我が輩は狼である。チベット固有の文化の一つに「鳥葬」というものがある。
死体を火にくべる葬儀が火葬。死体を土に埋める葬儀が土葬。死体を水に流す葬儀が水葬。これらと同じように鳥に食べさせる葬儀が鳥葬だ。死んでしまえば、ただの肉だろうに、人間という生き物は死体の始末にすら、多彩なバリエーションを持っている。

 冒頭で「鳥葬」がチベット固有の文化だと紹介したが、実はチベットにだけ固有というわけでもない。ゾロアスター教徒たちも、鳥葬を行ってきた。もっとも、ゾロアスター教徒が鳥葬を行う理由は、チベット人が鳥葬を行うのとだいぶ違う。ゾロアスター教は、日本では別名「拝火教」とも呼ばれるように火を神聖視する。その神聖な火が、死体によって穢されることを嫌い、ゾロアスター教徒たちは鳥葬を行うそうだ。我が輩の記憶が確かなら、たしか人間社会の中には、火によって清めるという意味で火葬を行う文化も存在していたはずだ。同じように、火を聖、死体を穢れと見ながら、相反する文化が存在するあたり、人間という生き物は面白くもあり、不合理でもある。

 それでは、チベットではなぜ鳥葬が行われるのか。我が輩の言うとおり、死んでしまえばただの肉だからだ。人は死ぬと、魂は肉体から離れる。魂のない抜け殻は、ただの肉であり、もはやいらないものだ。それならば、他の生き物の餌として役立てることが功徳になる。そんな考え方から行われている葬儀らしい。
 また、鳥に食べられることによって、天に運ばれるという考え方もあるようだ。同じような文化は、モンゴルにもある。鳥や、狼に死体を食べさせるというものらしい。モンゴルでは、蒼き狼と白き牝鹿がジンギスカンの先祖という伝承があるように、我が輩たち狼に対する扱いが良いようだ。たいへん良いことだ、世界各国が真似をして、狼葬がスタンダードになってくれれば、我が輩たちも狩の手間が省けて良いのだが。

 鳥葬と聞くと、死体を野ざらしにして、鳥に啄ばませるだけの、お手軽な葬儀と思う者もいるかもしれない。ところが、実際のところ、かなり手間のかかる葬儀だ。考えてみてもらえば解ることだが、鳥たちがきちんと食べてくれずに、食べ残されてしまうと死体はかなりたちの悪い状態になる。残さず食べてもらうために、死体を食べやすい状態にしなければならない。そのための専門の技術を持った人が、食べやすいように死体に切れ目をいれていく。彼らの地位が技術者なのか、宗教的なものなのか、我が輩の目では、よくわからなかったが、彼らを雇うのもそれなりの価格がするようだ。
 そのため、金のないものは、鳥葬ではなく、水葬にする。川に流すことで魚の餌として肉体を布施にするということだろう。アジアの多くの河川の源流であるチベットで水葬が行われているというのは、文明人からしたらシュールかもしれない。しかし、貧富の差が、生きてるときだけでなく、死にまでついてまわるとは、人間ってやつは、本当にめんどくさい生き物だ。

 ところで、チベットのお隣中国では、どのような葬儀が一般的なのだろうか。中国では数千年に渡って土葬の文化があった。余談だが1980年代、TVのCM等でも中国三千年の歴史と盛んに言っていたが、いつのまにか中国四千年の歴史になっている。おそらく22世紀になるまでに中国一万年の歴史になることだろう。
 脱線したが、中国では1950年代まで数千年に渡って土葬が一般的だった。ところが中華人民共和国を建国した毛沢東は、火葬を推進した。これは、衛生上の理由や将来土葬に必要な土地が不足することへの危惧からだった。別に文化大革命で知られるように彼が何でも燃やし尽くすのが好きだったからではないことは故人の名誉のために付け加えておこう。毛沢東の先見の明の通り、実際近年の発達で都市部では墓地として使用できる土地が不足してきた。その結果都市部では現在は半数以上が火葬となっている。

 それでもなお、中国の伝統的な葬習慣は土葬といって差し支えがないだろう。土葬は、単なる葬儀に終始せずに、風水にも結びついている。風水については、お前さんたちの国でも一時期ブームもあったことだし、詳しくあるいはなんとなくは知っているかと思う。こっちの方向が気脈がいいだの、この色が運気が良いだのというやつだ。風水の思想でいくと、死者もまた気脈の一部だそうだ。そのため、何か悪いことが起きた時に、わざわざ埋葬済みの死体を掘り返して風水的に計算した方位に埋めなおすなどという習慣もあったそうだ。

 死んでしまえば肉体はただの肉として他の生き物に布施で与えるチベットの思想と、死してなお埋まってる場所で家族に影響を与えるという中国の思想。極めて対照的で面白い。中国とチベットが歴史的に同一の存在であったという中国共産党の主張に反して、両者の文化が全く異質であることが、こういう部分からもうかがうことができる。