり前門との位置関係と切っても切れないとされている。かつては北京随一の繁華街であった前門には、有力な商家が並んでいた。そこには当然、さまざまな商人が集まり、商談を行っていた訳だが、いつの世も、大口の取引をモノにしたければ、懇ろな接待は不可欠。そんな需要に、料亭や妓楼が集まる八大胡同はみごとに応えた。その繁盛ぶりは、前門の老舗商店の主たちも、嫉妬の目を向けるほどだったという。
 八大胡同の成立は明代にまで遡れるとされるが、そもそも北京の有名な色町は、元から清の中期にかけては、内城、つまり現在の二環路内にあった。だが王朝の力が緩んだ清末になると、清政府は遊郭街の内城内での拡大を嫌い、その営業を内城外に限った。この経緯が、八大胡同の発展を有利にしたのは言うまでもない。
 もっとも興味深いのは、八大胡同は清の中期、同地区内の韓家潭胡同にあった男娼窟の数々、つまり江戸風に言えば陰間茶屋によって、隆盛の礎を築いたといわれていることだ。女性の売春に関してはしばしば規制を加えた清王朝も、男娼に関してはほぼ野放しだった。そもそも、清朝の最盛期を築いた乾隆帝が美男子好みだったことはよく知られている。
 ちなみに、江戸の陰間茶屋が成立したのも17世紀末、江戸中期の元禄時代だったといわれている。つまり八大胡同での男娼窟の隆盛と時間的にリンクしており、もしかしたら、男娼窟通いは当時、国境を超えた、一種の流行だったのかもしれない。
 当時の八大胡同はまた、賭博や阿片の横行した場所でもあった。資料をもとに歩いてみると、戦中に日本人が経営していたという賭博場跡なども見つかり、ドキリとさせられる。日本人がオーナーの阿片窟も多かったようだ。もちろん清末以降、法の上では中国でも阿片の売買は禁じられていた。だが、拘束は緩かったようで、阿片商人たちは、新聞に挟み、いわば宅配を装って、買い手の家に何気なく阿片を届けたという。

遊郭文化は日中共通?

 そんな八大胡同の一帯を歩いていると、今でも、遊郭や賭博場跡の特色ある建物をあちこちで目にすることができる。いずれも、あまりおおっぴらにできない商売のせいか、外側は四角張っていて無愛想。だが、入ってみると、内側は意外と変化に富んでいる。
 残念でならないのは、遊郭跡にせよ賭博場跡にせよ、その多くが老朽化や風化に任されているか、かなり恣意的に改造されていること。また、その多くは雑居状態のため、共用スペースに多くの生活用品が置かれ、本来の姿が想像しにくくなっている。
 もちろん、その一方で比較的保存状態が良く、全体の構造がはっきりと分かるものもいくつかある。その多くは二階建てで、一階、二階とも四方の壁沿いには小さめの部屋がずらり。真ん中に吹き抜けの中庭があり、二階部分をぐるりと囲む欄干つき回廊から眺め下ろせるようになっている。なぜこういう造りになっているかというと、一説では、都合の悪い者が侵入してきた時、上から熱湯を注いで追っ払うためだとか。
 もっとも、中庭プラス回廊という構造自体は、他の伝統建築にも見られるもの。むしろ妓楼を特徴づけているのは、階段の付け方だ。中庭の短い方の辺の中央に、Yの字型についている階段を見つけると、華やかな装いをした妓女たちがそこから降りてくる様子が、おぼろげながら脳裏に浮かぶ。
 実は偶然だが、京都に住んでいた学生時代、私はどう見ても遊郭跡にしか見えない建物に下宿していた時期がある。その構造が、階段の付け方も含め、八大胡同の妓楼とたいへん似ていたことに気付いた時、はっと息を飲んだ。さっそくその後、現役の色町として知られる大阪の飛田新地を訪れてみると、そこの代表的な建物も、やはり中庭、回廊つきの二階建てだった。下宿屋と異なり、料亭として現在も使われているだけあって、より生き生きとした感じだ。一般の民家である四合院と日本家屋を比べると、そこまで似ているとは思えないだけに、日中の色町文化の不思議な共通性は興味深い。

ムスリム向けや妓女専用も

 この他にも、日中で比較すると面白いものに銭湯文化があるが、こちらの日中の差の方は、かなり歴然としている。実は、前門一帯は、北京で初めて上海から高級銭湯文化が導入された地域。按摩や吸いぶくべ、将棋などができて、食事も持ち込み可。家族そろって一日時間をつぶせるほどの、娯楽施設化した高級浴場さえあった。さすがに今も営業を続けている店はないが、門構えなどにかつての繁栄を感じられる場所がいくつか残っている。
 旧八大胡同であっても同じで、その門構えからかつてのオーナーのこだわりが感じられるのが、まるで銭湯らしくない名前の「一品香浴池」跡。ムスリム向けの銭湯だったとされ、今はアーチ門しか残っていないが、その彫刻は美しく精緻。かつて利用客は二手に分かれ、著名人や有力者などは二階の高級浴室に入り、その他の人は一階部分を利用した。一般用といえど、南北に細長い浴槽が、「温(ぬるま湯)」、「熱(熱めの湯)」、「特熱(特別に熱い湯)」に分かれていたというから、熱湯好きの江戸っ子も大満足(?)の充実ぶりだったようだ。

「一品香浴池」の門に残る彫刻

▲「一品香浴池」の門に残る彫刻

同上、門を内側から見た様子

▲同上、門を内側から見た様子

 ところで、今でも北京の銭湯の女湯には「衛生上の理由から」湯船がないが、かつての北京の銭湯には女湯自体がなかった。当時、下賤な身分とされていた妓女の入浴できる場所などはもってのほか。そこで羽振りのよかった妓女、金秀卿が、一帯で暮らす妓女たちの生活の便のため、1914年、鉄樹斜街に建てたのが、北京初の女性用銭湯、「潤身女浴所」。
 冬のある日、その跡地で現在は旅館になっている場所を訪れた。惜しいことに、今は建物の外側の輪郭が残っているだけで、すでに内部は大きく改造されてしまっている。宿の女将さんも、「何も残ってはいないよ」とそっけない。
 だが、今でこそその繁栄の痕跡をたどるのは困難でも、かつてここはかなり凝ったつくりの銭湯だった。ライバルの出現によって、妓女向けの銭湯の経営が傾き始めると、機を見るに敏な金秀卿は新たなビジネスを取り入れ、トルコ風サウナやフランスから輸入したさまざまな化粧品まで扱い始めたからだ。いわば、顧客層を富裕層に特化し、高級な化粧品店兼スパとして人気を集めた時期があったことになる。

かつて「潤身女浴所」があった鉄樹斜街

▲かつて「潤身女浴所」があった鉄樹斜街

凄腕実業家、金秀卿

 そもそも、金秀卿は多くの妓女の例にもれず、貧しい家の出身だった。幼少期はじり貧の生活を余儀なくされ、挙句の果ては亡くなった父親の葬儀の費用を出すため、14、5歳で妓楼に身を売ったといわれている。美貌であっただけでなく、たいへん聡明で弁舌の才に長けていたため、八大胡同の妓女を対象にした某新聞社主催のコンテストでは、弁舌の才部門の最高賞を獲得。名花魁として名を馳せるが、内心は貧しくとも愛情ある結婚を望み、やがてへそくりを貧しい琴の師匠に渡して、彼に自分を身受けさせる。花柳界での派手な生活を棄てた後は、貯金をはたき、妓女を対象にした銭湯業を創業。やがてライバルの出現で営業が傾くと、先述のように店に海外のハイエンドな文化を取り入れて、富裕層の心をキャッチする。
 そんな柔軟さこそあれ、金はまさに銭湯業に命をかけた一本気な女性だった。日本占領期には娘や夫を田舎に疎開させた上で、自らは北京に残って店を死守。さらには、日本には混浴型銭湯があると聞き、かつてのライバル業者との共同出資で、北京にも同種の銭湯を開業させている。
 そもそも、年をとって客をとれなくなった妓女が、貯めた金で新たに妓楼を開き、元締めになる例は多かったといわれるが、いわば時代の変化や消費者の需要を鋭敏に嗅ぎとり、女性の力でしたたかに女性をターゲットにした事業を展開した金秀卿は、より本格的な女性起業家の草分けだったといえるかもしれない。その「潤身女浴所」は、解放後、3月8日の婦人デーに因んで「三八浴池」と改名。その命名にも、彼女の時代を読むしたたかさを感じずにはいられない。
 それにしても、金銭の力が常識を覆す例は今も巷に溢れているとはいえ、世の中から低く見られていた「妓女」という身分の女性が、身を削るようにして蓄えた金で、女性が身を洗い清める、という人として当然の権利を普及させたというのは、ちょっと痛快だ。金秀卿の起業家スピリットからは、妓女たちがけっして虐げられるばかりではなく、生活を少しでも良くするため、奮闘し、助けあっていたことが伝わってくる。
 さまざまな夢を抱いた人物や、アイディアあふれる商売が跋扈したかつての八大胡同。まだまだその歴史が放つ魅力はつきない。

◎参考文献:肖素均著『八大胡同里的金枝欲孽』文匯出版社/ほか

コラムニスト
多田 麻美
フリーのライター、翻訳者。1973年静岡県出身。京都大学で中国文学を専攻後、北京外国語大学のロシア語学科に留学。16年半の北京生活を経て、2018年よりロシアのイルクーツクへ。中国やロシアの文化・芸術関係の記事やラジオでのレポートなどを手がける。著書に『老北京の胡同』(晶文社)、『映画と歩む、新世紀の中国』(晶文社)、『中国 古鎮をめぐり、老街をあるく』(亜紀書房)、訳著に王軍著『北京再造』(集広舎)、劉一達著、『乾隆帝の幻玉』(中央公論新社刊)など。共著には『北京探訪』(愛育社)、『北京を知るための52章』(明石書店)など。
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