まず、もろもろの事情により、前回の連載との間隔がだいぶ開いてしまったことをお詫びします。

二つの証言

 恐らく誰もが確認したくなるのは、梁啓超一家はいったいこの北溝沿胡同23号の家に住んだのかどうか、という問題だ。
 まずは『北京再造』の著者で、梁啓超の息子にあたる梁思成の生涯に詳しい王軍さんに質問してみた。その答えは以下の通りだった。

 「あの故居は、確かに梁啓超のものではないはずです。梁啓超は戊戌の変法以前は宣武門の南にある新会会館に住み、(亡命先の)日本から戻った後は天津にある通称「飲氷室」に住んでいます。北京で公務に就いていた時は、南長街や、清華大学の宿舎に住んでいました。未確認ですが、北溝沿のこの住まいは、梁啓超の長女、梁思順の住所ではないかと疑っています。きっと当時、間違えたんでしょう」

 ちなみに、このうち天津の「飲氷室」はまだ保存されており、記念館になっている。ただ南長街の故居は近年取り壊され、清華大学で滞在した宿舎も1990年代に取り壊された。
 一方、北溝沿の住まいに関してはその後、梁啓超の長女が住んだという点を指摘する記事が見つかった。だが、当時の様子を記録したどの記事や資料を読んでも、梁啓超の「故居」と認定された根拠ははっきりとせず、ただ「聞いたところによると」といった記述しか出てこない。

 では、梁家により近い立場にいる人はどう考えているのだろう。そこで今度は、梁思成の二人目の妻で、梁思成にまつわる多数の文献の整理をしていることでも知られる林洙さんに質問してみた。するとやはり、梁啓超一家がそこに住んだ事実はない、との答えが返ってきた。
 「梁啓超一家は、日本から戻った後、ほとんどの時間を天津か、北京の清華大学内で過ごしているはずです。確か、故居と認定された家は、梁啓超の弟さんの家だったように思います」

 これらの答えに基づくなら、長女にせよ、弟にせよ、実際に梁家の誰かが住んだのは確かだとしても、少なくとも、梁啓超自身はここに住んでいないことになる。

正真正銘の故居は消失

 ここで気づくのは、もし二人の指摘が正しければ、南長街や清華大学の故居が取り壊されている以上、目下北京に残る梁啓超の故居は彼が清末に住んだ新会会館址しかないという事実だ。
 以前このコラムでも言及したように、北総布胡同の故居、つまり梁思成が林徽因とともに過ごした故居も、根強い反対運動にも関わらず、すでに取り壊されてしまった。復元が予定されているとはいえ、元の建物は跡かたもない。そうなると、梁思成の正真正銘の故居は、成人前のものも含め、もう北京には一つも存在しないことになる。
 つまり、古都の文化財の消失を死ぬまで嘆き続けた梁思成は、自らかつて北京で住んだ建物もすべても失ってしまったのだ。生前、彼は北京の少なくとも3カ所で家を構え、しかもその1972年における逝去からまだ40数年しか経っていないことを思えば、北京の変化の激しさを改めて実感せざるを得ない。

沙灘北街にある北京大学地質館跡

◀沙灘北街にある北京大学地質館跡

 唯一の慰めは、梁思成が北京で設計した数少ない建築物たちは、いずれもみな保存されていることだ。人民英雄紀念碑はもちろんのこととして、北京の沙灘にある、林徽因との共同設計による北京大学地質館跡や北京大学女学生宿舎跡も、目下保存されている。地質館に至っては、中国社会科学院法学研究院の形で、今でも本来の校舎としての用途を保っており、2013年には国の重要文化財にも登録された。

 また、北溝沿胡同にある梁啓超の「似非故居」の方も、建物そのものの価値は高いため、故居のプレートは外されても、文化財的価値のある「四合院」として保護されていくことになったという。

「古都」への思いの交差点

 数年前、奈良や京都を空襲から守った「古都の恩人」として、梁思成の碑を建てようという動きが起こり、その後「物的証拠がない」等々の理由から中止された。この点に関し、私は内心、良かったと思っている。その理由は単純だ。梁思成の「国境を問わず、貴重な文化財は保護したい」という願いが、政治利用されずに済むからだ。
 「物的証拠がない」という点に関しては、短期ながら実際にアメリカで調査をしたという王軍さんも認めている。また一部の関係者が重要視する「証言」についても、授業で梁思成が余談として暗示したのを、当時の生徒が覚えている、というものに過ぎない。もちろん、故羅哲文氏が、保護すべき文化財の地図作りを手伝ったという証言をしている。だがその証言も、実は先述の林洙さんは、「あり得ない、記憶違いだろう」と否定している。これは筆者も実際に耳にした言葉で、林洙さんが理由として語るのは、当時の羅氏はそうできる立場にはなかった、という点だ。もし本当であれば、「古都保護説」を固める有力な証言も一つ減ることになる。
 だが、かといって、梁思成に「保護したい」という気持ちがなかったかといえば、決しそうではないと筆者は考えている。むしろ、すでに中国で失われてしまった様式の建築が日本には残っていることを熟知していた梁思成にとっては、日本の古い建物の保護はどう考えても「切実な願い」であったはずだ。そのために昔の人脈を利用してできる限りの提言をした可能性もたいへん高い。
 林洙さんによれば、梁思成、林徽因ともに肉親や近い親戚を日本との戦争で失っているという。それによって生まれ得る強い憎しみを思えば、当時敵国だった日本の古都を守りたい、と願った梁思成の気持ちがいかに貴重なものかは、言うまでもない。

失われたモニュメント

 ここで思い出すのは、山崎朋子氏の著書、『朝陽門外の虹』だ。本書では、戦前、戦中に北京に滞在した牧師で教育者の清水安三が、北京が爆撃を免れるよう、奔走したという事実に触れているからだ。清水安三の提言も、どれだけ実際に作用したのかは証明されていない。だが当時、それがどれほどの勇気を必要としたか、と思うと、畏敬の念を抱かざるを得ない。
 そして、さらに興味深いのは、清水安三氏が一時期住んでいたとされる東堂子胡同と、梁思成と林徽因の故居があった北総布胡同は、実は僅か2本の胡同を挟んで隣り合っている、という事実だ。
 清水安三も梁思成も独自の高い理想をもち、本業であれこれ活躍した人物だから、ここで両者に直接の交流があったかどうかを証明するのは容易ではないし、そこまで必須でもないように思う。ただ東単エリア、ひいては北京という街が、それがとても難しい時代に、文化財の国境を越えた価値を認め、そのために奔走した日中の人物とゆかりがあるという点は、十分魅力的だ。そして、「碑」は無理でも、せめて梁思成の「故居」くらいは昔のままの形で残して欲しかった、との思いを、改めて抱かざるを得ない。