「能・狂言」「地歌」の「流」は、芸風を表している

浄瑠璃:清元節の定番のひとつ「傀儡師」のLP(日本ビクター、1961年、LR-575)

◀浄瑠璃:清元節の定番のひとつ「傀儡師」のLP。浄瑠璃の原点は、この様な芸能を見せながら語る大道芸であり、その原点は、浄瑠璃確立の数百年前に存在した大陸・半島渡来の「散楽師」即ち「猿楽」であった(日本ビクター、1961年、LR-575)

 呼称というものは、区別分別の必要に駆られて生じ確立するもの故に、創世記から分別対照が現れる迄の厳密な呼称は研究者でも分からないと言う。以下(能・狂言に限らず)、その点の確証は得られていないままであるが、後世の呼称に従って説明させてもらう。また、邦楽はいずれも、一般の人々にとって敷居の高いものだが、筆者が教えを受けた邦楽の師匠たちにとってさえも敷居の高い「能楽」を語るのは大変おこがましいという想いがある。ましてや、既成の定説に反する解釈も多い。故に以下、無礼を承知し、お怒りご批判を覚悟で申し上げる。

 そもそも「能楽」の大元は、「田楽」「猿楽」との関係性に端を発する。これに関しては近年(意図的にか?)曖昧に語られる傾向があるので、誤解されている方々も少なくないことだろう。
 「田楽」を簡単に言ってしまえば、農民たちの間から自然発生した農耕にまつわる祭事などの為の言わば素人歌舞団である。それに対して「猿楽」は、これも簡単に言ってしまえば「プロの田楽(など)」なのだ。加えて、「田楽」が土着であったのに対し、「猿楽」は、大陸・半島から来訪した放浪・旅芸人が発端なのだ。 
 「能楽」が、今日あまりに由緒と格式が高過ぎて、専門家はその起源についてでさえ、この様に砕けて言うことは無いし、この様に書く事も許さないかも知れないが。筆者の解釈が当たりであるとすれば、むしろ筆者の一番の専門である「メソポタミアから近代に至る放浪・大道芸人の文化」と大いに関係する。否、そのものかも知れない。

 一般に「田楽」の出現を平安中期とし、「猿楽」を奈良時代とするが、筆者は異を唱えている。多くの専門家も、そう言いつつ「詳しい事は分かっていない」と結んでいる。
 そもそも現在の研究者(殆どが能楽の研究者であり、その起源として猿楽、田楽について論じているのだが)の間でも諸説が入り乱れており、筆者の言う様な本来の田楽を「田舞」とし、「田楽」には、大陸・半島のプロ芸能「散楽」が加味されていると区別して論じる人もあれば、筆者同様「散楽」と「猿楽」を同源同義とし、「散楽」が加味されたものは、「猿楽隆盛(または確立)以降の田楽」もしくは、既に「猿楽」である、とする人も居る。いずれにしても、それぞれの時代、段階に於ける変化変貌や呼称の変化をひとくくりにして論じなくてはならない都合上、ニュアンスの異なりや曖昧さや矛盾、説明不足が多々生じている様でもある。

 筆者の考えでは、「田楽」は、もっと古くから自然発生的に存在していたのだろう。それがある程度専門的になった時代に、(今日の町の秋祭りのお囃子同様に、アマチュア〜セミプロ的なものであろうが) 宮廷雅楽からあぶれた者たち、宮廷雅楽の指導教官として大陸・朝鮮半島から招聘された者たち、及びその子孫などに、新たに大陸から随時渡って来た職業芸人(筆者の専門分野の連中)の「散楽」などが入り交じったものが「猿楽」の基本であったと考える。

 肝腎な事は、「田楽」と「猿楽」の担い手たちの意識・精神性の異なりである。「猿楽」は、「田楽」の連中の様な田畑を持たない故に、土地に対する執着が無いが、その分芸に対する根性が強烈だった。それに比べ「田楽」の連中は、野良仕事が忙しい最中に練習するのは本当は余裕が無かったに違いない。勿論「猿楽連中」が現れる迄は、土地や自然、天候、先祖への祈りは野良仕事に劣らぬ重要性を持って居た筈なのだが。「猿楽連中」がやって来て以降は、「彼ら(猿楽)を呼んで任せた方が良い」となったのも自然の成り行きだろう。そうやって各地で「田楽」が、「猿楽」に取って変わった推移があるのだろう。
 そうして次第に定着して行った「猿楽」は、朝廷に保護されたりされなかったりしながら、あらゆる大道芸能、放浪芸をひっくるめた芸能文化、総合芸術に育てられて行った。その中から現れた芸系を大系立てたり集団を組織化した、狭義の意味の「猿楽」(大和猿楽や近江猿楽など)が、江戸時代になって「能楽」と呼ばれる様になったのだと解釈している。
 ここで肝腎なことは、「大和猿楽四座」の様に、後に直接的に「能楽」の流儀に発展するものばかりを「猿楽」とする研究者のニュアンスではすべてを語ってはいないということだ。それらは、前述の様にあくまでも「芸系の体系」及び「組織の確立」、即ち、確固たる「座」を持った、言わば特殊な例であったと考える。これは寺社、武家、貴族の後ろ盾も大きく関与するが、それ以前に、後ろ盾が有ってこそでもあろうが、「座」組織の確立と「小屋」の確保が絶対的な基盤であったに違いない。より正確に言えば、お客衆一般にとっては「座」が流儀、一門の象徴であるが、演者担い手たちに とっては、已然「流」がアイデンティティーであったのだろう。遠く先祖のシルクロードを放浪吟遊した「散楽」の魂の記憶があれば、「座=小屋」を持とうとも、権威ある寺社に召し抱えられようとも、芸と技のみ頼りの精神性が「流」を重んじたに違いない。

2005年の韓国時代劇映画『王の男』角川書店:DABA-90833

◀2005年の韓国時代劇映画。「廣大」と呼ばれる「散楽」を伴う大道芸人が、李朝鮮王朝史最悪の暴君と言われる「燕山君」に気に入られ宮廷に囲われる話し。朝鮮半島では、日本の「田楽」に相当する「農楽」と、「廣大」らが演じる芸能の音楽を区別する名称は無かった。「廣大」が演奏しても「農楽」は「農楽」だったのだ。逆に、「廣大」という階級制度の呼称の他にも「男寺党(ナムサダン)」などの芸能集団の呼称が良く知られている。いわゆる韓流時代劇だが、日本の「田楽」と「猿楽」の前駆形態を知ることが出来る有難いドラマであった。冒頭の写真で紹介した日本の浄瑠璃「清元節」の「傀儡師」と同じ指人形が登場するのも興味深い(角川書店(:DABA-90833)

 逆に言えば、大和猿楽四座や近江猿楽六座のように「座」を持たなかった「猿楽」は、古代の伝統を踏襲していたより本物の「猿楽」と言える訳だ。それらの存在を割愛して、能楽の前駆である一部の特殊な例のみをして猿楽を語るのは如何なものであろうか? 
 この様な「流」という呼称や概念は、武術・剣術に既にあったと考えられるが、それらと同様に「能・狂言」の「流」も、「同一の様式の中の微妙な個性」を「流」と呼んだに違いない。剣なら剣、槍なら槍、弓なら弓、能楽なら能楽という単一の社会(業界?)の中での個性である。故に、初代から「流」を名乗ることが可能だったのだろう。即ち「能・狂言」の「流」は、「ながれ=系譜、芸系」ではなく、個性的な流儀(狭義)を意味するものであったということだ。

 時代的には、二百年ほど後になるが、貴族、上流階級、豪商が好み、花柳界にも弟子を多く持った「地歌・箏曲」が、武士が好んだ「能・狂言」の「流」の呼称に倣うのはごく自然なことだったのだろう。「地歌」は、その創世記に早々と「流」が現れている。この初期の「流」も「能・狂言」と同じく、個性的な流儀(狭義)を意味するものであった(実際に)。

 ここに重要なポイントがある。前述の理由から、「流」はいずれも、創始の初代から名乗ることが出来た代わりに、初代一代限りで終わってしまう場合もあったであろうが、後継者に恵まれ後の結果として、初代自らは、その「源流」となることを想定(希望、切望)してたと考えられる。その、言わば「縦の意識」に対するのが、弟子を増やしその時代、リアルタイムの権力を強固にしようとする「横の広がりの意識」だ。弟子が増えれば「一門」という存在感が増す。人間が増えればズレも生じ、分かれ出る者が出れば「分派」即ち「派」の観念が生まれて行く。「縦」にしても「横」にしても、人間の関わりが増すことに比例して、芸の本質や真髄とは相反する、社会的、政治的、経済的な要素が増して行 くものである。 
 故に、芸能、文化の本質を見極めようとするならば、あたかも「蔦や苔」がこびりついた樹木や、「フジツボやイソギンチャク」がこびりついた魚貝を、「蔦や苔やフジツボやイソギンチャク」を取り除いて見極めねばならないかの様な認識が不可欠なのだ。逆にその様に本質とまとわりついたものを分別する意識、認識力が確かであれば、それらまとわりついたもの自体からは、人間性、社会性、日本人の性質、思考性などが露に見えて来るのである。むしろ後者のより深い考察によって、前者の本質理解も深まるというところもあるが、後者の検証は、様々な分野に於いて、その未検証のツケが破綻を招いている様な現代日本には、大いにすべき意味を持つのではないだろうか?